44. とある少女の憂鬱(??視点)
薄紫のベールと変装用の鬘を外して左右に頭を振ると、柔らかなマロンブラウンの髪が横に揺れ動く。シャノンは邪魔にならないよう、サイドテーブルに置いていた黒のリボンで髪を後ろで手早く束ねる。
それから今日の売上金を質素なベッドの上で数えていると、音もなく部屋のドアが開いた。男はするりと身を滑り込ませ、静かにドアを閉めた。
目深まで被っていた帽子を脱ぎ、若い男が親しげに笑う。
「どうもお疲れ様、なかなか賑わってたみたいだね」
「…………」
「シャノンは多才だな。占いも得意だったなんて」
いけしゃあしゃあと言われ、シャノンは真顔のまま答える。
「どこかのお花畑な頭を持つ方のせいで、当面の生活資金を補塡する必要があったのです」
「あっははは。それはそれは、はた迷惑な男だね」
「ええ本当に」
「……ひょっとして、ものすごーく怒ってる?」
ラザフォードは窓際の椅子に優雅に座り、上目遣いで尋ねる。
眉を下げて困ったような表情だが、騙されてはいけない。彼の場合はすべてが計算尽くの行動なのだから。
数年の付き合いだが、シャノンは彼のこういうところが嫌いだ。人の様子を見て楽しむ感性は不愉快だし、一生わかり合いたくない。自然と刺々しい口調になるのは致し方ないと思う。
「怒っていないように見えるのでしたら、だいぶ目が曇っていらっしゃるようですね。いっぺん湖の底まで沈めて差し上げますよ。遠慮しないでください。私は本気です」
「うわあ、目が本気だね。ちょっと落ち着こうか。ほらほら、息を大きく吸ってごらん」
「話の矛先を変えようとしても無駄です。気分屋のあなたのせいで! 予定はいつもめちゃくちゃ! こっちは毎回迷惑しているんです!」
「別に遊んでいたわけじゃないよ。主に人助けと情報収集を……」
お互い仕事だ。そんなことは百も承知だ。
だが我慢を強いる生活が続けば、それなりに不満も溜まっていく。胸に溜め込むばかりでは精神的にもよくない。たまには吐き出しておかないと、この男は自分の罪深さに気づきもしない。
「そのぐらいわかってます。だいたい公都は美食ばかりですけど、何もかも高いんですよ。地方の値段を熟知している者としては、毎回お財布を握りしめる手が震えます。一番安い宿だっていつもの二倍はするし……!」
「うーん。物価高なのは国の中心地だから仕方ないと思うけどねえ。ユールスール帝国やシルキア大国と比べればまだ安いほうだし、お世話になる予定だったところが雨漏りで修繕中だったんだから不可抗力というか」
「ただでさえ滞在期間が延びて生活が苦しいんです。ここで荒稼ぎをしておかないと、食事すらまともに食べられなくなります。すなわち、人生おしまいです」
あなたは地獄行きです、と宣告するような厳かな声で言い放った。
「そんな大げさな……。あ、すみません。俺が全面的に悪いです。だから、ちょっとその殺気はしまおうか。凄腕の暗殺者顔負けの気迫まで漂っているし。普通に怖い」
「誰のせいだと思って……!」
「うん。俺のせいだね。ごめんね」
「……っ……そういうところ、本当に嫌いです」
「ごめんってば。今度から気をつけるから許してよ」
「その言葉はもう信じません!」
「信用ないなあ。俺」
そう言いつつラザフォードにも自覚はあるのか、まあそれも無理はないか、と独りごちる。シャノンは売上金を布袋の中に片付けて紐をぎゅっと縛りながら、窓辺に立って夕焼けを見ていた相棒を横目で見る。
「それで、あなたは何をしてきたのですか」
「俺? 猫探しだよ」
「…………。私があくせく働いていたのに、のんきに猫と戯れていたと。へえ?」
皮肉が伝わったのだろう。シャノンが穏やかな笑みを向けると、笑顔の裏の怒りが急上昇したのを察知したのか、ラザフォードが焦ったように説明を始める。
「いやいや、ちゃんと真面目に探したよ! 猫とはいえ、その人にとっては唯一無二の家族だったし。この頬の傷だって、屋根から落ちかけた猫を助けたときのやつ。それに俺らにとって猫は神聖な存在でしょ。……あ、そうそう。お礼に焼き菓子をもらったから、あとで食べてよ」
「食べ物に関しては、遠慮なくいただきます。それより、例のものは見つかったのですか? 地方出張の途中で、わざわざ公都に戻ってきた目的はそれでしょう?」
本題に入ると、ラザフォードは意外そうに目を丸くした。
「おや。さすがは我がパートナーだ。言わずともどこに行っていたか、すっかりお見通しだったみたいだね」
「もったいぶらないでください。一度目の潜入は妨害されましたが、それぐらいで諦めるような人ではないでしょう」
「まぁね。結論から言うと、宝物庫に目的のものはなかった。どうやら移動されてしまったようだ。めぼしいところは一通り探ってきたけれど、収穫はなし。一切の痕跡すら残さずに消すなんて芸当、まるで魔法のようだと思わない? おかげで厳重になった警備をくぐり抜けてきた苦労がぜーんぶ水の泡! 大誤算もいいところだよ」
やれやれと言いたげに肩をすくめてみせる姿は、どこにでもいる優男だ。
しかし、その正体を知っているシャノンからすれば、どれが演技でどれが素なのか、いまいち判断ができない。この男は自分のことを仲間の前であっても、あまり話したがらない。
「どうするんです? 任務失敗と報告するおつもりで?」
「はは、それこそまさか! こんなことで諦めたら大怪盗の名が廃るというものさ」
「……犯人の目星はついたのですか?」
「宝物庫に入れる人間は限られている。大公家の人間、宝物庫の鍵を任された役人、警備の騎士、あとは変幻自在な大怪盗ぐらいだ。一応、入退室記録も偽装されていないか確認済みだよ」
「大公家がわざわざ聖具を盗み出すとは考えにくいですね……。警備の人数は複数でしょう? となると、一番怪しいのはその役人でしょうか」
「俺もそう思って見張っていたんだけどねえ。これがさ、なかなか尻尾を出してくれないわけよ。ほんと困っちゃう」
うら若き乙女のように両頬に手を当てて片目をつぶるポーズを見せられ、シャノンは眉間に皺を刻んだ。彼はどんな年齢の性別でも化けられる変装の名人だが、実年齢は二十代半ば。そんな年上の男の悪ノリに付き合うほど、シャノンの心は広くない。
「…………いい年して、かわいこぶらないでください。悪寒がします」
「ええ〜そんなはっきりと言っちゃう? さすがにひどくない? 傷ついちゃうなあ」
「そういう小芝居はいらないです。確か、聖具は管理者しか起動できないのですよね?」
「だんだん俺の扱いが雑になっている気がする。まぁいいけど。……何事にも例外があるように、絶対に不可能なわけではないんだよ」
起動できないなら多少放置しても問題はないと思っていたが、ラザフォードの横顔には翳りがあった。そこから導き出される答えはひとつしかない。
「そこまで警戒するということは、もし管理者以外が起動してしまったら、何かよくないことが起きるということですか?」
「さっすがシャノン! 相変わらず君は勘がいいね。強制起動すれば、聖具はたちまち呪われるだろう」
ドッキリ箱の中身をあっさり暴露するような軽口で言われ、思わず顔を片手で覆った。どう考えても聞き捨てならないフレーズがあった。シャノンはおそるおそる口を開く。
「……呪われる? 犯人は、そんなリスクを冒してまで盗んだということですか」
「さあ、それはどうだろうね。聖具が呪われるなんて、普通は考えないんじゃないかな。現に、上層部でも限られた人間しか知らないことだ。俺が考えるに、聖具の存在を偶然知った人物の犯行だろう。大胆にも宝物庫を隠し場所に選んだぐらいだから、宮殿内部の誰かが悪知恵でも働かせたんじゃないかな。自分で使うのなら手元に置いておけばいい。でも、そうしなかった」
ラザフォードの碧色の瞳が細められ、獲物を狙うように薄い唇が弧を描く。
「一体、聖具を使って何を企んでいるんだろうね。ずっと隠しているということは、まだ使うタイミングが来ていないのか、使えなくなったのか。政治の道具にするつもりなのかは知らないけど、大それた考えを抱いて、まんまと盗み出した悪者にはお仕置きが必要だよね」
「…………」
「君も知っての通り、聖具の窃盗は重罪だ。それを私欲のために使おうとした挙げ句、もし呪物に変えてしまったら愚行もいいところ。禁忌を犯した大罪人は裁きを受けなければいけない。けれど、この罪は公にはできない。だから適用されるのは一般的な法ではない。もちろん、下される罰も特別なものだ」
「……具体的には、どのような?」
質問に返されたのは無言の笑みだけだった。ここで口を噤んだということは、おそらく機密事項なのだろう。触らぬ神に祟りなしである。
この男が秘密主義なのは今に始まったことではない。無用な詮索は時間の無駄だ。シャノンは自分の役割を果たせればいい。
それこそが相棒である自分の存在意義なのだから。