6. 初めての仕事
母国では皇太子妃になるべく、昔から妃教育に励んできた。宰相である父親の教育方針で外交に強くなるように、あらゆる知識を叩き込まれた。それに加え、ループ時代では郵便工房での伝票管理や仕分け業務をしていたため、書類整理は慣れたものだ。
担当部署ごとに並べ替え、内容が重複しているものは日付順に、種別がわからないものはまとめて端に置いておく。一通りチェックが終わったところで、ラウラが戻ってきた。
「ただいまー。どう? 作業は順調?」
「はい。今終わったところです」
「え、はやっ! もう終わったの? あんなにたくさんあったのに……」
「判断に困ったものは端によけています。あとでご確認いただけますと幸いです」
ラウラが半信半疑といった様子で、仕分けした巻物を手に取って確認していく。間違いがないかをチェックされるのは少しドキドキした。
「うん。問題なさそうね。……でもびっくりしたわ、飲み込みが早いのね」
「いえ。まぁ、多少は慣れていましたので……」
「慣れる?」
どうやら、ここに来るまでの経緯はラウラには伝わっていないらしい。さて、どう伝えるべきか。
セラフィーナは目元を伏せ、自分の右手を左手でぎゅっと包み込んだ。
「わたくしはユールスール帝国出身で、実家はアールベック侯爵家でした。妃教育の一環で、書類仕事も一通り仕込まれました」
「え、妃教育!? ていうか、侯爵家ってお貴族様じゃない!」
「今は平民です。その……ディック皇太子から婚約破棄をされて領地追放となったところで、レクアル様に拾っていただきました。本当は第二妃に望まれたのですが、それは固辞して宮殿で働くことになったのです」
ラウラは理解が追いつかないのか、額に手を当てて眉根を寄せている。
「…………どこから突っ込んでいいのか、わからないのだけど。もともとは皇太子妃になる予定だったってことで合ってる?」
「そうなります」
「レクアル様の推薦だとは聞いていたけど、まさかそんな経歴のお嬢様だったとは……。本当に大丈夫? ここは結構こき使われるわよ」
「覚悟の上です。実家からは勘当されていますし、わたくしは自分の力で生きていくと決めましたから」
ただの令嬢ならば、とてもついていけないだろう。
しかし、セラフィーナはこのループ人生で平民の生活をずっとしてきた。稼げる金額は毎日を生き抜くのにギリギリで、水仕事で手が荒れるのも慣れている。
長いループ人生のせいで、半分は平民みたいなものだ。今さら恐れるものなどない。
「ふうん? まぁ、訳ありの子が宮殿に集まるのも珍しくないしね。……そうそう、これ。あなたの仕事着よ。サイズは問題ないと思うけど、一応、着てみてくれるかしら」
ラウラが腕に持っていた布一式を両手で受け取る。
長袖の黒のワンピースだ。上等の生地を使っているのか、使用人の服にしては触り心地がいい。
清潔感のある純白の角襟には、ワンポイントに金の刺繍糸で模様が縫われている。ワンピースの裾は足首まで覆うロングタイプだ。右腰から膝上まで垂らす腰帯は、ラウラと同じ灰色だ。帯の先端には蓮の花が描かれている。
「灰色が下級女官の色よ。上級女官は紅色。文官は緑色の官僚服。一般的な騎士は青地で、近衛隊は白地の騎士服ね」
「色でどこの所属かわかるようになっているんですね」
「まぁ、そういうこと」
衝立の向こうで着替えを済ませて戻ると、ラウラが両手を合わせた。
「うん、いいじゃない! よく似合っているわよ」
「とても着心地がよくて、肌に馴染むのがわかります」
「そうでしょう、そうでしょう。宮殿で支給されるお仕着せは生地もいいものを使用しているから、新人からも結構好評なのよ」
得意げで言うラウラは机に置いていた巻物を腕に抱え、残りを持つように言う。両手に分けて持つと、ラウラが部屋を出るところだった。
「さあ、これを書庫に届けるついでに案内するわ」
「は、はい」
「大公宮殿は二つの宮殿があるんだけど、セラフィーナも見たでしょう? 大きな門」
「鉄の門ですね。装飾が見事でした」
三つの鷲のオブジェがこっちを見下ろす、見上げるほど大きな門だった。
「でね、奥に大公ご家族が住む宮殿があって、その前には金の門がそびえ立っているのよ。通してもらえる女官は上級女官のみ。身体検査もあって、入るときも出るときも厳しくチェックされるらしいわ」
「でしたら普段、レクアル様がいらっしゃるのは奥の宮殿ということですか?」
「んー……レクアル様は神出鬼没だからね。厨房に現れたり、下級女官部屋に差し入れを持ってきたり、予想がつかないのよね」
その様子が容易に想像できてしまうあたり、なぜか悔しい気分になる。人の予想の上をいく行動で、周囲を驚かせて楽しげにしている姿が目に浮かんだ。
「……確か、レクアル様にはご兄弟がいらっしゃいましたよね?」
「ああ、二人のお兄様ね。一人は歳が十も離れた次期大公クラヴィッツ様、もう一人は一つ違いのニコラス様。二人とも公務で忙しくされているから、私たちが会うことはまずないでしょうね」
「そうなのですね」
相づちを打っていると、ラウラが立ち止まる。
白い観音開きの扉の上には、「書庫」と書かれたネームプレートが掲げられている。ラウラは銀の取っ手をつかみ、扉を開ける。瞬間、本の匂いが鼻をかすめた。
「ヘレーネ」
ラウラの呼ぶ声に、分厚い本を読んでいた眼鏡の女性が顔を上げる。彼女はパタンと本を閉じ、スリットの入った緑の服の裾をさばきながら笑顔で出迎える。
「ラウラちゃんがここへ来るなんて珍しいね。今日は何の用?」
「まずはこれを受け取って。上級女官から書庫に片付けておくように言われたの」
「……それで、その子は新入り? 見ない顔だけど」
ラウラから受け取った荷物をカウンターに置くと、ヘレーネの視線がセラフィーナに向けられた。
小柄なラウラよりはいくぶん背が高いが、セラフィーナの目線よりは低い。ゆるく編んだ三つ編みを前に垂らし、顔つきは幼く見える。だが、ラウラと気さくに言葉を交わす様子から察するに、年下ということはないだろう。
とりあえず愛想笑いを浮かべてみる。しかし逆効果だったのか、眼鏡のレンズの奥で彼女の目がすっと細くなった。突き刺すような視線に困り果てていると、ラウラが後ろからセラフィーナの両肩を包み込む。
「セラフィーナっていうの。期待の新人よ」
「へえ。ラウラちゃんがそこまで言うなんて、よっぽど優秀なんだね。訳ありの子?」
「元は貴族令嬢だったみたいだけど、結構肝が据わっていて意外とたくましいわよ」
「ああだから、こんなに顔が整っているんだ。所作も美しいし、ドレスを着せても馴染みそう」
「きょ、恐縮です……」
それにしても、ヘレーネのプライベートスペースは狭いのだろうか。
セラフィーナが後ろ足で距離を取ろうとするたび、無言で一歩詰め寄ってくる。
(ど、どうして……?)
頬が引きつりそうだ。その間も熱視線は止まらない。さすがに気まずくなってラウラにヘルプの念を送るが苦笑いが返された。万事休す。
と思っていたら、ヘレーネの細い指がセラフィーナの両手をつかんだ。
「ね、ねえ。このあと時間ある? フリフリの服を着てみたくない? きっと似合うと思うの!」
「…………遠慮させていただきます」
「そ、そんな……」
さっきまで爛々と輝いていた瞳から生気がなくなり、しおれた葉のように肩を落としている。罪悪感がこみ上げてきたとき、ラウラが明るい声で言う。
「私たちは他にも行くところがあるから。またね」
「うん……わかった……」
まだ打ちひしがれているのか、地を這うような声が返ってきた。だがラウラは頓着せず、そのまま書庫を後にした。