26. わたくしは壁になりたい
「…………」
「で、では、私はこれで……!」
すでにいっぱいいっぱいなのか、プリムローズはマドレーヌをニコラスに押しつけると、そのまま立ち去ってしまう。ぱたぱたという足音が遠くなり、静寂が戻った。
一方のニコラスはぜんまいが切れた人形のように無表情になっており、息苦しい沈黙が書庫を満たしていく。誰も言葉を発さない。否、発せない。
セラフィーナは、横で心配そうに見ていたヘレーネに小さく頷きを返した。
相手の怒りがピークを超えている場合、目を合わせてはいけない。極力目立たないように、壁になったつもりで気配を消す。だが、ふとカウンターに広げていた巻物の挿絵が目に入った。双子の創世神が一人の女神と会話しているようだ。どんな話だろうと気になって目を凝らす。
そのときだった。険のある声が耳の中に滑り込んできた。
「――そこの下級女官。話がある」
「な、何でございましょう……?」
「ここに僕が来ていることを言ったのはお前か?」
十中八九、プリムローズの件だろう。
瞬時に頭を切り替え、背筋を伸ばした。変に動揺するほうが余計に怪しまれる。こういうときこそ、胸を張るのだ。やましいことは何もないのだから。
身の潔白を証明するべく堂々とした態度を心がけ、セラフィーナは口を開いた。
「いいえ。わたくしは何も。書庫は書物を探したり読書をしたりする空間です。違う用途に使う方をわざわざ招くことは、神聖な場所を冒涜することと同義。自分の大切な読書時間を奪うことにも繫がります。たまたま目撃されただけではないでしょうか」
「……そうか」
納得してくれたかどうかは怪しいが、ニコラスは神妙な顔で顎に手を当てて考え込んでいる。
今が逃げる好機だ。そう確信したセラフィーナは、そろりそろりと横歩きで扉を目指す。弁解はできたのだから長居は無用だ。
しかし、そんな胸中を嘲笑うようなタイミングで声がかかる。
「待て。どこへ行く?」
「……わたくしがいてはニコラス様の邪魔になりますので、部屋に戻ろうかと……」
「話があると言っただろう」
「…………本題は別ということですか?」
「奥で話す。行くぞ」
顎をしゃくり、ニコラスが歩き出す。
カウンター内で身を潜めていたヘレーネに視線を送るが、申し訳なさそうに両手を合わされてしまった。行くしかない。
看守についてこいと言われた罪人のような気分で、奥の壁際まで向かう。当然ながら他に味方になってくれる人は皆無である。万事休すだ。
(……うう。知らなかったとはいえ、初めて会ったときの態度はよくなかったわ。不敬だと思われて当然よね)
彼は公国の第二公子。下級女官が軽々しく口を利いていい相手ではない。
妃教育で叩き込まれた大公家の系譜を思い出す。
大公の妃は二人。正妃である大公妃、側妃である第二妃。クラヴィッツとレクアルは正妃の子だ。ニコラスは第二妃の子である。
ニコラスは二番目に生まれた男児だが、継承権は第三位だ。年齢はニコラスのほうが上だが、立場は弟の方が上なのだ。
正妃は公爵家の娘、第二妃は男爵家の娘だった。身分差は歴然だ。正妃と第二妃が不仲という話は聞いていないが、第二妃はほとんど表舞台に立つことはない。不要な争いを避けるために息子の継承順位を下にしたのは大公の配慮かもしれない。
社交界で生きる上で、実家の影響力は計り知れない。ニコラスが穏やかな公子を演じるのは自分のためだけではなく、母親を守るための処世術の可能性が高い。
(本当に迂闊としか言えないわ。もっとよく注意深く観察していれば、高貴な身の上だってわかったはずなのに)
重い足取りで行くと、待っていたニコラスが腕組みをほどく。
「弟から話は聞いた。第二妃に望まれているのだろう?」
てっきり不敬について咎められるとばかり思っていたので、反応が遅れた。
(……え? 第二妃?)
きょとんとして見やると、ニコラスが不可解なものを見るように眉を寄せる。
セラフィーナは慌てて答えを返した。
「その話でしたら辞退しております」
「……レクアルは僕と違って、裏表のない素直な子なんだ。うまくあいつを騙したようだが、害になる女をそばに置くことは僕が許さない」
剣呑な眼差しとともに宣言され、目を丸くする。
(……なるほど。レクアル様は、ニコラス様にとって大事な存在なのだわ)
舞踏会で一緒にいたことも踏まえると、異母兄弟でも仲は思っていたよりずっといいらしい。しかし、これほどまでに敵意を向けられるのは心外だ。
「騙しておりませんし、その予定もありません」
「口では何とでも言える。どうやって弟をたぶらかした?」
「誤解です。レクアル様に好かれるような特別なことをした覚えはありません」
「あいつはお人好しだが、どうでもいい女を妃にしようとは考えないはずだ。何かあるはずだ」
「そう言われましても…………。あ」
言葉を句切ると、ニコラスがたちまち目を光らせた。
セラフィーナが言葉を続けるより早く、被せるようにして質問が飛ぶ。
「何か思い出したか?」
「……猫を……助けました」
「なに、猫だと?」
呆気にとられた様子のニコラスから視線を逸らし、セラフィーナは数ヶ月前の記憶をさらう。
「木の上で降りられなくなった猫がいたのです。誰かを呼ぶ前に落ちてしまってはいけないと思い、わたくしが助けました。猫を抱えて着地したときにレクアル様に声をかけられたので……」
「ちょっと待て。初めて会ったのは舞踏会だと聞いたぞ。まさかと思うが、ドレス姿で木をよじ登ったわけではあるまいな?」
淑女としてありかなしかと言われたら、当然なしだ。
けれども事実は小説よりも奇なりともいう。セラフィーナは鷹揚に頷いた。
「そのまさかです」
「…………猿のような娘が趣味だとは思わなかった」
「それは返答に困りますね」
「とにかく、僕はお前を妃に迎えるなど、断固として認めないからな!」
人差し指を突きつけられて一方的に言うと、ニコラスはくるりと踵を返した。その場に残されたセラフィーナは頬に手を当てた。
(というか、第二妃はこちらから願い下げなのですが……。それにしても、レクアル様はお兄様からずいぶんと愛されていらっしゃるのね)
あそこまでまっすぐに思いを向けられる関係がまぶしく思う。
世間体が悪くなったら娘と縁を切るような親子関係しか知らないセラフィーナにとって、とても尊い家族のあり方だと感じた。