61. どうやら、ここまでのようです
(わたくしは、ここで死ぬの……?)
婚約破棄後の巻き戻りの人生は、いつも同じとは限らない。
繰り返される出来事もあれば、まったく違うものもある。記憶を頼りに同じように振る舞っても、結果が変わることは珍しくない。前の人生で会えたはずの場所に行っても、違う人がいたり、会話の内容が少しずつ違っていたりする。
婚約破棄までは、まるで舞台の台本をなぞるかのように出来事が進んでいく。それなのに、あの場面を境に、世界は部分的に書き換えられてしまう。
オペラの演目のように従順に役割を演じていた人々が、操られていた糸がぷつりと切れたかのように、急に違う行動を見せる。まるでチェス盤の駒が、勝手にすり替わってしまったかのような変化だ。
運命の砂時計を自由に操れるのは、神々だけなのだろう。セラフィーナにできるのは、今度こそ死ぬものかと、何度もあがき続けることだけだった。
(まったく同じ人生なんて一度もなかった。……だけど、変わらないものもある。たとえば、ディック殿下がマリアンヌ様を選ぶ未来。二人の婚約に伴う、ユールスール帝国とシルキア大国の友好条約。魔女と魔法使いを巡る世界情勢、マルシカ王国の動向、そして────自分が三年以内に魔女として裁かれるという未来)
その限られた未来の断片を、セラフィーナはラウラとアルトに語った。自分の話を信じてもらうために。二人との信頼を築くために。
何度もループしてきた中で、ラウラは初めて出会った貴重な『魔女』だった。彼女がそばにいてくれれば、不可解な死のループの謎を解き明かせるかもしれない。
ただ、記憶があるからといって、すべてが思い通りに運ぶとは限らない。領地追放後の人脈だってそうだ。一から築き直すしかない。
それでも、今度こそ誰かと歩める未来を手に入れたかった。
(もしあのとき、下級女官の誘いを断っていたら……ラウラ先輩やアルトさんと、ここまで親しくなることはなかった。エディ様にだって)
今こうしてクラッセンコルト公国で下級女官をしているのは、レクアルの第二妃に望まれたから。その偶然がくれた出会いが、今のセラフィーナにとってどれほど大きな意味を持つのか。ようやく、わかりかけていたところなのに。
もし今ここで命を落とせば、もう二度とこの日々は取り戻せない。
エディが自分を気にかけることも、ラウラが笑ってくれることも、アルトの明るさに救われることも。
何もかもが、なかったことになってしまう。
すべての思い出が白紙に戻され、世界は何食わぬ顔で、新しい朝を迎える。
(どうしてかしら。今までで一番、死ぬのが怖いなんて……)
これまで何度も死を経験してきた。魔女裁判で火に焼かれる結末も、覚悟はしてきたつもりだった。
だけど、今回の死は違う。こんなにも大切な人たちと出会って、ようやく心から「強く生きたい」と願えるようになったのに。
ふと、自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。
冬場でもないのに寒気が止まらない。震えを止めようと、自分の体をきつく抱きしめる。それでも、不安の芽は胸の奥でじわじわと膨らんでいくばかりだった。
思わず、ぽつりと声がこぼれる。
「……た、たすけて…………」
忘れたくても忘れられない、魔女裁判で行われる火刑の光景がありありと蘇る。
咎人の身を焼き尽くす業火。ゆらゆらと迫り来る炎が頭をちらつき、現実との境目がわからなくなる。
――――疑わしき者は罰せよ。
大広場での公開処刑なんて、ただの見せしめだ。裁判という言葉を使っていても、弁護人など存在しない。最初から討論の場でさえ用意されてはいない。
魔力の有無に関係なく、魔女であると疑われた時点で終わりだ。女に生まれたことを呪っても、助けてくれる者などいない。下手にかばい立てすれば、魔女に与する者として同様に罰せられるのだから。
シルキア大国において、魔女は悪の象徴だった。
魔女狩りに正義も大義もない。あるのは、国王の狂気じみた執着と殺意だけだ。本当におそろしいのは魔女ではなく、自国の王であることになぜ誰も気づかないのか。
疑われるような行動をするなとは言うが、恨みを買った男が逆上して密告など日常茶飯事だった。ある日、一方的に魔女だと断じられて悪の烙印を押される。あまりにも理不尽な仕打ちだ。
悪趣味な公開処刑に群がる民の熱気もまた、異常だった。
彼らに人の心はあるのだろうか。愉悦や畏怖に歪んだ瞳を見るだけで吐き気がする。中には、高位貴族とわかる華美な衣装をまとった者たちもいた。
彼らにとって、これはただの余興。無関係だからこそ、平然と眺めていられる。
憂さ晴らしのように投げられた小石が体に当たり、痣が増えていく。痛みに顔をしかめるたび、彼らは笑い、暴力はさらに加速する。無力な魔女を責め立てるその姿こそ、むしろ悪魔のようだった。
死ぬときはいつだって、独りぼっちだ。
周りを取り囲むのは野次馬ばかり。助けは、決して来ない。「次こそは生き延びてやる」と奮い立つ自分を嘲るような視線にさらされながら、短い生涯に幕を閉じる。
幾度も迎えた最期のように、火で炙られ、これから自分は死ぬのだ。
(違う、違う……! ここはシルキア大国じゃない。わたくしはまだ魔女だと疑われたわけじゃない。しっかりするのよ、セラフィーナ! ここはクラッセンコルト公国。わたくしは宮殿に勤める下級女官。周囲には頼れる味方がたくさんいる。悲観に沈んで未来を混同しては、だめ……っ)
脳裏に焼き付いた火あぶりの残像を、必至に首を横に振って追い払う。
落ち着け。冷静に。まだ諦めるには早い。
いくら辺鄙な場所とはいえ、ここは宮殿の敷地内。遠くからでも煙が立てば、誰かが異常に気がつく。夜は騎士の巡回もあるはず。運がよければ、助けてもらえる可能性はある。
(ここで終わりになんて、したくない。してたまるものですか)
ループするたび、追放後の人間関係はリセットされてしまうが、記憶だけは確かに引き継がれている。すべての経験や失敗は自分の中に蓄積されている。
一度目は庶民として生き抜く術を、二度目は違う職業での苦労と下町のルールを、七度目では遠い異国で自分の魔力の数値を知った。
そしてループ八回目にして、ようやく魔女と知り合った。
自分の魔力量が実は規格外であること。魔力が『ゼロ』に見えるように意図的に偽装されていること。さらに魔法の行使すら封じられていること──ラウラからもたされた事実は衝撃の連続だった。
(何度も死に戻りをしてきた。でも、エディ様に出会えたこの人生だけは、終わらせたくない。……この人生で出会えた人たち、大魔女の生まれ変わりや魔法騎士との縁。この出会いは、きっと未来に繋がる。繋げてみせる……!)
同じ結末など、二度と繰り返さない。終わりのない運命の輪は、前回で最後にする。
それに、まだやるべきことがある。
魔女と疑われる理由の解明。そもそも莫大な魔力量はなぜ封印されているのか。死のループから脱却するための突破口だって、まだつかめていない。心残りが大きすぎる。
唇を噛みしめたとき、天井付近でパキッという嫌な音が響いた。
「まさか……」
おそるおそる見上げると、梁の一部が焦げて、ひび割れていた。
黒ずんだ木片が弾け飛び、床に小さな火の粉がぱらぱらと降ってくる。灰混じりの煙とともに、細かな炭くずが落ちてきたので、セラフィーナは急いで入り口の方角へ移動する。
だが、パチパチと断続的に爆ぜる音が耳に刺さり、頭の中に警鐘が鳴り響く。
出入り口は塞がれている。逃げ場はない。
わかっている、わかっているのに、胸の奥で焦燥が膨れ上がっていく。
足がすくみ、背筋が凍りつく。胸がきゅっと締めつけられ、息が詰まる。
(もう、だめかもしれない──)
今度こそ生き延びて、自らの力で未来を切り開こうと決めたのに。
どうして、こんなにも毎回、理不尽に命を奪われなければならないのか。
一体、自分が何をしたというのか。
死ねば終わるはずの命すら、終わらせてはもらえない。これが運命だというのなら、あまりにも残酷すぎる。神々は何を望み、どこまで試すつもりなのか。
梁が重く軋み始め、まるで建物全体が息苦しさに呻いているような音を立てる。火の粉が勢いを増し、脈拍が跳ね上がる。
恐怖と焦燥がせめぎ合い、心の奥底まで焼け尽くされそうだった。
(間に合わない。……崩れる……!)
バキィッ!と梁の一部が崩れ落ち、炭化した木片と閃く火花が雨のように舞い落ちる。
床や樽、木箱に次々と火の気配が次々と走り、室内はたちまち燃え盛る朱に染まった。轟音が響き、塵と煙が渦を巻いていく。
セラフィーナは頭を覆い、とっさに目を閉じる。
室内の温度が急激に上昇し、酸素が薄れていくのがはっきりとわかる。
(…………死にたくない)
熱風が頬を撫で、意識が朦朧としてくる。視界がかすむ。ふっと膝から力が抜け、何かをつかもうとした手は空を切り、そのまま横に倒れた。
もう二度と会えないかもしれない人たちの顔を順に思い浮かべ、心臓が強く締めつけられる。
この出会いをなかったことになんて、したくないのに。
もう一度、彼らと笑い合いたい。まだ終わらせたくない。ここで終わりなんて嫌だ。
身体は鉛のように重く、指先ひとつ動かせない。呼吸は浅く、咳をすると喉が焼けるほど痛んだ。視界が、滲んだ。
死を目前にした今、望むのはたった一人の──
けれど、もう会えないという絶望が、呼吸よりも先に意識を呑み込んでいく。
彼の声を聞くことはもう二度とないのだろう。最後にせめて、声だけでも聞けたなら。
薄れゆく意識の中、セラフィーナは小さくつぶやいた。
「っ……エディ、様……たすけ、て……」
命の灯火が消えかけたそのとき、自分の名を呼ぶ声が遠くで聞こえた気がした。