46. 教育係の言い分
週明けの昼過ぎ、ザッザッと草刈り鎌を振るう音がテンポよく続く。
セラフィーナは一人きりで雑草をひたすら刈り取っていた。太陽はちょうど真上に差しかかり、額からはつうっと汗の雫が流れ落ちる。手の甲でそれを拭い、刈り取った草を両手で手早くかき集め、運んでいく。一箇所にまとめていた草の山にそっと下ろし、息を吐く。
ひとつひとつは軽くても、量が増えればそれなりに重量がある。それでなくても炎天下での作業はなかなかに体力を消耗する。そろそろ休憩を入れる頃合いだろう。人気がない状態で倒れる事態だけは避けなくてはいけない。
木陰に移動して腰を下ろすと、ぐらりと目眩がした。少しばかり無理をしてしまったかもしれない。ぬるい風で火照った体を休ませながら目をつぶる。
さわさわと草を撫でる風の音、虫の声、葉の隙間から差し込む陽光。噂話に花を咲かせる女官の甲高い声もなく、ここだけ世界と切り離されたような感じさえする。自然の音に耳を澄ませてまどろんでいると、不意に額に冷たい布が押しつけられた。
びくりと目を開く。すると、見慣れたピンクゴールドのお団子頭が目に入った。
「大丈夫? こんなところで倒れているから心配したわ」
「……ラウラ先輩?」
慌てて身を起こす。額のハンカチがはらりと太ももに落ちる。
いつの間にか、うたた寝をしてしまっていたらしい。
「もう、セラフィーナったら。なんでも引き受けていないで、困った状況になったらちゃんと相談しなさい。私はあなたの教育係なのよ」
ラウラは眉尻を下げて優しく諭す。自分を案じる金茶の瞳にじっと見つめられ、セラフィーナは素直に詫びた。
「……すみません、ラウラ先輩。時間はかかるかもしれませんが、一人でもできると思ってしまって」
「あなたのすぐに投げ出さないところは美点よ。でも一度それがまかり通ってしまったら、未来の後輩が同じ目に遭ったときに声があげにくくなるでしょう?」
「…………。ごめんなさい。そこまでは考えていませんでした」
若葉が刺繍されたハンカチを握りしめ、セラフィーナはうなだれた。
けれども、続く言葉は労りに満ちていた。
「いいのよ。失敗は誰にでもあるし。大事なのは反省して次に活かせるかどうか。でもね、理不尽な目に遭ったときは必ず話してほしいわ。私に対して迷惑になるなんて考えないで。言葉を飲み込んで平気なふりをされるとね……あなたが本当に困っているのかどうか、私には判断ができないの」
「……あ……」
「こう見えて私、先輩なんだもの。どんどん頼ってほしいし、何かあれば助けてあげたいわ。それとも、こんな私では頼りにならないかしら?」
「そ、そんなことありません! ラウラ先輩はとても頼りになる最高の先輩です!」
「……言ったわね? ちゃんと覚えたわよ」
にやりと口の端を上げ、ラウラは言質を取ったとばかりに微笑む。セラフィーナは差し出された手を握った。
引っ張られるようにして立ち上がると、ラウラが背中についた土汚れを優しく払ってくれた。実家の使用人以外に、こんな風に誰かに世話を焼かれることなど滅多になく、むずがゆい気持ちになる。
頼ってもいい。いま一度、その言葉を噛みしめる。自然と頬がゆるむ。
他人に甘えないように自制していた心がゆるゆると解かれていく。もし姉がいたら、こんな感じかもしれないと思った。
◇◆◇
ラウラが女官長に話を通してくれたおかげで、草刈り作業は免除された。
話を大事にしたくないという要望も聞き入れられ、翌日からは通常業務に復帰できた。プリムローズたちは素知らぬ顔で仕事をしていたが、これ以上の怒りを買うのは得策ではない。セラフィーナも何事もなかった顔で与えられた仕事に励む。
伝書鳩よろしく文官棟に行ってきた帰り道、遠目にニコラスが騎士と文官を伴って歩いていく姿を見つけて、思わず立ち止まる。幸い、気づかれることなく背中が小さくなっていった。ほっと息を吐く。
第三者がいる場で見咎められることはないだろうが、ここで見つかると後々なにか言われそうな予感がする。別段、後ろめたいことはない。でも、今は無用な接触は避けたほうがお互いの精神安定上いいはずだ。
(信用してもらうには時間が必要だとはいえ、現状、ニコラス様にものすごく敵視されているのよね……。どうしたものかしら)
ううむと唸っていると、背後から「セラフィーナ?」と名前を呼ばれて心臓が飛び出しそうになった。
ぎこちなく首を回す。そこにはレクアルとエディが不思議そうな顔で立っていた。
「……レクアル様……」
「どうしたんだ、幽霊でも見たような顔だぞ。何か悩みか?」
「いえ。ニコラス様の信頼を得るためには、どうすればよいかと考えておりまして……」
「ニコラス兄上? ふむ。セラフィーナ、ちょっとついて来い」
「えっ、あ、はい」
レクアルは迷いのない足取りで使用人通路に入り、何度目かの角を曲がったところで壁に手を当てた。何の変哲もない壁の一部がくるりと反転し、一人がギリギリ入れる隙間ができる。レクアルが暗闇の中に消え、反射的に後ろにいたエディを振り返る。
「大丈夫です。そのままレクアル殿下の後ろについていってください」
穏やかな笑顔で頷かれたら先に進むしかない。
覚悟を決めて足を踏み出せば、待っていたのはこぢんまりとした小部屋だった。おそらく先ほどの道は限られた人間だけが知っている秘密通路の一つなのだろう。エディは回転扉を再び閉ざし、出入り口の前に立つ。
「ここは大公家の人間しか知らない隠し部屋だ。防音性にも優れているゆえ、誰かに聞かれることはない。人目を憚る話題をするには適した場所だともいえる。まあ、座れ」
我が物顔で奥の椅子に腰かけるレクアルに促され、その正面の椅子におずおずと腰かける。白い壁で囲まれた部屋は殺風景だ。長テーブルと椅子、最低限の調度品しか置かれていない。緊急時ぐらいしか使うことがないせいだろう。
とはいえ、新米下級女官がここにいてもよいのかという不安が頭をもたげる。しかし、当然のような顔で連れてこられたということは信頼の表れなのだろう。そうでなければ説明がつかない。たとえ口止めされなくても、誰かに吹聴するつもりはないけれど。
「お前を下級女官に推薦したのは俺だ。思い悩んでいるなら、雇用主として聞く権利がある。その悩みの種がニコラス兄上であれば、尚のことだ。話してみろ」
「……その、ニコラス様の女性不信は昔からなのかな、と……」
「なにか言われたのか?」
レクアルが、頬杖をついていた手から顔を上げた。些細な変化さえ見逃さないよう、切れ長の鳶色の瞳が細められる。
下手な誤魔化しは意味をなさない。セラフィーナは視線をさまよわせながらも答えた。
「ええと、結婚相手を紹介されました。レクアル様から遠ざけるためにと」