58. クラッセンコルト公国の風習
「あっ、セラフィーナちゃん! 君から来てくれるなんて珍しいね」
雑貨店のレジの向こうから気安い呼び方とともに喜色満面で迎えるヒューゴは、後ろにいるエディには気づいていないようだ。背後から冷気がもれ出ている気配がするのは気のせいだろうか。
焦りを募らすセラフィーナの姿を隠すように、エディが前に出る。
「ヒューゴさん。今日はお話があってきました」
「……騎士様がオレに? なんでしょう?」
きょとんとする顔を見るに、本気で訪問理由に心当たりがないらしい。
だが彼のそばにいた母親はすぐに意図を察したのか、顔が真っ青になっていく。暢気に質問する息子の肩を何度か叩いているが、不憫なぐらい緊急性が伝わっていない。
エディは厳しい表情のまま、淡々と説明した。
「あなたはセラフィーナにつきまとっているようですね。嫌がる女性に何度も執拗に声をかけ、追いかける行為は褒められたものではありませんよ。女性からすれば好きでもない男から贈り物をされても嬉しくありませんし、普通に迷惑です。あなたに言い寄られて彼女は外出すら気軽にできなくなっています」
「えぇ……? オレはセラフィーナちゃんと仲良くなりたいだけで」
「どうやら、そういう自分本位な考え方から改めてもらわないとならないようですね。彼女は曖昧な態度をとって、あなたの気を引いていましたか? 違うでしょう。はっきりお断りしていたはずです。それなのに、外に出れば執拗に見つめられる。あなたから見れば、一秒でも長く姿を見たいだけかもしれませんが、女性からすれば監視されているようで非常に居心地が悪いのですよ。もう、あなたは恐怖を与えるだけの存在なのです。そういうわけで今後、彼女の前に姿を現さないでください」
「えっ……セラフィーナちゃん、この騎士様とできてるの……?」
疑惑に満ちた顔が向けられる。
ここで否定すれば、エディの説得が無意味になるかもしれない。そう思うと、否定も肯定もできない。返す言葉に窮して、セラフィーナはうつむく。
だがその反応を肯定と取ったのか、「嘘だろ……」というつぶやきが聞こえてくる。これで諦めてくれただろうか。淡い期待を抱き始めていると、突然ヒューゴが声を張り上げた。
「セラフィーナちゃんは優しくて、可愛くて、気が利くいい子なんだ! 落ち込んでいるオレを慰めてくれて……オレだけが彼女を幸せにできるんだ!」
耳を疑う暴論が聞こえてきて、セラフィーナはその場に凍りついた。
(本気で意味がわからないわ……。どうしてそうなるの。これはもう、話が通じる相手じゃない)
ヒューゴは瞳を輝かせ、自分の世界に酔いしれている。逆に母親は悲愴な顔で両手を口に元に当て、声を失っている。その対比は見ているこちらが哀れに思うほどだ。
なんてことだ。いくら言葉を尽くしても相手に届かないのでは意味がない。頭が痛い。
セラフィーナが額を押さえて悩んでいると、エディが「そうですか」と頷いた。
「わかりました。彼女を諦めないとおっしゃるのであれば、決闘を申し込むまでです。騎士の矜恃にかけて本気で相手をしましょう。どうしますか、決闘を受けますか?」
笑顔で詰め寄られたヒューゴは、身を震わせながら前言を翻した。
「ひぃ……っ! も、もう彼女には近づきません! 決闘だけは勘弁してください。潔く諦めますから!」
「その言葉、忘れないでくださいね」
エディが冷酷な笑みとともに釘を刺すと、ヒューゴは半泣きでこくこくと頷き返した。
どうやらこれで幕引きらしい。温和な彼が意外と好戦的な提案をして驚いたが、騎士の脅しは平民には充分すぎたようだ。
店のドアベルを鳴らし、外に出たところでセラフィーナはぺこりと頭を下げた。
「エディ様。助けてくださってありがとうございます。ところで、決闘とは何のことでしょう……?」
「ああ、クラッセンコルト公国の風習でして。自分の恋人や妻に手を出す不届き者がいたとき、男は相手に決闘を申し込むことができるのです。愛する者を守れる強い者が勝者になります」
「強い者、ですか? 文官など体力に自信がない人はどうするのですか?」
セラフィーナの疑問に、エディは爽やかな笑顔で答えた。
「その場合は代理を立てます。絶対に奪われたくないときはお金を積んで、その街の腕自慢を雇うこともあります。大昔は相手の命を奪うまで勝負が続いたそうですが、今は広場で戦い、相手の動きを止めれば終わりです。敗者は公衆の面前で恥をかくので、おおっぴらに人前に出られなくなります。見物客の全員が証人ですから」
「なるほど……。鍛えている騎士が相手では、勝負は最初から決まっていますものね」
「そういうことです」
「……ん? でも決闘を申し込めるのは恋人や夫だけなのですよね? 先ほどの彼に誤解をさせてしまったのでは」
「殿下には後ほど謝っておきます。事情を説明すれば、納得していただけると思いますから。あのままセラフィーナを危険にさらすよりは、いくらかマシだったはずです」
「…………そ、そうですか」
なぜか頬が熱い。それに、くすぐったい気持ちに駆られる。
赤くなった顔を見られなくて、セラフィーナはパッと顔を下げて視線をそらす。今はエディの目が見られない。ぐるぐるするこの感情を一度、整理しなければならない。
(わたくしがレクアル殿下に求婚されているなんて、おおっぴらには言えないもの。エディ様は一番効率的な方法を選んだだけ。別におかしいことなんてない)
それでも、もし彼が自分の恋人として他の男を追い払ってくれたら。
きっと素直に喜べただろう。けれども、現実は違う。エディは主人の第二妃候補の身の安全のために行動したにすぎない。嫉妬心からではなく、仕事の義務感から。
(そう、これは純粋な人助けなのよ。エディ様なら、きっと他の人でも同じことをなさるはずで……)
そこまで考えると、途端に心がずしりと重くなった。
恋愛対象外と言われているようで打ちのめされた気分になる。きっと、いくら待ってもエディが振り向く日は来ない。
育ててはいけない感情を持て余し、セラフィーナはそっと息を吐き出した。