59. 一難去ってまた一難
仕事の空き時間ができたので、セラフィーナはラウラと一緒に下級女官の部屋へ向かった。少し休憩を取るつもりだったが、室内は何やらざわついている。ラウラと目を合わせ、そっと中を覗くと、レクアルとエディの姿があった。
ドア越しにちらりと見えたのは殺風景な仕事部屋──のはずが、二人がいるだけで、まるで花が咲いたような空気が部屋を満たしていた。
(神出鬼没とは聞いていたけれど、本当にどこにでも現れるのね……)
テーブルには色とりどりのマカロンが詰まった箱が置かれていた。女官たちは、滅多に食べられないお菓子しか眼中にないように身を乗り出し、早くも争奪戦を始めていた。
一方、我が物顔で椅子に腰かけていたレクアルはすっと立ち上がり、エディが影のようにその後ろに続く。呆然としていたセラフィーナのもとへ歩み寄ると、レクアルはにこやかに声をかけた。
「ちょうどいいところに来たな。お前たちも好きに食べるといい。これは余り物のお裾分けだから、気兼ねすることはないぞ。甘いものでも食べて英気を養い、午後もしっかり働いてくれ」
すれ違いざま、ぽんと頭に手が乗せられる。
慌てて顔を上げると、レクアルはすでに背中を向けて歩き出していた。代わりにエディと目が合った。彼は何も言わず、静かに目を伏せただけだった。それが挨拶なのか、気遣いなのか、セラフィーナにはわからなかった。
(レクアル様の左手、ほんのり温かくて大人の人の手だった。……勘違いかもしれないけど、「励めよ」と背中を押された気がした)
真意はわからない。でも、そう思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
だが、ほんの少し誇らしい気分も、長くは続かなかった。
不意に敵意を帯びた鋭い視線を感じて振り返る。レクアルとは逆方角に、プリムローズとジーニアに挟まれるようにして立つバイオレットの姿が目に入った。それぞれに焼き菓子を手に持ち、プリムローズとジーニアは話に花を咲かせていて、こちらの様子にはまったく気づいていない。
ただ一人、バイオレットだけが静かにレクアルを見つめていた。濃い紫の瞳に一瞬、暗澹たる影が走る。
けれども、セラフィーナと目が合った途端、彼女は何事もなかったかのように表情をゆるめた。コーラルピンクの紅を引いた唇が、ゆるやかに弧を描く。
彼女が凄艶な笑みを浮かべた瞬間、ぞくりと寒気が二の腕を這った。
どうやら、先ほどの場面をばっちり目撃されてしまったらしい。
(……そういえば、前にジーニアさんが言っていたわね。レクアル様にふさわしいのは子爵令嬢のバイオレット様とかなんとか。つまり、バイオレット様はレクアル様に好意を寄せているということで。うーん。これはかなりまずい状況ではないかしら……?)
セラフィーナはレクアルの推薦で下級女官になった。誰に対しても気さくな彼であっても、不用意に下級女官の頭を撫でることはしないだろう。傍から見て、レクアルの特別だと思われても不思議ではない。
(敵認定されるのは珍しいことじゃないけど。プリムローズ様やジーニアと違って、バイオレット様は何を考えているのかわからないのよね。さっきの笑みだって、絶対に友好的なものじゃなかった。覚えてろとか、許さないとか。そんな怒りを含んでいたし……)
バイオレットは淑やかな物腰の上級女官だ。
直接暴言を吐くような人間でもない。状況次第では素直に謝って場を収める度量もある。一見害がなさそうだが、人を見た目で判断してはならない。上品で優雅に振る舞っているが、その裏では計算尽くで立ち回る、したたかな女狐に見えた。
他人からの評価を正しく理解し、自尊心も高いお嬢様を怒らせるとどうなるか。考えるだけでおそろしい。彼女が本気を出せば証拠隠滅はお手の物だろうし、報復手段も生やさしいものではないだろう。
(いやいや、動機があっても実行するとは限らないじゃない。普通は理性で踏みとどまるはずよ。それにわたくしに万一のことがあれば、いくら温厚なレクアル様だって見逃すような真似はなさらないでしょうし……。考えすぎね)
疑心暗鬼で精神を消耗していては、気が休まる暇もない。
仕事はラウラが盾になってくれるし、直接的な攻撃をされるわけではない。帝国での悪評に比べれば、まだ些末な問題だ。そう結論づけ、セラフィーナはラウラに促される形で残ったマカロンをひとつ受け取った。
◇◆◇
二週間後のある日。
帳簿整理用の作業部屋では、香料台帳と納品書控えの照合作業が静かに進められていた。セラフィーナを含め、五人の女官が集まり、それぞれに割り当てられた作業に取りかかっていた。
写し取りと照合は、下級女官の訓練を兼ねており、上級女官と教育係が指導役を務めていた。
ラウラは段取りよく指示を出し、セラフィーナとジーニアには比較的単純な写し作業を振り分けていた。二人は背を向け合った机で、黙々と筆を進めていた。数字の間違いは許されず、高い集中力を要する作業である。
向かいの長椅子には、上級女官のバイオレットが書類を手にして優雅に座っていたが、その手はほとんど動かず、ただ目だけが静かに紙面を追っていた。
(……本来なら、指導も下級女官だけで行うと聞いていたけれど)
ジーニアの教師役として呼ばれたのか、それともこの場の監督も兼ねているのか。セラフィーナはちらりと視線を上げたが、バイオレットの表情は穏やかだった。けれど、読み進めているはずの書類は一枚もめくられていない。
目が合ったわけでもないのに、胸の奥にざらつくような違和感が残る。
そのとき、部屋にラウラの同期が入ってきた。ラウラに軽く耳打ちをすると、すぐに部屋を後にする。何か問題があったのかと見つめていると、筆を置いたラウラが立ち上がった。
「ごめんなさい。女官長からの伝言で、香料台帳に不備が見つかったみたい。文官棟の控え棚に原本があるそうだから、少し確認してくるわ。すぐ戻るから、二人はそれまで作業を続けていてね」
それだけを告げて、ラウラは急ぎ足で廊下の奥へと消えていった。
扉が閉じる音を最後に、部屋は沈黙を取り戻す。
バイオレットは書類に目を落としたまま、ページをめくる気配すらない。ジーニアも無言で筆を走らせていたが、背筋の張り方がどこか不自然に見えた。
(……なんだか変な空気ね)
セラフィーナは筆先を止めぬよう気を張りながら、漂う緊張感に意識を集中させた。今はとにかく仕事をこなさなければならない。
気を引き締めて作業に没頭していると、不意に扉がノックもなく開かれた。
ラウラが戻ってきたのかと思ったが、違う。現れたのは、顔にかすかに見覚えのある上級女官だった。バイオレットと親しく話している姿を、以前に何度か目にしたことがある。
「失礼。ちょっと人手を借りたいのだけど」
感情のない声音だったが、その場にいた誰もが一斉に顔を上げた。
尋ねてきた上級女官は特定の誰かを見ることはなく、冷淡な視線だけが室内をゆっくりと横切っていく。
「文官棟で少し整備が入っている関係で、儀式記録の一部が、今だけ旧厨房の倉庫に移されていることがわかったの」
説明は要領を得ていたが、声はあまりにも平坦で、まるで台本を読み上げているようだった。もとから抑揚のない話し方をする女官なのかもしれない。
「この控え資料と照らし合わせておく必要があるのに、手が足りないの。協力してくれるかしら? あなたたちだって、提出先の文官に文句を言われるようなミスは避けたいでしょう?」
脅しにも似た言葉とともに差し出されたのは、台帳の写しらしき紙の束だった。
「作業に行ってもらうのは、下級女官が二人いれば充分だから」
「わかりました」
そう言って、ジーニアがさっと立ち上がる。
いつもなら「私が?」と口を尖らせるくせに、今日は文句ひとつ言わない。まるで最初から知っていたかのような手際のよさに、セラフィーナはほんのわずかな引っかかりを覚えた。
プリムローズやバイオレットのように、セラフィーナをよく思っていない上級女官ならともかく、今回の相手はそれとは異なる。嫌がらせという線は薄く、しかもジーニアも同行するというのなら、本当に手が足りないのだろう。
「事情は承知しました。お手伝いします」
セラフィーナは紙の束を受け取り、筆を置いた。
気配の薄い上級女官は、それ以上は何も言わずに踵を返し、先に部屋を出ていく。その後ろをジーニアと並んで歩きながら、セラフィーナはちらりと後ろを一瞥した。
バイオレットは相変わらず書類に視線を落としたまま、微動だにしない。まるで何の関心も持っていないかのように──けれど、なぜかその姿が妙に印象に残った。