21. 助けが必要ですか?
昨夜は土砂降りだったが、今は細い銀糸を垂らしたように、しとしとと地面を濡らしている。遠くで黄色い小鳥が数羽並び、木の枝で雨宿りをしているのが見えた。
その光景に心が和んでいると、ふと誰かに呼ばれた気がして足を止める。
慌てて顔を前に戻すが、正面には誰もいない。ならば後ろか。そう思ったとき、もう一度、焦れたような声で名を呼ばれた。
「セラフィーナ」
振り返った先にいたのはエディだった。どことなく困った様子で、少し眉尻を下げて。
しかしながら、麗しい騎士は雨の日でも目の保養になるのだと感心してしまう。肩から垂らした翡翠の髪は変わらず艶やかだ。すっと通った鼻梁、形のよい薄い唇、涼しげな目元。ディックで見慣れていたはずだったが、彫刻家が作り上げたような完成されたパーツの配置に、女としての敗北感が生まれる。
けれど元婚約者と違うのは、服越しにもはっきりわかる、鍛え上げられた体躯。ほどよく筋肉のついた肢体はたくましさを感じさせる。
「姿が見えないから、女官にあなたの居場所を聞いて探していたんですよ」
「……それはお手間をかけました」
「これからついてきてもらえますか? レクアル殿下がお呼びです」
「え、でも、まだお仕事が……」
残っているので、と言おうとしたところで、珍しく言葉が被さる。
「ラウラという女官に話は通してあります。さあ、殿下がお待ちです」
◇◆◇
貴婦人が集うサロンの前を通り過ぎ、宮殿北側にある黄薔薇の館まで足を運ぶ。
ここまで来るのは初めてだ。黄薔薇が誇らしげに咲き誇る区画は、外国の使節団などが宿泊するのに使う場所のためか、人気はない。晴天の中で見る薔薇は見事だろうが、あいにくと灰色の薄絹を被せたような梅雨空では脇役だろう。
セラフィーナたちが近づくと、部屋の前で立っていた近衛隊が恭しくドアを開ける。エディに目で先に入るように促されて一歩、足を踏み出した。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
しずしずと進むと、天鵞絨の幕が垂らされた部屋の奥で、レクアルが肘掛けから身を起こす。
「……来たか」
「はい。どのようなご用件でしょうか」
長椅子で居住まいを正したレクアルの後ろにエディが立つ。
「ちょっと人助けをする気はないか?」
「……と言いますと?」
「うむ。エディには付き合いの長いレディが一人いてな。今度の夜会でパートナーになってほしいと打診があったのだが、断りたいのだ」
「何か不都合が?」
「エディ、続きは頼む」
話の流れがわからず、エディに視線を向ける。二人分の視線を集めた彼は滑らかに説明を始めた。
「彼女はレスポワ伯爵家の一人娘なのですが、昔から私と結婚すると言って聞かなくて。六歳年下ということもあり、今までは子どものわがままだと流していたのですが、彼女は今や十六歳。真剣に結婚を考える年齢になりました」
「……エディ様には結婚できない理由があるのですね?」
セラフィーナが確認すると、二人とも渋い顔になった。
難しい顔で腕を組んだレクアルは視線を下げ、唸るように言った。
「相手が望んでいるのは婿養子だ。子爵家の次男であるエディは騎士となるために育ってきた。それなのに、今さら領地経営をしろというのも無謀な話だろう?」
同意を求める声に、セラフィーナは開きかけた口を閉じる。ちらりとエディの顔を盗み見るが、心の内まではわからない。
(エディ様は子爵家。相手は伯爵家。向こうのほうが立場が上なら、普通は断れない。だけどエディ様はレクアル殿下の側近だから……レクアル様が許可しないと言えば相手も強く出られない。でも、それをしないということは、余計な圧力をかけたくないから……?)
付き合いが長いようだから、そのことも関係があるのかもしれない。
だが、腑に落ちない。家督を継がない次男が他家の婿入りを狙うことは珍しくない。レクアルの側近に取り立てられていることを踏まえると、エディに教養が足りないとも思えない。最初から騎士を目指していたとはいえ、次男は長男に何かあったときの代わりでもある。少なくとも領地経営の予備知識はあるはずだ。
セラフィーナは顎に当てていた指先を下ろし、レクアルを見つめた。
「先方はそれでもエディ様を次期当主に望んでいる、ということでは?」
「まあ、こいつは器用だからな。やってできないことはないだろうが、エディを取られると俺が困る」
「……なるほど。そちらが一番の理由ですか」
納得がいって目を細める。レクアルは話題の矛先を変えるように、わざわざ体の向きを変えて自分の護衛に助けを請うた。
「エディも俺のそばを離れがたいだろう?」
「語弊のある言い方をしないでいただけますか。確かに仕事は気に入っておりますが、カレンデュラとはそもそも性格が合いません」
キッパリと否定する言葉が聞こえてきて呆気に取られる。温和なエディなら、どんな相手ともそつなく関係を築けそうなものだが。
「……そんなに性格に難がある方なのですか?」
「いえ、そういうわけでは。単純に私が彼女を苦手としているだけです」
「はっはっは、小さな女王様だったもんな。お前が苦手そうなタイプなのは間違いない」
懐かしそうに昔話を始めそうな雰囲気に、話を引き戻すべく口を開く。
「それで、わたくしは一体何をすればよいのでしょうか」
「ああ、そうだった。セラフィーナ、エディの恋人になってくれ」
「……は?」
「もちろん、恋人のフリだ。お前はゆくゆくは俺の妃になる存在。一時の人助けだ」
セラフィーナは今度こそ言葉を失った。
(今、レクアル様はなんて言った……?)
聞き間違いでなければ、恋人と言わなかったか。
それは想い合う男女を指す言葉のはずで、セラフィーナには縁のない単語。そう、縁がない。告白されたことも告白したこともない。求婚ならされたことはあるが、恋愛対象としてではなかったのでノーカウントだ。
先日読んだロマンス小説では、すぐに結ばれるわけではなく、数々の障害を乗り越えた先でようやくお互いの思いを伝え合っていた。すれ違ったり急接近したりして一喜一憂する。いろいろなハプニングに巻き込まれながら愛を育むのだ。
その恋人役を、よりによって――。
(え、え、えええええっ!?)
遅れた驚きがやってきて、心の中で悲鳴を上げる。
無理だ。どう考えても、セラフィーナに務まるわけがない。明らかに人選ミスである。これまで婚約者はいたが、政略的意図によるものだった。隣にいるのは当たり前だった。義務的な関係だ。愛を囁かれたことだって、もちろんない。
こんな大役、恋愛経験がない自分では手に余る。丁重にお断りすべき案件だ。
「で、ですが……まだわたくしは公国に来て日が浅いですし。それに偽の恋人役でも、他に希望者はたくさんいらっしゃるのでは……?」
遠回しに辞退を申し出るが、レクアルは首を横に振った。
「内密に事を済ませたい。この意味がわかるか?」
「……つまり、後腐れなく手助けできる女性は限られている、ということですか」
「そうだ。それに、侯爵令嬢として場数を踏んできたお前なら心配はないだろう?」
確かに伯爵令嬢が相手ならば、それなりの場数や教養が求められるだろう。
でも待ってほしい。他の相手ならばまだしも、エディだけは――。
「……私の事情でこんなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳なく思います」
ぽつりとこぼれた声に、とっさに顔を上げる。
悪戯を叱られた子どものように少しうつむき、透き通った金色の瞳が悲しげに揺れていた。
違う。そんな表情をさせたいわけではなかった。
(本当にエディ様は困っているのだわ。それなのに、わたくしはつまらない意地を張って……)
覚悟を決めたセラフィーナは、声を上ずらせながらも懸命に言葉を紡いだ。
「エディ様にはいつも助けていただいています。わたくしでよければ、喜んでお手伝いいたしますわ」
「よろしいのですか? あまり気乗りがしなかったのでは……」
「問題ありません」
力強く頷くと、エディは虚を突かれたように目を丸くさせ、やがて花がほころぶように笑った。
その様子を見ていたレクアルが満足げに口の端をつり上げる。
「――話はついたな。では、詳細を話すぞ」