19. 月が見えない夜
就寝時間はとっくに過ぎて、しんと静まり返った女子寮にて。
カーテンをロープ代わりにして、するすると降りて地面に降り立つ。下級女官の装いのまま、セラフィーナは極力足音を立てないようにして目的の場所へと急ぐ。
闇色に染まった花梨の道に向かう途中で、ぐいっと後ろから左腕をつかまれた。
「……っ……!?」
とっさに振り返ると、そこには見知った顔があった。
彼の左手にはランタンが握られており、ゆらゆらと揺れる光源が足元を明るく照らし出す。
「セラフィーナ。なぜ、ここに?」
金色の瞳は不可解そうな色を宿し、驚くセラフィーナを見下ろす。
「……気になって来てしまいました。情報提供者はわたくしですもの。ただの杞憂だったらよいですが、もし違ったら大変なことになるかと思って」
腕の拘束はすぐに解かれた。代わりに、大きなため息がこぼれる。
かと思えば前髪をかき上げ、エディは困った教え子を諭すようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「夜に女性が一人で出歩く危険性はわかっていますか?」
「……はい」
「あなたは見た目に反して、だいぶ行動力があるようですね。私の認識不足でした」
皆が寝静まった時間であるせいか、声がやけに響いて聞こえる。
どう言えば許してもらえるだろうかと脳内で算段していると、エディが諦めたように言った。
「仕方ありません。私から離れないでくださいね?」
「はい、わかりました」
従順に頷くと、エディが顔を引き締めて横に並ぶ。
横風でマントが翻る。彼の腰のベルトに下げられた剣の長さが目に入り、思わず足を止める。
「それ……レイピアよりは短いですよね」
エディも足を止め、帯剣している腰ベルトを一瞥した。
「ああ、スモールソードです。レイピアは重量があり、今は決闘用に使われています。スモールソードは刀身は短いですが、軽量で使い勝手がいいんですよ」
「なるほど、時代に即した剣ということですね」
「珍しいですか?」
「え、ええ……。ユールスール帝国では、もう少し長い剣が主流でしたので」
答えると、エディが自分の得物を軽く撫でた。
セラフィーナには馴染みがないが、日常的に使っている彼には愛着があるのだろう。
「慣れたら、こっちのほうが楽なんですけどね――」
苦笑いとともに吐き出された息を飲み込み、エディがすっと目を細める。先ほどまでの穏やかな気配が一転し、緊迫感が張り詰める。
守るようにセラフィーナの前に長い腕が伸ばされ、視線が左右を行き来する。
(どうしたのかしら……?)
警戒しているエディを見ながらセラフィーナも不審人物がいないか、耳を澄ます。けれど、聞こえてくるのは地面に落ちた葉が風でさらわれる音だけ。
気のせいだったのでは、と強ばっていた体から力を抜いたとき、エディが持っていたランタンを下に置いた。「え?」と思う間に、抜刀して壁際まで走り抜けていく。
それはセラフィーナが瞬きをしているうちに起こった出来事だった。城壁から人が降ってきたと思ったら、その真下にはエディが待ち構えていた。
セラフィーナはランタンを拾って、慌てて城壁の近くまで足を向けた。
金属音がぶつかる音がして、二人分の影が闇の中を動く。
邪魔にならない距離で見守っていると夜目が利いてきて、遠くの様子が少しずつ見えてきた。侵入者の顔は白い仮面で覆われていた。不気味な笑みをかたどっている仮面に、派手な羽根の飾りがついている。
(あれが怪盗ノイ・モーント伯爵……?)
首元には貴族らしいクラバットが巻かれている。エディが繰り出す剣戟をひらりと躱しながら宙返りして、膝丈まであるフロックコートの裾が翻る。
昼間のような身軽な動きに目を奪われていると、仮面越しに目が合った気がした。見えないはずなのに、なぜか不敵な笑みを浮かべているような錯覚に襲われる。
だが、その余裕は長くは続かなかったようで、エディが一気に距離を詰めてつばぜり合いになる。弓なりに反った短剣が弾かれ、遠くの茂みに落ちる。
怪盗伯爵は後ろに飛び退いて、コートの中に手を入れたかと思うと、何かを投げつけた。
長く伸びた鎖がエディの剣にくるくると巻き付く。ぐいっと引っ張られるのをエディが力を入れて踏ん張るが、怪盗伯爵のほうが上手だ。剣ごとエディが引きずられる。かと思ったら突如、鎖の拘束がなくなり、力を入れていたエディが体勢を崩す。
そこに怪盗伯爵が飛びかかり、足を振り上げる。けれどエディはすんでのところで身を躱し、剣を突き出す。怪盗伯爵は軽い身のこなしでよけていくが、小石につまずいたのか、反応が一瞬遅れる。
その隙を逃さず、エディの剣先が怪盗伯爵の顎下を狙う。
(あ……)
コトリと仮面が地面に落下する。
夜の宮殿とはいえ、オイルランプの外灯は一定の距離ごとに置かれている。
その光がわずかに届く薄闇の中、さらされた素顔を見てエディが目を見開く。少し離れた場所で見守っていたセラフィーナも驚愕した。なぜなら、その顔は――。
(レクアル様……? そんな、はずが……)