25. 待ち伏せの現場に鉢合わせしてしまいました
梅雨が終わり、冴え渡った青空から太陽が燃えるように輝いている。気温は容赦なく上昇し、女官の装いも夏仕様に様変わりした。ブラウスも五分丈になり、ワンピースや帯も薄手の生地に変わった。
書類仕事をしていると時折、窓から吹き込む風が首筋を撫でていく。
ユールスール帝国と比べればクラッセンコルトの夏は風が多く、同じ気温でも体の疲労度が全然違った。
ラウラの話によれば、公都カスピヴァーラは昔から風の通り道として有名らしい。夏はいいが、そのぶん冬は寒いという話だった。吹雪で外出すらままならないこともある帝国での厳しい冬を思えば、滅多に雪が積もらない公国は充分暖かい部類に入る。
(生まれ育った土地から離れたことがない人にとっては、この国の冬の寒さが普通なのでしょうね。……レクアル様のおかげで、今年の冬は暖かく過ごせそう)
秋になれば貴族たちは領地に戻っていくため、社交界のシーズンは夏までだ。最後の情報収集とばかりに、頻繁に夜会が開催されていると聞く。
場所は王都のタウンハウスであったり、宮殿のホールを借りたりと招待客の人数に合わせて変わる。主催者は粋な催しを企画する手腕も問われる。侯爵令嬢ではなくなったセラフィーナには関係のない話だが。
とはいえ、宮殿勤めをしていると、貴族たちの噂は自然と入ってくる。どこの令嬢が婚約しただの、新興貴族は羽振りがいいだの、さまざまな噂が飛び交う。
「あ、ローラント様……」
細い目元をすがめ、巻物を部下に運ばせていたローラントが立ち止まる。セラフィーナは進行方向の邪魔にならないよう、廊下の端によけて頭を下げた。
会議室から出てきた他の文官たちが前を過ぎていく。人の流れが途切れたところで、ローラントが口を開く。
「やあ。ラウラは一緒ではないのかい?」
「ラウラ先輩は上級女官からお使いを頼まれまして……」
答えると、セラフィーナを見つめていた瞳が少し和らいだ気がした。
「どうやら悩み事は解決したようだね」
「え」
「この前の思い詰めた表情とは違う。ラウラは役に立っただろう?」
セラフィーナは瞬いた。
言葉に詰まっていると、無言で見つめられる。心の中を見透かすような目に怯みそうになった。
あまり関わりはないはずなのに、なぜ気づかれてしまったのか。些細な変化を見逃さない観察眼は事務次官という職業柄だろうか。とにかく、うっかりボロを出さないように気をつけなくては。
セラフィーナは顎を引き、後ろで手を組むローラントを見上げた。
「ラウラ先輩には日頃から大変お世話になっております。感謝しても足りないくらいです」
「そうか。まあ、これからも仲良くしてやってくれ。……さて、私はこの報告書の山を片付けてくるとしよう」
後ろで待っていた部下に視線で促し、ローラントは文官棟へと歩いていく。
その後ろ姿を見送り、セラフィーナも自分の持ち場へと戻った。
◇◆◇
最近の休みの日はほぼ針仕事をしていたので、今日は久しぶりの書庫だ。
銀の取っ手をつかみ、ゆっくりと観音開きの白い扉を開ける。静謐な空間に溶け込んだ独特の匂いがセラフィーナを迎え入れる。慣れ親しんだ匂いにほっとする。
レンズを拭いていたヘレーネと目が合うと、彼女は急いで眼鏡をかけ直して手招きした。不思議に思いながらも忍び足で近づく。カウンターの中に入ると、ヘレーネはどこか警戒したように声をひそめ、そっと耳打ちした。
「あのね、先客がいるの。目をつけられないうちに、今日は帰ったほうがいいと思う」
「は、はあ……」
いつになく真剣な声色で言われ、セラフィーナは曖昧に頷いた。
よくわからないが、彼女がここまで言うのだ。警告に従い、おとなしく帰るのが無難だろう。
(でも一体、誰がいるのかしら……?)
そのとき、扉がまた開く。反射的にヘレーネとその場に屈み、カウンター越しにちらりと様子を窺う。現れたのは緑の服を着た男だった。
けれど、普通の文官ではない。洗練された立ち振る舞いに、さらりと伸びた藤色の髪と青紫の瞳。文官を装っているが、その正体はレクアルの兄であるニコラスだ。
ニコラスはセラフィーナの視線に気がつくと、すっと目を細めた。だがその口が言葉を発するより早く、第三者の声が割って入る。
「ニコラス様。お待ちしておりました」
書庫の奥から出てきたのは、紅色の帯を下げた上級女官。目を引くのは派手な縦巻の金髪。プリムローズだ。彼女はセラフィーナに気づいた様子はなく、ニコラスに視線を注いでいる。
対するニコラスはすぐに穏やかな笑みを浮かべ、首を傾げて見せた。
「僕がここに来るって、誰から聞いたのかな?」
「あ、あの。実はこの前、偶然お姿を拝見して……これも運命かと思って」
「運命?」
頭は大丈夫か? という副音声が聞こえた気がする。
温厚そうに見える笑みの下では、あのときのような毒舌をふるっているに違いない。セラフィーナは一度、彼の逆鱗に触れた。だからこそ、ニコラスの機嫌のバロメーターが今にも振り切れそうなのが肌でわかる。
(プリムローズ様にはあの猛吹雪ようなオーラが見えないのかしら……)
一瞬して相手を氷漬けにしそうな冷気を帯びた目だ。笑顔なのがまた怖い。
それを正面で見ているはずのプリムローズは本気で気づいていないのか、頬を薔薇色に染めている。
表と裏の顔を使い分けるのは処世術の一種だ。それ自体は悪いことではないが、彼の場合は落差が激しい。社交的な笑みを浮かべていても、近づいていいときかどうかをよく見極めなければ、余計な火の粉を被ることになる。
(よく考えれば、ニコラス様がここに来た理由だって、わかりそうなものだけど)
貴重な休日にわざわざ文官の服を着てきた彼に、自分から話しかけるなんて普通は恐れ多い。彼がお忍びスタイルで現れるということは、平たく言えば、声をかけるなという意思の表れである。わかっていても見ないふりをするのが大人の配慮だ。
だというのに、世間一般の常識が頭からすっぽり抜け落ちてしまったのか。それとも自分ならば受け入れてもらえるという確信でもあるのだろうか。恋か憧れかはわからないが、プリムローズの視野が狭くなっているのは間違いない。
もし周囲の状況が見えていれば、ニコラスの反応に気づいて青ざめながら退散するはずだ。貴族と接する機会が多い上級文官であれば、なおさら。ここまで判断能力を鈍らせるなど、恋する乙女の思考回路は恐ろしい。
(……でも、なんでよりによってニコラス様?)
はっきり言って無謀だ。冒険初心者の勇者が軽装備で魔王の根城に乗り込むようなものである。いや、素顔を知らないからこそか。きっと彼女は第二公子として振る舞う姿しか見たことがないのだろう。そして、ただの社交辞令を、自分だけに向けられた特別な言葉として受け取った可能性もある。でなければ理由がつかない。
ニコラスしか見えていないプリムローズは、はにかみながら胸元に大事に抱えていた包みを差し出した。
「あの……殿下はマドレーヌがお好きと聞いて焼いてきました」