53. 不安の種と冷たいジェラート
坂の上の階段を一番上まで上がると、セラフィーナはラウラに促されて近くのベンチに腰を下ろした。ラウラも横に並んで座る。
「なんか変なのに絡まれていたみたいだったから、思わず声をかけちゃったけど……余計なお世話だったかしら?」
「い、いいえ! 本当に、助かりました……」
「ならいいけど。それより、なんなのあの男。やけに親しげに話しかけてたけど、知り合い?」
ラウラの問いに、セラフィーナは静かに首を横に振った。
「特に親しくはしていません。夏空の下で座り込んでいたのを介抱して、少しだけ相談に乗ったら……」
セラフィーナがため息をつくと、ラウラは「ははぁ、なるほどね」と頷いた。
(どうして、これほどわたくしに構うのか……正直、理解できないわ。キッパリ断っていたはずだけど、伝わっていなかったのかしら)
最初はただの親切心だった。
炎天下で具合が悪そうで見て見ぬふりができず、思わず声をかけた。あのときは、それだけで終わるはずだった。
だが、それ以来──週末の買い物帰りや、休憩中の街角で、彼は「偶然」を装って何度も近づいてくるようになった。もとから馴れ馴れしいところはあったが、最初の頃は断ればすぐに引き下がってくれた。
けれども、顔を合わせる機会が増えるにつれ、彼の誘い方は少しずつ変わっていった。笑顔の圧をまといながら、じわじわと「断りにくい雰囲気」をつくり出すようになったのだ。
正直に言って非常に迷惑だ。
その胸中が表情に滲んでいたのか、ラウラが苦笑気味にセラフィーナの言葉の続きを補った。
「要するに、懐かれたってわけね。気をつけなきゃだめよ。男っていうのはね、すぐ自分の都合よく解釈するんだから」
「……それは実体験に基づいた結論ですか?」
「あぁ、一人いたわね。運命的な再会を果たしたとかなんとか言って、今もしつこくつきまとう男が。ほんと、少しはこっちの迷惑も考えてほしいものだわ」
きっと、その言葉は落ち込んでいるセラフィーナを元気づけようとしてくれたのだろう。
アルトを擁護したい気持ちはあるけれど、今はそんな余裕もなかった。
(そういえば、初めて領地追放になったときも似たようなことがあったわね。熱心なファンへ真摯に対応していたら、交際を申し込まれて。断った翌日、誰かが魔女だと通報して……そのままシルキア大国送りで。……ん? ちょっと待って。もしかして、魔女だと通報したのは、あのファンだったんじゃ…………え、まさか)
嫌な仮説を立ててしまい、セラフィーナは額に手を当てた。
──充分にあり得る。むしろ、なぜ今まで気づかなかったのか。
人生に恋愛は不要だと切り捨てたのが、いけなかったのか。どうして恋愛感情とは、こうも厄介な代物なのだろう。
愛は純粋なだけの感情じゃない。
ある日、歪んだ愛は狂気に変わる危険性を孕んでいる。
(今日はラウラ先輩に助けてもらったけど。何度も助けてもらうわけにもいかないわ。事を荒立てず、穏便に処理しなくては)
でも、どうやって?
すぐに答えは出ない。だが、この問題を放置するわけにはいかない。宮殿内まで乗り込んでくるようなことはまだ起きていないが、今後も安心とは言い切れない。
ここ最近、誰かに見られている気配に振り返る日々が続いている。
そしてヒューゴは、自分の居場所を把握しているかのように、普段使わない道を歩いていても現れる。
いつだったか、路地裏に迷い込んだとき、ばったり目が合った。その瞬間、金縛りに遭ったみたいに動けなくなった。彼は人懐っこい笑顔で手を振っていたが、背中を冷たい汗が伝った。
彼の緑の目は笑っていた。けれど、その奥に、狂気のような光がちらついていた。
セラフィーナは逃げるように、その場から早足で立ち去った。
そんな出来事が何度も続いている。
一つだけ救いなのは、出現回数は多くとも、毎回出くわすわけではないことぐらいか。おそらく、彼にも仕事で手が離せない日があるのだろう。
(とりあえず今できることは、毅然とした態度を崩さないこと。曖昧な態度で好意がエスカレートしないよう、冷静に断ること。けんか腰にはならない。相手に気を持たせるような素振りも見せない)
経験上、闇雲に逃げれば、相手はかえって追ってこようとする。
成人男性の腕力には敵わない。魔女だと通報されるのは免れても、自分の身に危険が及ぶのは避けたい。
(……本当に大丈夫よね? まだ実害はないし。ひょっとしたら、わたくしが少し神経質になっているだけかもしれない。うーん。とはいえ、一度婚約を破棄された身だし、恋愛事は正直苦手なのよね。どうやって諦めてもらえればいいのかしら)
騎士団に相談するのはまだ早いだろう。
けれど、本当に一人きりでなんとかなるだろうか。
そんなどん詰まりの思考を振り払うように、ひやりとした感触が頬に当てられた。
「わっ!?」
「ふふん、冷たくて気持ちいいでしょう? ラウラさんおすすめのジェラートよ。難しい顔ばかりしていたら、心が疲れちゃうわ。何事も気分転換は必要よ。青空の下で食べる冷たいお菓子って最高なんだから」
「…………」
「好みがわからなかったから、味は適当に選ばせてもらったわ。あ、なんならシェアでもする? 二つの味が楽しめて一石二鳥よ」
ラウラの軽口に、それまで張り詰めていた息が、ふっと軽くなった。
小さく笑い返せるほどの余裕が、ようやく戻ってきた。
(……ラウラ先輩の前では、素直でいられる自分でありたい)
苺味のジェラートは、甘酸っぱくて冷たくて、熱を帯びた体に心地よく染み渡る。
(悪い方向にばかり考えるのはやめましょう。普通に接していれば、案外なんとかなるかもしれないし。もし誤解があるようなら、しっかり話せば、きっとわかってくれるはず)