16. 断じて傷ついてなどいません
女官たちの噂話は尽きることがない。セラフィーナが聞くつもりはなくても、自然と耳に届いてしまう。今日もまた、耳寄りの話が舞い込んできた。
どうやらクラッセンコルトの騎士団には、シルキア大国から来た者もいるらしい。かの国は魔女狩りが盛んな土地。うまくいけば有益な情報が得られるかもしれない。
けれど新米の下級女官がのこのこ行っても、相手にされないか、よくて軽くあしらわれるのが関の山。部外者に、母国の内情を簡単に教えてくれるはずがない。公国の騎士団に所属する騎士であれば、他国の悪評を口にすることも重さも、当然わかっているだろう。だったら、残る手はひとつ。
(人心掌握術入門・第六条『口を滑らすには食べ物で釣れ』……でしたわね!)
実家にあった指南書を思い出しながら、冷ましていたクッキーの焼き色を確かめて個包装する。リボンで巻いたら完成だ。
先日の嫌がらせは、ラウラの注意のおかげでだいぶ減った。こまごまとした嫌がらせは続いているが、業務に支障が出るほどのものではない。
お昼の空き時間を有効活用し、プレゼント大作戦の品物を木製の籠に詰めて宮殿の通路を歩く。
だが数歩も行かないうちに複数の女官が立ち塞がった。帯の色は同じ灰色だ。先頭にいるのは赤髪の三つ編み少女。ジーニアだ。
「それを持ってどこへ行くつもり?」
「……騎士宿舎へ。騎士の皆さんに差し入れをしようと思いまして」
「なら、私たちが代わりに行ってあげるわ」
「は?」
ジーニアの横にいた女官がかすめ取るように手にしていた籠を奪った。突然のことに反応できず、ジーニアを見つめ直す。
「一体、どういうことですか?」
「あなた、働き過ぎなのよ。たまには休まなくてはだめよ。ラウラ先輩からもそう言われているでしょ?」
「それは……そうですが、差し入れは私が勝手にしていることです」
「だから、それは私たちがやっておくから。あなたは部屋で休んでいなさいよ」
それ以上の押し問答をする気はないらしく、ジーニアたちはくすくすと笑いながら背を向ける。奪い返すのは簡単だ。けれど、そうすればまた口論になるのは目に見えている。
どうするのが最善か。考えている間に、彼女たちの姿はずいぶんと遠くなっていた。
自分の腕にあった重みはなくなり、残ったのは虚無感だけ。
(平気よ。また作ればいいだけじゃない……チャンスはまだあるわけだし)
一応、妨害の可能性は考えていた。しかし、まさかあんな風に一方的に取り上げられるとは思っていなかった。今度からは彼女たちに勘づかれないやり方でやるしかない。
「……レクアル様に報告しましょうか?」
慌てて振り返れば、困惑した面持ちのエディが立っていた。
「え、エディ様!? ご覧になっていたのですか」
「はい。しっかりと見ました。……彼女たちも気づいていなかったようですが」
言うまでもなく、レクアルの定期報告を兼ねた様子見だろう。
とはいえ、なんて間の悪い。腹が立たなかったといったら嘘になるが、こんなことまで報告されていたら身が持たない。
「こういう事態も想定内なので、何も問題はありません」
気落ちした様子を見せるわけにはいかない。毅然として答えると、エディは表情を曇らせた。
どう伝えれば心配されずにすむか。逡巡したのちに口を開く。だがそれが声になって届く前に、第三者の声が割って入った。
「よっ!」
「……アルト」
「アルト様。奇遇でございますね」
散歩帰りのような軽い足運びで近づくアルトは、エディとセラフィーナを見て、にやりと口角を上げた。
「エディが女官を気にかけるなんて珍しいな」
「……見ていたのですか」
「偶然、目に入っただけだ。……あ、もしかして、二人は秘密のご関係だったりする?」
「そんなわけないでしょう。あり得ません」
彼が言った、あり得ないという単語が頭の中でループする。
(エディ様とは何も起こるはずがないのに、少し、悲しい気分になるのはなぜかしら……)
思ったよりもショックが大きい。同時に、衝撃を受けている自分に愕然とする。
今まで気にかけてもらってきたのは、レクアルの第二妃候補だからだ。それ以外の理由はない。わかっていたはずなのに、心に鬱積した気持ちが広がる。
(…………どうして?)
自分の感情なのに、うまくコントロールができない。
――恋は落ちたほうが負け。
大衆向けの恋愛小説にあった名言が頭をよぎる。両親に内緒でメイドに買ってきてもらっていた人気娯楽小説は、セラフィーナの恋愛観に大きな影響を与えた。悪役令嬢という存在を知ったのもそのときだ。
だが自分の立ち位置を理解したときには、すでに手遅れだった。取り巻きたちの行きすぎた行いを咎めようとした言葉は曲解され、自分の気持ちは彼女たちに届かない。彼女たちが大事なのはセラフィーナではなく、アールベック侯爵家との繫がりだけだったのだから。
結果、セラフィーナ自身を心配する者は一人もいなかった。
(そういえば……マリアンヌ様は時折、心配するようにわたくしを見ていたような……)
あのときは、嫌がらせの首謀者となっていた自分を気にかけてくれるなんて思いもしなかったが、あの視線の意味が心配からくるものだとしたら。
(わたくしは周りが見えていなかったのかも、しれないわね)
今さら自分の行いを恥じても、過去は変えられない。歩み寄れる機会はとうに失ってしまった。
セラフィーナは物語のように悪役令嬢として断罪された。添い遂げると思っていた婚約者さえ、自分を裏切った。信じられるのは自分だけ。
ループ人生ではあがけるだけあがいてきた。結末こそ変えられなかったが、これまで積み上げてきた経験は無駄ではなかったと信じたい。
(ふふ……やっぱり、わたくしはアールベック家の娘ね。何もせずに負けるのはプライドが許さないもの)
断じて自分は恋などしていない。
今、胸に抱いているものがあるとすれば、それは親愛の情だ。恋情ではない。
(だから、傷つく必要なんてないわ)
親切にしてもらったから恩義を感じているだけだ。そもそも侯爵令嬢から平民落ちした自分に、恋愛をする余裕などない。
「……セラフィーナ?」
長い沈黙を不審に思ったアルトが名を呼ぶ。セラフィーナは顔を上げ、エディの意見に同意した。
「エディ様のおっしゃるとおりです。わたくしたちの間には何もありません。邪推も大概にしてくださいな」
「わ、悪かったって。ちょっと場を和まそうとしただけだったんだ。二人とも真剣に否定してくるから、こっちがびっくりしたよ」
ぽりぽりと頬を掻く様子は、どこか気まずそうだった。
「……わたくしは仕事に戻ります」
会議に向かう集団が前から歩いてくる。その人波を縫うように通り抜け、セラフィーナは強ばった顔のまま足を動かした。