24. 踊らない舞踏会
ホールの近くには、従者の控え室や体調を崩したときの個室が設けられている。その一室から一人が退室し、廊下を歩いていたセラフィーナとすれ違う。
ムスクの甘い香りがふわりと匂い、反射的に振り向く。
だが若い男は歩みを止めず、そのまま去っていく。その後ろ姿を見つめたまま、セラフィーナは首をひねった。
(燕尾服ってことは招待客よね。でも、少し雰囲気が……)
うまく言葉にできないが、何かが引っかかる。少し悩んで、来た道を戻る。
先ほど見かけた男は舞踏会の会場には戻らずに直進し、突き当たりを右に折れた。やはり、おかしい。セラフィーナは男の後を追う。
早歩きで進むが、距離はどんどん離されていく。焦りが募る。
何度目かの曲がり角を曲がったところで、完全に姿が見えなくなった。小走りで追う。これで追いつけるはず。そう思った直後だった。
「……っ……!?」
「お静かに」
悲鳴を上げるより先に、後ろから伸びた大きな手で言葉を封じられた。
(尾行していたのがバレていた……!?)
できるだけ気配は消したつもりだった。ヒールの音は毛足の長い絨毯が吸収していたはずだ。にもかかわらず、一体いつの間に背後に回り込まれてしまったのか。どう考えても相手のほうが一枚も二枚も上手だ。敵わない。
抵抗を諦め、両手を挙げる。すると、口元を覆っていた手が下ろされた。
ゆっくりと振り向き、セラフィーナは目を瞬いた。
赤茶の髪に温和な表情。二十代後半の痩せ型。どこにでもありそうな外見だ。碧色の双眸は優しげだが、瞳の奥に底知れない気配を感じた。
(この瞳……どこかで……)
記憶の糸をたどる。魚の骨が喉元でひっかかったような、もどかしい気持ちで最近会った顔を思い出す。顔を覚えるほどの知り合いはそこまで多くない。彼と同じ特徴を持つ人物はいなかっただろうか。
消去法で候補を絞っていくうちに、ある可能性に気がついた。
「あなたは……まさかノイ・モーント伯爵?」
忘れていたが、今夜は新月だ。
舞踏会にもランクがある。高貴な身分であるレクアルとニコラスを招待できる貴族は限られている。舞踏会の主催者である公爵家の邸宅には当然、珍しい宝石や彫刻が多く眠っているはずだ。
男は満足げに口の端をつり上げた。
「おや。一発でわかるとは。ぜひ理由を聞きたいね」
「その油断ならない瞳は一度見たら忘れられないわ。一体、何を盗みに来たのかしら」
「ふふ。今夜の獲物なら、もういただいた後だよ」
庭に面した渡り廊下に人気はない。
ホールの給仕で使用人が出払っているのだろう。舞踏会の会場ともだいぶ距離がある。ここで悲鳴を上げても、すぐに助けは来ないと思ったほうがよさそうだ。おそらく、怪盗伯爵もそのことがわかっているのだろう。その証拠に焦った様子はまったくない。
セラフィーナは動揺を悟られないよう、努めて平静な声を出した。
「盗みは犯罪よ」
「わかっているさ。俺は貧しい村の出身でね。私腹を肥やすお貴族様の蓄えを民に分けているだけだよ」
「義賊ということなの?」
「まあ、やっているのは泥棒と同じだけどね」
肩をすくめて見せる様子は嘘を言っているようには見えない。
「……あなたから見たら、どれも同じ宝石かもしれないけど。もしかしたら、この世に一つしかない思い出の品かもしれないじゃない。そんなものを盗んで心が痛まないの?」
「いちいち良心を痛めていたら、怪盗業には向いていないだろうね」
あっけらかんとした口調に開いた口が塞がらない。
不意に怪盗伯爵が真顔になり、そっと口元に人差し指を当てた。その合図に耳を澄ませば、誰かがこちらに向かってくる気配がした。庭園の奥からだ。つい、意識がそちらに向く。
だがその一瞬の隙を突くかのように煙幕が視界を防ぐ。霧が晴れたときには目の前には誰もいなかった。きょろきょろと周囲を見渡すが、影も形も見当たらない。
(逃げられたわ……!)
その原因となった足音が近くで止まったかと思えば、唐突に呼び止められる。
「そこのあなた!」
幼さを含んだ高い声は記憶に新しい。セラフィーナが振り返ると、先ほど立ち去ったはずのカレンデュラが眦を吊り上げてこちらを睨んでいた。
「勝負しなさい!」
「……勝負、ですか?」
「ええそうよ。勝ち逃げなんて許さなくってよ。あなたも貴族の一員なら、その家名に誓って勝負を受けなさい」
「…………」
領地追放された身の上なので、セラフィーナはもう貴族ではない。
捨てた家名に誓う理由も義務もない。依頼されていた偽恋人としての役目は一応終わった。今回の目的は、エディの恋人として振る舞い、カレンデュラに諦めさせること。
一度だけの嘘ならばまだしも、二度目以降はリスクが高くなる。不要な勝負を受けるなんて、もってのほかだ。なのだが。
目元を赤くしたカレンデュラを見ていると、不覚にも心が揺れてしまった。
◇◆◇
宮殿にも引けを取らない薔薇園を横目に歩いてホールに戻っていると、ちょうど前方の柱の陰からエディが姿を見せた。早足で近づいてくる。
「セラフィーナ。よかった、ここにいたんですね」
「……エディ様」
「探しましたよ。どこにも姿が見えなかったものですから」
心配そうに顔色を窺われ、いたたまれない心地になる。
騎士服を着ていないエディは今、セラフィーナのパートナーだ。自分の帰りが遅ければ、こうして探してきてくれる。その事実に胸が沸き立つ。
(だめ、勘違いしてはだめ。だって、わたくしたちの関係は……)
偽りの恋人で、今夜限りの関係だ。役目もすでに果たした。これ以上、何を期待するというのだろうか。
セラフィーナは胸にうずく思いを断ち切るように口を開いた。
「伯爵と会いました」
下級女官であるセラフィーナが公国内の貴族と接する機会はほぼない。もちろん、顔だけで爵位を見抜くなんて芸当もできない。二人が知る共通の人物はおのずと限られる。
エディはわずかな沈黙の後、そっと息をついた。
「……それは、大怪盗の?」
「はい」
「…………。また奴が現れたのですか。まさか、ここでも盗みを……?」
「すでに犯行は終わったようで、逃げられてしまいましたが」
余裕のある笑みを思い出すだけで、ひどく口惜しい気分になる。
一度ならず二度までも、みすみす逃がしてしまった。せめてドレスでなければと悔やまれる。
「――怪我は?」
「え?」
「どこか、痛むところはありませんか?」
真剣な眼差しに、セラフィーナは自分の体を見下ろした。
レクアル付きの上級女官たちが全力で仕上げてくれた化粧とドレスは、まさに淑女の武装ともいえる出来映えだ。借り物のドレスは美しいままである。
怪盗伯爵は油断できない相手だが、服装が乱れるような手荒な真似はされていない。
「……いいえ、傷一つございません」
「あなたに怪我がなくてよかったです」
ほっとしたように肩の力を抜く様子を見て、申し訳ない気持ちが募る。
「ご心配をおかけして申し訳ございません。でも、そこまで心配していただけて嬉しいです」
「当然です。あなたは殿下の第二妃候補ですから」
「――――」
「どうしました?」
「い、いえ。なんでもありません」
小さく頭を振って邪念を振り払う。
エディは不思議そうに首を傾げていたが、遠くから聞こえる宮廷楽団の音色に顔を上げ、それからセラフィーナに視線を戻す。
「主催者と殿下に挨拶して帰りましょう」
労るように背中に手を添えられ、会場までの道を二人で歩く。
確かに用事は終わった。諦めてくれたかはともかく、カレンデュラに牽制はできた。彼女は帰ってしまったし、もうここにいる必要はない。そう頭では理解できるのに、どうしてだか心が波立つ。
結局、その日は円舞曲を一曲も踊ることなく、帰りの馬車に揺られていた。目の前に座るエディが視線に気がついて笑みを浮かべる。セラフィーナも笑みを返した。
自分の役目は最初からわかっていたはずなのに。なぜ、こんなにも胸が痛いのだろう。