49. 日頃の感謝を込めて
入り口の横に掲げられた看板には、便箋の上に羽根ペンをくわえた白い鳩が描かれており、一目で便箋関連の専門店だとわかる。女官の噂でたびたび耳にした《鳩の便箋堂》――香り付き便箋に羽根ペン、インクや封蝋などを取りそろえた評判の店らしい。
艶めいた木製の取っ手を引くと、小さな銀の鈴がひとつ、冷たく澄んだ音を落とした。夏の暑さをひととき忘れさせるようなその音は、余韻を残しながら静かに店内を満たしていく。
甘い蜜花の香りがふわりと鼻先をかすめ、セラフィーナは吐息をこぼした。
「素敵な香り……」
店内は、どこか古びた書斎を思わせる趣がある。棚の隙間や紙の間から、しっとりとした緑の香りがほのかに漂い、まるで森の奥深くに迷い込んだような錯覚さえ覚える。
不思議な静けさの中に、セラフィーナの靴音だけが小さく反響する。
焦げ茶の棚の一角に近づくと、色とりどりの封蝋の小瓶が整然と並んでいた。丁寧に磨かれたそれらは陽光を受けて淡く光り、眺めているだけでもうっとりしてしまう。ラベンダーやレモンバームの香りをつけたもの、金箔のきらめきを閉じ込めたもの──どれもが、小さな宝石のように輝いていた。
その隣の棚には、季節ごとの便箋や封筒が彩り豊かに並んでいる。中段に置かれた手漉きの便箋を一枚、セラフィーナはそっと手に取る。花びらが漉き込まれた繊細な紙は、光を透かすと淡い輪郭が柔らかく浮かび上がった。
(へえ……季節の草花が透けて見えるのね。スミレとレースフラワーの組み合わせは品があるし、カスミソウとラベンダーも落ち着く香りでラウラ先輩に合いそう。うーん、でもジャスミンのほうがラウラ先輩の雰囲気に近いかも……? それぞれ少しずつ模様が違うのも面白いわ。選ぶ楽しみがあるし、贈り物にも人気があるという説明書きにも納得だわ)
セラフィーナは便箋セットの見本を一つずつ手に取っては、香りと紙の手触りを確かめていく。
「……うーん。どれがいいかしら?」
「僕の誕生日プレゼント? それなら、こっちの落ち着いた夜空の色合いのほうが──」
自然ともれた独り言に、思いがけず言葉が返ってきた。
驚いて振り返ると、少し離れた棚の向こうにいたアルトがにやりと笑う。
「ええ、アルト? いつの間に……」
「少し前からいたよ。セラフィーナがあまりにも真剣に悩んでいて、僕の存在にまったく気づいてくれないからさ。いつ声をかけようか、ずっと見計らっていたんだよね」
「……気づかなくてごめんなさい」
素直な謝罪に少しばかり戸惑ったようで、アルトは苦笑しながら首の後ろに手を回した。
「あーごめんね? ちょっと和まそうと思っただけで……。それより、そんなに悩んでるってことは誰かの贈り物でしょ?」
「は、はい。実はラウラ先輩に日頃のお礼を伝えたくて、贈り物をどうするかで悩んでいたんです。……そういえば、アルトはラウラ先輩と付き合いが長いですよね? 何を贈れば喜ばれるか、ご存じだったりします?」
「え。どうしよう、期待の眼差しがものすごいんだけど」
「もったいぶらずに教えてください。本当に悩んでいるんです……! ラウラ先輩なら何を贈っても喜んでくれそうですけど、せっかくなら、心から喜んでもらえるものを選びたいんですっ!」
必至に言い募ると、やや及び腰だったアルトの目が変わった。
セラフィーナの真剣な思いが伝わったのかもしれない。
「僕もラウラの好みを完全に把握しているわけではないけど……。使えばなくなる物より、手元に残る物のほうが嬉しいと思うよ。正直、便箋を使う場面はあまり想像できないなあ。家族に便りを出すことぐらいはあるだろうけど、頻度は少ない気がする。感謝の気持ちとして贈るなら、ラウラが普段から使えるような物を選ぶのもいいんじゃないかな」
「なるほど。普段使いできるものですか……。あ、先日手荒れがなかなか治らないって言っていました。ハンドクリームはどうでしょう?」
「いいんじゃない? ラウラが好きな香りつきにすれば、印象アップ間違いなしだろうし。あ、でも化粧品類は隣のお店じゃないと置いていないだろうね」
セラフィーナは「あっ」と小さく声を上げ、店内をぐるりと見渡す。万年筆やガラスペン、封蝋つきの文箱などの文房具は数多くあるが、さすがにハンドクリームなどの基礎化粧品は置いていない。
後ろ髪を引かれる思いで数歩進みかけたところで、ふと視線が一箇所に止まった。レジ横の小さな柳籠に、布製のブックカバーと猫柄の栞が並べられている。ブックカバーは落ち着いた小花模様で、内側には生成りの布が敷かれ、細やかなレースが縁取りにあしらわれていた。栞には、四つ葉のクローバーを追いかけるように手を伸ばす猫が描かれている。
(これ……ヘレーネさんにあげたら喜びそう。猫好きの司書さんならぴったりの組み合わせだし、価格もお手頃だから、ささやかな贈り物にちょうどいいし)
書庫に通い詰めていた頃は、よくお世話になった。読書の時間が少しでも楽しくなるものをお礼に贈るというのは、なかなかいいアイデアかもしれない。
(うん。やっぱり、これにしよう)
そっとブックカバーと栞を手に取る。
迷いはもうなかった。両手で抱えてカウンターに進み、手早く会計を済ませる。
店の外に出ると、律儀に待ってくれていたアルトが声をかけた。
「あ、ラッピングしてもらったんだ? 可愛いじゃん」
「ヘレーネさんにも日頃からお世話になっているので……。そういえば、アルトは何を買いに来たんですか? まだ用事が終わっていないようなら、わたくしに構わず行ってきてくださっていいのですよ」
セラフィーナが言うと、アルトは脇に抱えていた包みを片手で持ち上げた。
「それなら心配ご無用。実は、セラフィーナに声をかける前に買い物は済ませてたんだよね。君と違って実用品だけだから悩む必要もないし」
「実用品、ですか……」
「替えのインクと、新しい羽根ペンをね。書き損じるとやり直しが面倒だし、意外とすぐに痛むんだよーあれ。道具の調子が悪いと、仕事にも響くしね?」
そう言って、アルトはおどけたように片目をつぶってみせた。
セラフィーナは一瞬ぱちくりと瞬き、それから思わず吹き出してしまう。慌てて口元を押さえると、アルトもつられるように笑った。
小さく笑い合ったあと、店の奥には再び静けさが戻っていた。