60. 最初からそのつもりだったのね
宮殿の中庭を抜け、使用されなくなった旧厨房棟の裏手に向かう道は、石畳の継ぎ目に草が伸び放題になっていて、誰も近づかないことがありありとわかる。
道中、案内役の上級女官は終始無言だった。セラフィーナも足元に注意を払いながら、静かについていく。
(宮殿の北東に、こんな寂れた建物があったなんて……)
目的の建物は、かつて厨房として賑わっていたとは思えないほど、ひっそりとしていた。壁の漆喰はところどころ剥がれ、厚い木製扉の周りには蔦が絡みついている。かろうじて残る厨房の面影といえば、煙突の根元にうっすらと残る煤けた跡ぐらいだろうか。
現在は倉庫として再利用されているというが、封印されたように静まり返っていて、人の気配はまるでなかった。
上級女官は重厚な木の扉の前で足を止めると、ポケットから鉄の鍵を出してジーニアに手渡す。
「あとはお願いね」
「承りました」
ジーニアの返事に小さく頷くと、上級女官はもう用はないとばかりに、軽い足取りでその場を去っていく。セラフィーナは戸惑いながらジーニアを見やった。
彼女は素っ気ない様子でかんぬきを外し、鍵を鍵穴に差し込む。カチャリという音とともに扉を押し開けると、錆びた金属の軋む音が辺りに響いた。
「私は一階を探すから、あんたは地下ね。その資料は入り口の机にでも置いて、まずは記録を見つけるわよ」
「……わかったわ」
ジーニアは言うだけいうと、さっさと中に入っていった。
セラフィーナはわずかに躊躇したが、紙の束を抱え直して後を追う。
建物の内部は、外見以上に荒れていた。木製の棚や使われなくなった調理台、割れた壺や食器が無造作に押し込まれ、足元には埃がうっすら積もっている。ろくに掃除されていないのか、天井には大きな蜘蛛の巣があった。
照明はなく、室内は天井の通気口からわずかに光が差しているだけだった。
(ここが本当に倉庫として使われているのかしら? それにしては、長く誰かが出入りしていた形跡もないけれど……。あ、そうだわ。探す前に、この書類を机に置いておかなくちゃ)
大事な書類だ。うっかり落としてしまえば、汚れて読めなくなってしまう。
入り口近くの机の埃を手で軽く払ってから、紙の束をそっと置いた。
セラフィーナは地下へ通じる階段をゆっくりと下りていった。ひんやりとした空気が肌を撫でる。地下室は、かつて食材の保存室として使われていた名残があり、レンガの壁には黒い煤がこびりついていた。
空気は湿っていて、カビと古木の匂いが混ざっている。
「思っていたより、ずっと暗いわね……」
手探りで棚をなぞりながら、セラフィーナは控え資料と似た書類を探そうとした。けれども、指先に触れるのは埃と朽ちかけた紙ばかり。
(こんな場所に大事な記録を保管しているなんて……不自然すぎる)
しばらく暗い中を歩いたおかげか、多少は目が慣れてきた。ぼんやりと見える風景は、当時のまま物が雑然として置かれているだけで、資料が置かれそうな真新しいものは見当たらない。
資料の仮置き場は、やはり一階なのかもしれない。同じように一階を捜索しているジーニアに尋ねよう。──そのときだった。
上の階から、何かが大きく軋む音がした。古い建物だ。何があってもおかしくない。
急いで階段を駆け上がると、開け放たれていたはずの扉が閉じられていた。外から差し込んでいた明かりが途絶え、部屋全体が急に薄暗くなる。
「……ジーニアさん? どこにいるの?」
呼びかけた声は、しんとした空気に吸い込まれたまま返ってこない。
沈黙が落ちる。いくら待っても、返事はなかった。
代わりに聞こえたのは、ガタンという鈍い音。まさかと思い、扉に手をかけて押してみるが、びくともしない。
何度押しても、扉はぴたりと閉ざされたままだった。そのとき、セラフィーナは悟った。先ほどの音の正体に。
(しまった、かんぬきを閉められたんだわ! 最初から閉じ込めるつもりだったのね)
ぱたぱたと遠ざかっていく足音が聞こえる。
この寂れた場所に偶然通りかかる者などいない。大声を出したところで、誰かが気づくとも思えない。
(他に出入り口か、窓は……)
足元に注意しながら、慎重に一階を見て回る。
二階へ続く階段は、途中から板が外れていて、とても登れそうにない。老朽化によるものだろう。
一階の窓はすべて板で打ち付けられていたが、北西側の小窓に、一箇所だけ打ち付けがゆるんでいる箇所を見つけた。そこから、わずかに外の光がもれている。斜めに差し込む陽光が、床を淡くなぞっていた。
その一角だけがほんのりと明るく、床や棚の埃が目視できる程度だった。目を慣らせば、読書ぐらいはできそうだ。
(小さな明かりだけど、何もないよりもずっとマシね。希望があると信じられる)
他に出入り口は見当たらなかった。無駄に体力を消耗させるよりは、温存させておくほうが賢明だ。
(ラウラ先輩は確認を終えたら、すぐに戻ってくる。ジーニアさんがどう誤魔化すかはわからないけど、さすがに朝までに帰ってこなければ、きっと助けに来てくれるはず。たった一晩、耐えればいいだけ。……うん、大丈夫)
自分を励まし、「しっかりしなきゃ」と小さくつぶやき、両手を軽く握る。
(あ、そういえば……入り口に置いていた控えの資料……)
大事な書類だ。紛失してはまずい。そう思い、入り口近くの机の上を探すが、そこには何もなかった。
この状況で風に吹き飛ばされるとも考えにくい。だとすれば、ジーニアが持っていったのだろう。ひょっとしたら、証拠隠滅のためかもしれない。
(この用意周到な嫌がらせは、今までとはまったく違う。プリムローズ様はあの場にいなかったし、不審な動きを見せていたのは……バイオレット様。なるほど、これはきっと彼女の計画ね。本当に敵に回したら厄介な人だこと)
レクアルの件で、やはり根に持たれていたのだろう。
自分の手を下すことなく、周囲の人間を使い、自然な流れでターゲットを追い詰めていく。物語に登場する悪役令嬢とは正反対だ。
バイオレットはあくまで無関係を装いながら人を動かす──だからこそ、騙された。
(おそらく、ジーニアさんは最初からこの計画を知らされていたのでしょう。あの上級女官は、頼まれ事をこなしただけって感じだったけど……誰にも関心がないような態度だったから、胸の内まではわからないわね)
セラフィーナは北西側の部屋に戻り、古びた丸椅子の埃を手で払ってから腰を下ろす。
ギシギシと軋む音がしたが、座れるだけありがたい。とはいえ、手持ち無沙汰で暇を紛らわせるものもない。
もし読みかけの本があれば、有意義な読書時間になったのに。
そう思っていたとき、棚と棚の隙間に、何かが落ちているのが目に入った。
慎重に手を伸ばすと、糸綴じの冊子が出てきた。表紙はすっかり色褪せている。
「昔の料理帖……? 助けが来るまで、こちらを読んでいましょうか」
ぱらりとページをめくると、昔の料理人によるレシピが、イラストつきで丁寧にまとめられていた。
◇◆◇
太陽が沈んで、どのくらい経っただろうか。
火種もなければ蝋燭もない。もちろん、燭台だってない。ないない尽くしの中で、セラフィーナができることは、暗闇の中で耳を澄ませることだけだった。
昼間から周囲の音には神経を張っていたが、足音は一向に聞こえてこない。どうやら騎士の巡回コースからも外れているらしく、聞き取れたのは、鼠と猫の鳴き声だけ。
鼠退治に精を出す猫の猛攻から、必死に逃げ回る小さな生き物たちの攻防は、数分の格闘の末に決着したらしい。だが、その勝敗がどちらに渡ったのか、室内にいるセラフィーナには判別がつかなかった。
(この前もラウラ先輩に心配をかけたばっかりだったのに……不甲斐ないわ。今回のことは不可抗力でもあるけれど)
どんどん頼ってほしい、とラウラに言われたのは記憶に新しい。
教育係より上級女官のほうが立場は上だ。業務上の指示であれば、従わないわけにはいかなかった。
時計がない今、時間を確認する術もない。夜が明けるまで、あとどれくらいだろうか。
そんなことを考えていたとき、ふと変な臭いに気づいた。
焦げ臭い匂いに、セラフィーナは顔をしかめ、ハンカチで口元を押さえる。きょろきょろと左右を見渡した。
(……この匂い、煙? どこかで何かが燃えている? でも、どこから?)
注意深く観察しながら耳を澄ます。
パチパチと燃えるような音は、頭上から聞こえた。
それは突然だった。先ほどまで感じなかった匂いが、風の向きが変わったのか、一気に鼻先を刺してくる。
鼻をつくような煙の匂いが、隙間風に乗って室内へと流れ込んできた。視界こそ保たれていたが、空気は乾いて熱を含み始めていた──まるで何かが、近づいてきているように。
(うそ……階段の上に煙が。火元はこの倉庫のすぐそば……!? まさか、これも嫌がらせの一環……?)
いや、それはない。さすがに、彼女たちだって命まで奪うつもりはないはずだ。
ただ閉じ込めて困らせたかっただけ。レクアルに近づくなという警告だったのだろう。きっと、頃合いを見て木の板を外すつもりだった。そう考えるのが自然だ。
(もしかして偶発的な事故? いえ、そんなことより、逃げ場がないこの状況では)
遠からず、自分は黒焦げになるだろう。今までのループでの結末と同じように。
嫌な未来を連想した途端、恐怖が背筋を駆け抜けた。
その場に足が縫い付けられたように動けず、呆然と立ち尽くす。
扉は沈黙を保ったまま、まるで誰かの意思で封じられているようだった。窓には板が打ち付けられ、逃げ道は完全に塞がれている。
建物の外で火が回れば、どうなるか。煙は一気に室内に満ち、火の手が回る前に肺が焼け、声を上げることさえできなくなる。
心を塗りつぶすのは、世界すべてを覆い尽くす漆黒の闇。ここでいくら叫んでも、助けを呼ぶ声は届かない──
確実に、死の足音が近づいてきていた。
この場所で焼け死んだ記憶は、まだどのループにもなかった。けれども、今回は違うかもしれない。運命の幕が下ろされる幻覚が見えた気がした。