13. 書庫での出会い
女官生活を始めて、早一ヶ月が過ぎた。
魔法特訓の後はしばらく気持ちが塞ぎ込んでいたが、いつまでも落ち込んでいたって状況は何も変わらない。今はできることをするだけだと、これまで以上にセラフィーナは仕事に精を出すことにした。
結果、慣れない女官の仕事もルーティンで回せるようになってきて、頼まれたイレギュラーな雑務を合間にこなすのが日常になっていた。
(魔法はどうにもならなかったけど、まだできることはあるはずよ)
悲観してばかりでは、未来は変えられない。
それに、女官にならなければできなかったこともある。クラッセンコルト公国の宮殿にある書庫に入ることだ。閲覧禁止のものはさすがに読めないが、他は自由に閲覧できる。持ち出し厳禁のものだって、書庫内で閲覧すれば問題ない。
クラッセンコルトの書き付けは巻物や料紙を紐で束ねただけのものが多いが、書庫には本も多数所蔵されているし、外国の書物は装丁された本なので読みやすい。
「あれ。今日も来たんだね」
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ、ゆっくりしていって。ほとんど誰も来ないから、セラフィーナさんが来てくれて嬉しいな」
ヘレーネがふわりと微笑んだ瞬間、彼女の周囲が華やいだ。
書庫に通うようになってわかったことだが、ヘレーネは無類の猫好きだ。実家では猫を飼っていたらしい。女子寮に入ってから、モフモフした毛並みに触れられないのがストレスだったらしいが、セラフィーナが猫のイラストを描いて渡したところ、毎日それを眺めて癒やされているという。
イラストは昔、アールベック侯爵家で飼っていた猫を思い出しながら描いた。ヘレーネの実家の猫とは違う種類だったようだが、一目見るなり「可愛い!」とぴょんと飛び跳ねて大喜びしていた。
寝る間を惜しんで描いてよかったと、つくづく思う。
「えっと、こないだの続きは……」
書架を巡り、先週読んでいた一冊の本を取り出す。
表紙には黒い鍵と白百合の花が描かれている。これは持ち出し厳禁の本なので、書庫の奥にある読書用のスペースに向かう。壁際は一人で読めるように仕切りで区切られているが、その近くには数人が使える大きなテーブルに木製の椅子が備え付けられている。
セラフィーナはテーブルの真ん中の席に座り、分厚い本をパラパラとめくった。前回読んでいた章を探し当て、続きの箇所から読み進める。
静寂な空間で響くのはページを繰る音のみ。余計な物音も一切なく、読書に没頭できる最高の環境だ。
平日は仕事に忙殺されているので、書庫には休日しか通えない。けれど、一日の大半を読書の時間に充てることができるし、何よりゆっくりできる。いいこと尽くめだ。
(……ふう。面白かった)
魔女や魔法に関する情報収集をするつもりだったが、普通に読み物として楽しめた。満足感とともに本を閉じると、横から低い声がした。
「魔法が好きなのか?」
「……え……」
「先週も同じ本を読んでいただろ。マルシカ王国の伝記」
藤色の髪は肩までつく長さで、長い前髪からちらりと見えたのは青紫の瞳。服は緑色だから文官だろう。
だが今、問題にするのはそこではない。
(気配がしなかった……一体、いつの間に!?)
確かに本に夢中になってはいたが、さすがに誰かが近づけば気づく。魔法でいきなり現れたわけではないだろうが、驚きは隠せない。
面食らうセラフィーナに、若い文官が言葉を続ける。
「そんなに面白いのか?」
「は、はい……興味深いです」
大魔女イリスによって、マルシカ王国は敵意を持つ者の侵入を拒む魔法に守られている。すごいのは、かの魔女はもうこの世にいないのに、その魔法がまだ維持されている点だ。
歴史の授業で習ったことだが、手元にある伝記では魔法省長官の視点で、かの魔女の偉業や逸話を詳しく解説していた。複雑な魔方陣を同時展開する手腕はさることながら、扱いが難しいとされる古代魔法も巧みに操る魔女。世界に二人といない存在に憧れがないといったら嘘になる。
(こんな魔女みたいな力があれば、未来も簡単に変えられそうなのに……)
そっと吐息をつくと、文官が自分の手元にあった本の表紙を優しく撫でた。
「ふうん。僕は断然こっちがいいけど」
「……占い大百科ですか? でも、占いで何かが大きく変わるわけではないでしょう」
言った瞬間、しまったと思った。
好意的ではないけど敵意はなかった文官の目に、初めて非難の色が混じる。青紫の瞳が細められ、整った眉がつり上がる。
「ああそう、そういうこと言うんだ。政治に占いが重宝されていた時代もあるのに。じゃあなに、お前は夢も見ない現実主義なわけ? 心の奥底に眠っている深層心理を暴くのが邪推だと? 中身も知ろうとせずにうわべだけを見て、こういうやつだって断じてしまう連中と同類ってわけだ」
一方的な批判に、セラフィーナは困惑した。どうやら彼の逆鱗に触れてしまったらしい。
「……あの、お気に障ったのなら申し訳ございません」
「嫌だな。すぐ謝れば済むと思っている人間って。何が悪いか、ちゃんと理解してないだろ? 口先だけの謝罪なんていらない」
「…………」
「ほら、困ったら黙り込む。周りの反応ばかりを気にして自分の意見が言えない人間はこれだから」
明らかな嘲りが混じり、どうすればいいか、急いで考えを巡らせる。
彼をこれ以上刺激せずに穏便に話を終える方法。それを念頭に置き、セラフィーナは口を開いた。
「…………占いは詳しくはありませんが、楽しいものであると思っています。占いの結果で行動を変えるのも悪いとは思っていません。ただ、それ以上に自分の直感を信じるのも大事かと」
「僕だって別に占いがすべてだとは思っていない。迷ったときの参考にしているだけだ」
ムッとした表情は拗ねている子どもと同じだ。
(でもたぶん、年上よね? この人……)
内面は少し幼いようだが、見た目は成人男性だ。そもそも子どもが役人になれるわけがない。宮殿の書庫に自由に出入りできる程度には、常識も教養もあるはずだ。
そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いた。不必要に怖がる必要はない。
「占いがお好きなのですね」
「……悪いか?」
「いえ。とてもいいと思います」
「そんな調子のいいこと言ったって、占ってなんかあげないからな」
ひねくれた言葉が返ってきたが、悪い人ではないと思う。少々性格に難があるようだが。
彼は本の貸し出し手続きを済ませると、さっさと出て行った。
(もしまた出会ったら、同じことを言われるのかしら……)
あの性格はそうそう変えられるものではないだろう。仕事では支障は出ていないのだろうか。一抹の心配をしつつ、セラフィーナは次の本を手に取った。