102. 暮れかれた廊下の先へ(ニコラス視点)
その場の処理を任せ、ニコラスはレクアルが詰めている騎士団本部に向かった。
扉を開けると、騎士団長と話し込んでいたレクアルが「ニコラス兄上」と立ち上がって出迎えてくれた。
「レクアル。よくやってくれた」
「いえ、ニコラス兄上を支えるのは、弟として当然のことですから。ニコラス兄上はお怪我など、されていませんか?」
自分の身を案じる弟の表情は少しこわばっている。
それまで張り詰めていた神経が、少しだけゆるんだ気がした。
騎士団長とレクアルに勧められて、奥のソファにゆっくり腰かけた。その真向かいの席にレクアルが座る。騎士団長は兄弟間の会話に気を遣ってくれたのか、扉の前で自主的に護衛してくれている。それを横目で見ながら、ニコラスはふっと息をこぼす。
「無事だよ。周囲の者がよく動いてくれたからな。それに、僕には影が二人ついていた。危害が加えられることはない」
「……少し相手に同情しますね。凄腕の影が牙を剥けば、相手はただではすまなかったでしょうから」
影の存在は家族以外には話していない。
近衛騎士たちは存在に気づいてはいるだろうが、あえて口には出さない。公にはいないものとして扱われている。
そうとは知らない貴族連中は、こちらの狙い通り、ニコラスが一人で残されたと勘違いした。おかげでスムーズに話は進んだ。拍子抜けするくらいに。
「あっけないほど、平和的に解決したよ。お前のお気に入りの女官も今回はよくやってくれた」
ニコラスが言うと、レクアルは一瞬きょとんとした。
「セラフィーナですか? 兄上といえども、譲る気はありませんよ?」
「何をバカなことを言っている。そんなこと、天地が逆さまになってもあり得ない。それより、あいつらはあれで無自覚なのか? つっこむ時間がもったいなくて気にしないようにしていたが」
「あいつら……?」
「帝国から連れてきた女官と、お前の近衛騎士のことだ」
眉間に皺を刻みながら端的に説明する。
だが、それだけでレクアルには誰の話なのか、すぐに察したらしい。
「……ああ! ニコラス兄上もお気づきでしたか。本当に無自覚って怖いですよね。あれほどお膳立てしてやっているのに、何の進展もないんですよ。あの二人」
「お膳立て……とは?」
「セラフィーナが火事に巻き込まれた件は、ご存じですよね」
確認するように言われ、ニコラスは頷く。
先日、だいぶ前に使われなくなった旧厨房から火災が起きた。周辺の建物には延焼せず、燃えたのは建物一棟だけだと聞いている。幸い死人はおらず、巻き込まれた女官と救助した騎士が奇跡的に軽傷で済んだとか。
「偶発的事故と聞いた。風に煽られた飛び火が運悪く屋根に燃え移ったと……」
「そうです。火事は偶然だったのですが、セラフィーナは日中から旧厨房に閉じ込められていたんですよ。かんぬきをかけられた状態で。この件に関与していた女官たちは謹慎処分になっていますが、あと一歩救出が遅れれば彼女は間違いなく助からなかったでしょう」
「…………そこまでは知らなかった」
旧厨房は物置として使われていたという話だった。
資料整理をして、火事に巻き込まれたのだと思っていたが、最初から閉じ込められていたのでは一歩間違えれば殺人になっていた、ということではないか。
助かったのならどうでもいい、と詳細な報告を聞いてこなかったツケだろうか。
ニコラスが密かに後悔していると、レクアルが世間話の流れで話を続ける。
「いやはや、セラフィーナは我慢強い娘でして。以前、平民の男からつきまといをされていたこともあったそうです。それもしつこく。たまたま居合わせたエディが追い払ったので、二度と同じことはないと思いますが、今度は懇意にしていた事務次官が失踪したでしょう? どうもセラフィーナは厄介事を引き寄せる体質らしいので、外出時は身辺警護をさせておこうと思って。毎日、エディに様子を見に行かせているんですよ」
「ちょっと待て。……毎日する必要があるか?」
ニコラスが至極当然の疑問を投げると、レクアルは鷹揚に頷いた。
「ええ。そうでないと、彼女のスケジュールが把握できませんから。業務上の内容は女官長から報告させればわかりますが、さすがにプライベートの予定までは把握していませんし。少しは進展があるかなと期待したんですが、本当に業務報告しかしないんですよ。何をやっているんだか」
「帝国からあの女を連れ出したのは、お前の第二妃にするためだったのだろう? なぜ、お前が違う男との仲を取り持とうとしている?」
「どこかおかしいですか?」
「恋敵を応援する心理がわからん。敵に塩を送ってどうする。自分の妃にしたいんじゃなかったのか」
呆れたように切れ長の鳶色の瞳を見下ろす。
レクアルは数拍を置いて、ようやく言われた意味が理解できたらしい。
「……あぁ、そういうことですか。実は俺、何度も断られているんですよね。きっぱりはっきりと。脈がないことはわかっていたんですけど、時間が経てば俺に泣きついてくるかなと思って様子を見ていたら、まあ別に妃じゃなくてもいいなと思って」
「は?」
「最終的に、俺はセラフィーナが幸せならそれでいいんですよ。どう頑張っても結婚相手には見てもらえないようなので、それなら兄代わりに妹の恋の応援をしてやろうかと」
「レクアル……そういうのを余計なお世話というんだぞ。それにお前、エディという騎士にあの女官を口説いてもいいという許可は出したのか? こういうのは、ちゃんとしておかないとトラブルに繫がるぞ」
兄として弟に忠告する。
レクアルは自分の過去の言動を思い出すように、視線を宙に向けた。それから「ふむ」と小さく頷いた。
その反応がまるで他人事のようだったので、ニコラスは嫌な予感を覚えた。
思わず眉を寄せると、レクアルは晴れやかな笑顔で、さらりと爆弾発言をした。
「明確な許可は出してないですね。一応、何かあったときには第二妃に召し上げて保護する予定ですから。とはいえ、これは最終手段です。エディからしたら第二妃候補のために奔走しているにすぎないのでしょう。ああ見えてセラフィーナは恋に奥手ですが、エディもいい線を行っていますからね。とはいえ、堅物のエディも、先日はセラフィーナを守ろうと感情を爆発させていましたし。……いやあ、これからも恋で慌てふためく姿を見られると思うと、楽しみで仕方ありませんよ」
「……お前。それはちょっとどうかと思うぞ。大事な腹心をいじめてやるな。泣くぞ」
「むしろ泣かせたいですね」
「僕の周囲にはマシな人間はいないのか……?」
ニコラスは片手で顔を覆った。
弟にはもう少し常識と手加減というものを教えたほうがいいのかもしれない。とはいえ、レクアルと近衛騎士の関係も古い付き合いのはず。ニコラスが把握していない信頼関係があるのは確かだ。ならば家族とはいえ、部外者が下手に口を出すのは悪手かもしれない。
今回の計画がうまくいったのは、あの下級女官がいたからだ。認めたくないが、彼女がいなければ、ここまでうまくはいかなかっただろう。そのくらいの働きをしたのだ。
(あの女官はやり遂げた。思ったよりも性根が据わっていたな。……ところで、コントゥラ事務次官は今どこにいるんだ?)
一斉摘発で捕まった者たちの報告は来るが、事務次官発見の一報はまだ届かない。
焦れるような気持ちを持て余していると、不意にレクアルが今思い出したように、ぽんと手を打った。
「それはそうと、ニコラス兄上。コントゥラ事務次官が面会を希望していますが、いかがされますか?」
「…………は? 事務次官だと!?」
「ええ。この作戦決行の合図が出て、しばらくして、ひょっこり顔を出したんですよ。ずっと誘拐されたふりをして身を隠していたようで。今は騎士団の客間で待ってもらっているのですが、会いに行かれますか?」
「無論だ! すぐに行くぞ」
「はい、兄上」
まだ完全に終わったわけではない。
事務次官の口から語られる内容次第では、これまでの見立てが覆る可能性もある。
(ともかく、事務次官の無事をこの目で確かめねば。すべての罪を詳らかにして、しかるべき対処をしなければならない。僕は、第二公子として最後まで見届ける義務がある。クラヴィッツ兄上の足枷にはならないと示す必要があるのだから)
窓の外では、夕闇が静かに迫っていた。西の空に沈みゆく太陽が、雲の縁を朱に染めていく。鮮やかすぎるほどの色彩が、かえって胸のざわめきを際立たせるようだった。
(あの男から真実を聞き出す。考えるのはそのあとだ)
ゆっくりと、だが確かな足取りでニコラスは歩き出す。
騎士団の応接室へと続く、まだ西日の余光が差す廊下の先へ。
ニコラス視点はここで終わりです。次回からセラフィーナ視点に戻ります。