56. シスターの祈り
(すごい……まるでお花の階段みたい)
花壇は左右対称に整えられ、手前から奥へと幾層にも花が連なっている。
淡い紫のリシアンサスが柔らかに揺れ、青紫のラベンダーと鈴のようなカンパニュラが清らかな香りを漂わせる。
向日葵の列は太陽を仰ぐように背筋を伸ばし、奥のクレオメの雄しべは風と戯れるようにふるふると揺れていた。まるで、無数の蝶が舞っているかのように。
庭園の中心には時を刻む花時計があり、白亜の双子の神像が両手を握った状態で向かい合って立っている。その足元には小さな猫の石像が寄り添い、じゃれているように見える。
そして、庭園のさらに奥──緑の向こうにガラスでできた荘厳な建物が陽光を受けてきらめていていた。
「あれは大温室です」
いつの間にか、後ろにいたシスターが言う。
「大温室では、大聖堂が保護している特別な植物を育てておりまして。繊細な植物が多いので、水分や日光量の管理が大変なんですよ。残念ながら一般公開はしておりませんので、外観だけご覧になってください」
「……六角形の温室なんて初めて見ました。あの形にも意味があるのでしょうか?」
「ふふ、変わった形ですよね。でも見た目に反して、日当たりも風通しもいいんですって」
「そうなのですか? なんだか意外です」
「でしょう? 六角形だと時間ごとに日差しの入り方が変わるので、植物にまんべんなく日が当たるそうです」
「効率的に……ということなのですね」
セラフィーナが感心するように言うと、シスターが補足説明をする。
「風も分散されるので、温度も安定しやすいんだとか。見た目に特徴がありますが、実はとても実用的なんです。ただ、あの温室も聖域の一つなので、特別な許可を得た聖職者と、大聖堂専属の庭師しか入ることができません」
古代の花の種など、稀少性の高い花があるのだろう。
興味は惹かれるが神聖な雰囲気に気圧されて、これ以上近づくのはためらわれた。その迷いを察したように、シスターがそっと声をかける。
「……よろしければ、もう少し奥へ行ってみませんか? 特別なものをお見せします」
「特別、ですか?」
「はい。詳しくはついてからのお楽しみ、ということで」
シスターの悪戯っぽい笑みに、セラフィーナも苦笑しながら頷いた。
「行ってみたいです」
「では、ついてきてください」
庭園の縁に沿って歩き、温室の手前で左へ折れると、低い生け垣と薬草の茂る小道が現れた。草を踏む音が吸い込まれるほど静かな小道を抜けると、まるで別世界のような空間が広がっていた。
「こちらは……?」
「聖域の一つ、『癒やしの泉』と呼ばれる場所でございます。ちょうど、大聖堂の裏手にあたる場所です。手前に並ぶ石碑は、双子の創世神の御名が古語で刻まれておりまして、巡礼者様が心身の健康を祈る場所となっております」
石に囲まれた小さな中庭の真ん中に、癒やしの泉はあった。
純度の高い泉の水面には白い睡蓮が浮かび、金色の小魚が音もなく泳いでいる。泉の隣にある古い石碑は、日頃から丁寧に手入れされているのだろう。表面はきれいに磨かれていた。
神秘的な雰囲気に包まれ、セラフィーナは無言のまま泉に引き寄せられる。
「美しい泉ですね。水面も透き通っていて……」
「霊験あらたかなこの水を、杯ですくったものは『聖水』とされ、儀式にも用いられています」
シスターの説明に納得して頷いていると、不意に声のトーンが変わった。
「初対面でこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、ちゃんとご飯は食べていますか? 睡眠はしっかり取れていますか?」
「……え、ええ。人並みには」
「適度な休息は大切ですよ。過労で倒れてからでは遅いんですから。私なんて、疲れたときは甘いものを食べて憂さ晴らし……じゃなかった、心身を回復させています。体だけを休めても、心が疲弊したままだったら、いつまで経っても疲れは取れませんからね。疲れたときには甘いもの、おすすめですよ!」
先ほどまでの落ち着いた雰囲気を吹き飛ばすような勢いの助言に、セラフィーナは思わず頬を引きつらせた。
「……ええと……それほどまでに疲れた顔、しています?」
「失礼ながら申し上げますと、目元にたまった疲れが滲み出ていました。最初にお見かけしたとき、今にも倒れそうな雰囲気でしたよ。あなたが頑張っていること、見ている人はちゃんと見ています。あまり根を詰めすぎないほうがいいですよ。その方が、きっとあなたのことを心配してしまいますから」
あまりにも堂々とした立ち姿から大人びた印象を受けていたが、ひょっとすると彼女のほうが年下なのかもしれない。
今日初めて会った人からも心配されてしまい、さすがに反省せざるを得なかった。
「でも、頑張り屋な人は嫌いじゃないですよ。だから、これは私からの応援だと思ってください」
そう言って、シスターは泉の前で両膝をついた。
そのまま神に祈りを捧げるように両手を組み、そっと瞼を閉じる。声をかけるのがためらわれるほどの神聖な雰囲気に包まれ、セラフィーナはただ静かにその様子を見守った。
森からの風が、泉の表面を撫でるように揺らす。大聖堂の庭から漂う花の香りが運ばれ、『聖域』という言葉が自然と胸に落ちた。
心地よい静けさに辺りが包まれる中、シスターの唇から澄んだ声が紡がれていく。
「清らかな光の泉よ、迷い疲れし者へ、安らぎの息吹を」
歌うような旋律に呼応するように、泉から淡い光がふわり、ふわりと浮かび上がる。驚いている間に、その光はセラフィーナを祝福するように優しく注いだ。
だが瞬きをしたときには、その残滓すらどこにもなかった。幻想的な光景の余韻は目の裏にだけ焼き付き、まるで夢でも見ていたのかと錯覚してしまう。
「いかがでしょうか。少しは体が軽くなったのでは?」
「……え?」
「癒やしの祈りをしましたから」
シスターのあまりにも端的な答えに、セラフィーナは面食らう。
(では、先ほどの光景は夢ではなく……シスターの祈りの結果だった、ということ?)
そういえば、光が降り注いだときから、体がほんのりと温かい気がする。まるで体の芯から疲れがほどけていくような感覚だ。
確かにシスターの言う通り、重だるさはいつの間にか消えていた。あれほど鈍かった足取りが、今は嘘のように軽やかだ。
「はい。おかげさまで、疲れが吹き飛びました。これが癒やしの効果なのですね。本当にありがとうございます。……でも、特別な祈りには対価が必要だったのでは?」
大聖堂が行う施しは無償ではない。寄附金を納めることが本来の決まりのはずだ。
セラフィーナの懸念に、シスターは口元にそっと人差し指を当てた。
「ふふ。では本日の出会いの記念ということで。だって、あなたはすでに祝福を受けている方ですから。このぐらいの特別サービスなら、神様も目をつぶってくれると思いますよ。あ、でも……他の方には内緒ですよ?」
「……祝福……?」
何のことだろう。だがセラフィーナの疑問には答えず、シスターはただ穏やかな笑みを浮かべながら、帰りの道を手で示した。
「お勤めも果たしましたし、入り口までお送りしましょう」
そう言うと、シスターはふと振り返る。ベールの端が夏の光を受け、ふわりと柔らかく舞った。
◇◆◇
大聖堂で不思議な体験をして以来、どこか体がふわふわと浮いているような感覚が続いている。
別れ際、シスターは「またいつでもお祈りにいらしてくださいね」と微笑むばかりで、結局、あの祈りについては触れずじまいだった。
(あまり詮索しないでほしい、ということなのでしょうけど……。まあ、わたくしも心身の疲れが取れたのだから、深くは考えないようにしましょう)
一人でそう結論づけていたとき、宮殿の白亜の外壁前に、一人の男が立っているのが見えた。斜めに差し込む夕陽が壁を照らし、彼の黒い影を長く引き延ばしている。
「あっ! セラフィーナちゃん、探したよ〜」
セラフィーナの姿を見つけた男は、八重歯を覗かせるほどの笑顔で大きく手を振った。その無邪気な仕草に思わず大型犬を連想し──内心、軽くため息をつく。
できれば二度と顔を見たくなかった。心の声とは裏腹に、口元だけは器用に笑みを作っていた。
「ヒューゴさん。わたくしに何かご用でしたか?」
「実はさ、チケットが取れたんだ!」
「……チケット、ですか?」
「そうそう、シルキア大国から来ている宮廷歌劇団の! 最後列なんだけどさ、シルキアの歌姫の美声が生で聴けるんだよ。すごくない? しかも最終公演なんて奇跡だよ、奇跡! いやぁ、オレってやっぱ強運だよね。やるときはやるっていうか」
「シルキア大国の……」
セラフィーナはぽつりとつぶやいた。
だが囁きにも似たその小声は、ヒューゴの耳には届かなかったらしい。彼は聞いてもいない自慢話を得意げに続けている。
脳裏に浮かぶのは死の間際の、炎に身を焼かれたあの光景だ。
セラフィーナにとって、シルキア大国はただの異国ではない。忌まわしい記憶を呼び起こす、呪いにも似た国名だ。その歌姫が魔女にどんな感情を抱いているかはわからないが、シルキアの関係者というだけで息が詰まりそうになる。
波立つ心を静めるように、目元に力を込めてぎゅっとつぶった。
「最終公演は一週間後だから。先に君の分のチケットを渡しておくね!」
セラフィーナの表情が曇っていることなど一切気づかないまま、ヒューゴは誇らしげに一枚の紙を差し出してきた。
「……申し訳ありません。わたくし、その日は用事がありまして」
「ええっ!? 最終日のチケットだよ!? こんな機会、滅多にないよ! 用事なんて後回しにして一緒に行こうよ。絶対損はさせないからさ」
「ごめんなさい。そのチケットは他の方にお譲りください。……失礼します」
丁寧に一礼をして踵を返すと、セラフィーナは早足で通用門をくぐり抜けた。
なおも引き留めようとする声が背中に追いすがるが、それを振り払うように女子寮の方へと歩みを早めた。
じわじわと追い詰められているセラフィーナですが、次回、救世主(?)が現れます。