52. それぞれの反応
静かな夜だった。
昼間の賑やかさが、まるで嘘だったかのように思えるほど。
女子寮の談話室には穏やかな話し声が時折響くだけで、静寂が満ちている。
夜の帳が静かに降りた今、灯りは壁際に点々と取り付けられた小さなオイルランプだけ。かすかな火が揺れ、琥珀色の光が木製の床に柔らかな影を落としていた。
床には素朴な織物の敷物が敷かれ、窓辺には日差しをやんわりと受け流す布が垂れている。わずかに開いた窓から夜風がすっと通り抜け、ささやかな涼を運んでくる。
(ラウラ先輩とヘレーネさんは……あ、よかった。ちょうど二人揃ってる)
リボンで飾られた二つの箱を大事に抱え直し、セラフィーナは籐椅子で寛ぐ二人のもとへ、足早に向かった。
「お疲れ様です。ラウラ先輩、ヘレーネさん」
「あら。セラフィーナも涼みに来たの?」
「やっほー」
低いテーブルには、湯上がりに用意された冷たいミントティーのガラスポットと、小さな器に盛られたレモンピール入りの砂糖菓子が置かれていた。
ラウラは長い髪をゆるくひとつにまとめ、膝にタオルを載せたまま椅子にもたれて、ミントティーをゆっくりと口に運んでいる。
ヘレーネは三つ編みをほどき、レース編みの巾着袋から小さな容器を取り出し、指先で馴染ませるように唇に塗った。ほんのり甘い香りが、かすかに空気を彩る。
湯気の余韻がまだ肌に残り、二人の頬には淡く紅が差していた。どちらも、ほどよい脱力と寛ぎに身をゆだねている。
ゆったりしている最中に水を差すようで、申し訳なさを覚えながらセラフィーナは口を開いた。
「あの、今日はお二人にちょっとしたものを用意してきたんです。よければ、少しだけお時間をいただけますか……?」
「もちろん、いいわよ。セラフィーナもお座りなさいな」
「えっ、なになに?」
落ち着いて椅子を勧めるラウラと、興味津々に身を乗り出すヘレーネ。対照的な二人の態度に、小さく笑みを浮かべながら、セラフィーナは向かいの籐椅子に座る。
普段はお茶や読書を楽しむ場所だが、今日は贈り物を渡すという一大任務があるせいで、少しだけ肩に力が入ってしまう。
「まず、ラウラ先輩にはこちらを。ヘレーネさんにはこちらを。……いつもお世話になっているので、わたくしからの感謝の気持ちです」
「あらまあ。いいのに、そんなに気を遣わなくても。でも嬉しいわ」
「私ももらっちゃっていいの? ありがとー! 開けてもいい?」
「はい。どうぞ」
笑みの裏で、そわそわとした緊張が胸の奥に広がっていた。
二人がリボンをほどき、ラッピングされた箱の中身を開けるのをじっと見守る。ラウラはハンドクリームと花の透かし彫りの櫛をそっと手に取り、しげしげと眺める。一方のヘレーネは、感極まったように身を震わせていた。
「ラウラ先輩は水仕事で頑張っていらっしゃるご様子を拝見して、手のケアによいかと思いまして。柑橘の香りのハンドクリームを選びました。櫛は毎日使えるものなので……その、デザインがラウラ先輩にぴったりだなと思って」
「セラフィーナ……。よく見ていてくれたのね。ありがたく使わせてもらうわ」
「お気に召したなら、何よりです。本と猫をこよなく愛されているヘレーネさんには、読書のお供にいかがと思いまして、こちらを選ばせていただきました。ブックカバーはレース付きで可愛らしくて、それを見たとき、ヘレーネさんのお顔が真っ先に思い浮かんだんです」
「あ、ありがとう〜! すっごく嬉しい! 私のことを考えて選んでくれたんだなって伝わってきたよ。大事にするね」
穏やかな笑みを浮かべるラウラと、両手を合わせて楽しそうに身を揺らすヘレーネを見て、セラフィーナは肩の荷を下ろした。
贈り物を手にした二人の笑顔に、胸の奥に残っていた緊張がすうっとほどけていくのを感じる。ミントティーの香りと笑い声が、夜の静けさにすっと溶けていった。
◇◆◇
セラフィーナが店先に並ぶ赤く熟れた林檎を眺めていると、店主が試食用にと一口サイズに切って差し出してくれた。ありがたくそれを頬張ると、シャリッとした歯触りとともに、甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。ラウラのお土産にいくつか買って帰ろう。そう思った、そのとき。
背後から、悪夢のような声が響いた。
「やっぱり! 後ろ姿が似ていたから、もしかしたらと思ったんだ」
「……ヒューゴさん……」
まさか、また会ってしまうなんて。
驚きと軽い絶望に、セラフィーナは一瞬、目眩を覚えた。
「いやあ。会いたいなと思ったときに会えるなんて、もうこれは運命としか思えないよね」
「…………。ただの偶然だと思いますよ」
「来週の土曜にランチでもどう? オレ、いい穴場を知ってるんだよね。フォンダンショコラのケーキも最高でさ。セラフィーナちゃんもきっと満足すると思うよ」
こうして執拗にデートに誘われるのは、一度や二度ではない。
夏の夕方はまだ明るい。にもかかわらず、「家の近くまで送る」と言って聞かない彼に、結局押し切られてしまったことがある。
そのとき感じたのは、感謝ではなかった。
自分の居場所を知られてしまったという事実に、胸の奥にじわりと染み込むような不安が広がっていく。底の知れない恐怖が、静かに、けれど確実に膨らんでいった。
日に日に強まっていく彼の執着を感じるたび、セラフィーナの想像は悪い方向へと傾いていく。最悪の事態を勝手に思い描いては、ひとり怯えてしまう。
彼がその気になれば、女子寮にだって侵入されかねない──そう思った瞬間、刃物を突きつけられたような息苦しさが喉元までせり上がった。
それ以降もヒューゴは、セラフィーナの恐怖には一切気づかず、何度断っても懲りずに後ろをついてくる。根は悪い人ではないのだろう。だが、彼のそれは「優しさ」ではなく、ただの好意の押しつけにしか思えなかった。
「この前も言ったけど、ほんとにオレ、セラフィーナちゃんに感謝してるんだ。だからさ、ちゃんとお礼がしたい。ね? お金はもちろん、オレの奢りだし、そんなに時間は取らせないから」
──逃げ場が、ない。
あからさまに迷惑そうな顔をすれば、相手が逆上する恐れがある。かといって好意があると誤解されかねないような、嬉しい素振りなど、とても見せられない。
(ど、どうしましょう……。なんとか穏便にこの場を切り抜けなければ)
必死に頭を巡らしていたとき、視界の端にふっと影が差した。振り向くより先にラウラの声が届いた。
「お待たせ。もう、お店の人を待たせちゃっているわよ、セラフィーナ」
「あ……ラウラ先輩」
「早く行きましょ」
気づけば、ごく自然な流れでラウラに腕を引かれていた。
驚くほどなめらかな動きで、ヒューゴが口を挟む間もなく、二人は小走りでその場を離れ、次の角を曲がった。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
最近、リアクションを送ってくださる方が少しずつ増えていて、とても嬉しく思っています。読者の存在を感じられることは、作者にとって何よりの支えです。少しでも「読んでよかった」と思っていただけたなら、書き続けてきてよかったなと思います。
恋が動き出す第六章、どうぞお楽しみください。