23. すみません、この役は荷が重かったです
一触即発の雰囲気には慣れているのか、エディは穏やかな笑みとともにセラフィーナの紹介をすらすら始める。
「彼女はセラフィーナ。ご実家はユールスール帝国の侯爵家で、私が親しくさせていただいている大切な女性です。……そして、こちらがレスポワ伯のご息女のカレンデュラ。妹と仲がよかったので、彼女とは昔なじみのようなものです」
「そう、あなたはセラフィーナ様とおっしゃるのね」
「カレンデュラ様には一度お会いしたいと思っていました。エディ様と古くからお付き合いがあるそうですね」
挑戦的な眼差しを受け止め、セラフィーナは意味ありげに笑う。
だてに何年も貴族社会に身を投じていない。心の整理はできていなくとも、体が自然と臨戦態勢になる。
――相手に侮られるべからず。
それは名門アールベック侯爵家に生まれてきたセラフィーナが、幼少のときから言い聞かされてきた家訓のひとつ。
人の上に立つ者として威厳を示し、決して隙を見せてはならない。たとえ弱みを握られても余裕の笑みを浮かべるぐらいの腹芸ができなければ、到底やっていけない。方々から恨みを買っている侯爵家を貶めたい連中はごまんといる。相手につけいる隙を与えるな。会話で主導権を握られてはならない。かつてセラフィーナが生きてきたのは淑女の仮面を被り、その下では足の引っ張り合いが常の世界だ。
(ただやり込められるだけの弱い娘では、エディ様の役には立たない。彼女が思わず負けを認めるくらいの強い女性――それこそ、物語の悪役令嬢のようでなければ)
ヒロインを泣かす、あの傲慢な悪役の台詞を思い出せ。きっと大丈夫。だって、昔から自分はヒロインにはなれない運命なのだから。
バチバチッと見えない火花が飛び交う中、先に口を開けたのはカレンデュラだった。
「私は昔からエディ様をお慕いしておりました。ゆくゆくは結婚相手として。あなたはエディ様と出会って何日かしら?」
「恋に時間は関係ないと思いますが。……ああそれとも、それしか自慢できることはないということでしょうか」
「なんですって!?」
激昂したカレンデュラが目をつり上げる。
不機嫌な表情を隠そうともせず、威嚇中の猫のように敵意を剥き出しにしている。社交界で生きていけるのか、心配になるほどに。曲がりなりにも貴族ならば、もう少し感情制御を身に付けねば危ない。エディが彼女を伴侶として選べない理由がなんとなくわかった。
セラフィーナは頬に手を当て、嘆かわしいという顔を作った。
「どうやら、愛する人を奪われたとお思いのようですが、何か勘違いしていませんこと? 都合の悪い現実から目を背けているだけでは? 最初からエディ様の心はあなたにはなかったという事実から」
「なっ……失礼な方ね!? まるで見てきたかのように……!」
くわっと目を剥き、カレンデュラが憎々しげに言う。
一方のセラフィーナは説き伏せるように、ゆったりとした速度で話す。
「直接見てはおりませんが、大まかなお話は伺っております。なんでも自分と結婚するように、しつこくつきまとっていたとか」
「しつこくって何よ! 私は自分を結婚相手にすれば、どれだけいいか、そのメリットを教えて差し上げただけよ」
「それを世間一般にはしつこいと言うのですよ」
一刀両断すると、カレンデュラはうっと言葉を詰まらせた。しかし、すぐに気を立て直したのか、ふんと胸を張った。
「で、では……あなたは一体何なのかしら? 婚約者でもないくせにエディ様を独占しようだなんて、遠慮というものを知らないのかしら。嫌ですわ、ただの好意でパートナーに選ばれたぐらいで、恋人気分になられては」
恋人気分も何も、今夜のセラフィーナは偽恋人だ。何も間違ってはいない。
セラフィーナは目を見開いて大げさに驚いて見せ、扇を開いて口元を隠した。
「まあ。何が違うというのでしょう?」
「は?」
「わたくし、エディ様には大切にされていますのよ。それこそ、恋人のように。彼は跪いてヒールを履かせてくださいましたわ。あなたにはその経験はございまして?」
「な……な……っ!」
「ねえ、エディ様。わたくしは恋人のように慕っておりますが、あなたはどうですか?」
それまで傍観者に徹していたエディに視線を向けると、小さく頷きが返ってきた。
「そうですね。私も同じ気持ちです。……そもそも、カレンデュラとは古い付き合いがあるというだけで、恋愛感情を向ける相手という認識はありませんでした」
カレンデュラは信じられないとでもいうように、言葉をなくしている。たたみかけるなら今だ。
扇をパンッと閉じ、冷笑を浮かべた。
「おわかりいただけましたか? わたくしとあなたでは違うのです」
「……っ……」
屈辱に耐えかねてか、うつむいていたカレンデュラが踵を返す。色とりどりのドレスの中に消える背中を見届け、セラフィーナはエディに小声で話す。
「……少しはお役に立てたでしょうか?」
「ええ。充分です。ありがとうございました」
おそらく聞き耳を立てていたのだろう。カレンデュラが立ち去ったことで、周囲の囁きが一層大きくなった。エディは人が少ない壁際にセラフィーナを連れていき、好奇な目からかばうように立ってくれる。
薄紅色の髪はもう見えないが、なぜか彼女を探したい気持ちに駆られた。
決して仲良くできるタイプではない。だけど、どこか放っておけない危うさがあった。今回は恋する乙女の暴走だった。思い込みが激しい一面があるのかもしれないが、根は素直なのだと思う。多感な年頃だ。年上の異性に優しくされて夢を見るぐらい、普通の反応だ。
きれいさっぱり諦めさせるのが目的だったとはいえ、傷つけてしまったことに変わりはない。
「ちょっとかわいそうな気もしますね……」
思わずもれたつぶやきに、エディが硬い表情で答えた。
「こればかりは致し方ないでしょう。ああでも言わないと、カレンデュラは止められませんし。……でも、驚きました」
「え?」
「いつものセラフィーナと違って見えましたから。瞬時にあれほど雰囲気を変えられるのですね」
感心したように言われて、セラフィーナはそっと目を伏せた。
「……まあ、そうですね。似たような場面は何度か見たことがありましたので。台詞は小説を参考にさせていただいたのですが、やはりこの役はわたくしには荷が重いですね。悪役になりきる心構えが足りませんでした」
「心構え」
「ええ。良心が痛みます。断罪された身ですが、こういったことは初めてだったものですから。経験不足であることは否めません。高慢な態度を取り続けるのって意外と大変なのですね。はったりをかけるぐらいの基礎教養しか自信がありませんもの」
「……基礎教養?」
「祖国では周囲が悪だと認識すれば、実際にしているかは関係なく悪者扱いでしたし。それとも素養の問題でしょうか。いずれにしろ、物語のような完璧な悪役までの道のりは遠いですね……」
重々しく告げると、沈黙が訪れた。
物語の悪役令嬢はヒロインと敵対する役だからこそ見せ場は多いが、それらしく振る舞うのもなかなか神経を使う。多少は社交界での経験が役に立ったとはいえ、相手を徹底的に追い詰める方法はあまり気分のいいものではない。
眉を寄せたエディは、ためらいがちにこう切り出した。
「……あの、つまり冤罪だったのですか? どうしてそれを主張しなかったんです?」
「気づいたときには何もかも手遅れだったのです。無関係ではありませんでしたし、取り巻きはわたくしに指示されたと言うでしょう。それに、ディック殿下のお心はすでに別の方のものでした。わたくしができることは、ただ婚約破棄を受け入れることだけだったのです」
「…………悔しくはないのですか?」
「いいえ。一連の騒動の責任はわたくしにもあります。周囲の暴走を止められなかった。彼女たちを諫めようとしましたが、言葉は届きませんでした。わたくしのため、と言いながらエスカレートする行動を見て見ぬふりをするしかできなかった。すべては、わたくしの力不足です」
あの結果を招いたのは、他でもない自分だ。
過去の自分は諦めてしまった。何を言っても無駄だとわかってしまったから。自分の取り巻きすら満足に動かせない。何が侯爵令嬢だ。彼女たちが求めていた主と自分は違いすぎていた。だから周りが見限ったのだ。
その中で、形だけの婚約者から心が離れていくのも自然の摂理だろう。
「そんなことはないと思いますが。セラフィーナはいつだって、最善を尽くそうとしているじゃありませんか。仕事も弱音一つ吐かずに取り組んでいますし」
「買いかぶりすぎですよ」
「誰が何を言っても、私は自分の直感を信じます。あなたは信頼できる人です」
「…………」
まるで、ありのままの自分でもいいと言われているみたいだった。
ユールスール帝国では誰も信じてくれなかった。
だけど、ここにいた。自分の言葉を変な風に解釈せず、真摯に耳を傾けてくれる人が。
「すみません、私風情が言っても何の慰めにもなりませんね」
「そ、そんなことはありません。……とても嬉しいです」
心からの感謝を告げると、エディが安心したように微笑んだ。その優しい笑みは、頑なに閉じていた蕾が春の暖かさに驚いて花を開かせるほどの威力を放っていた。
遠巻きにこちらの様子をちらちらと見ていたご婦人たちが、エディの放つ色香にあてられて腰が砕け、連れの男性に支えられているのが見えた。同じ女性として同情してしまった。美しすぎる男の笑顔は時として凶器になる。たとえ、本人にその気がなくても。
ある程度耐性のあるセラフィーナでさえ、ぐらりときたのだ。一度、距離を取って心を落ち着けたい。ドレスの裾をひとつかみし、退室の許可を願った。
「エディ様。少し夜風にあたってきていいでしょうか?」
「お供しましょう」
「い、いえ。一人で涼んできますので……」
「わかりました。では、お待ちしていますね」
エディに見送られながら、セラフィーナはきらびやかなシャンデリアの下から抜け出した。