101. 最近は物騒ですからね(ニコラス視点)
「いえ、問題ありません。今日はあちこちで人手が足りていないと聞いています。彼も荷運びの応援に行っただけですよ。用事が終わり次第、すぐに戻ってくるでしょう」
「そうなのですか?」
「ええ。我々は話の続きをいたしましょう。事は深刻のようですから」
話を戻し、渋い顔を作る。
「それにしても、こんなものが出回るとは由々しき事態ですね。サルリマ財務官の名を騙る者の目的は一体何でしょう? 責任を財務官になすりつけたいとか?」
「殿下、私の身は潔白です。これまでずっと、公国のために身を尽くしてきたのです」
「もちろんです。今までの実績が、あなたの信頼を形作っています。これは何かの帳簿の写しも混じっているようですが……、こちらの帳簿は秘書官殿が作成されていらっしゃるのですか?」
「まさか。ここまで丁寧に記録を残すなんて真似、私以外には不可能ですよ。秘書官はあくまで資料集めや草稿を仕上げるだけの人間に過ぎません」
誇らしげに言うジョルジュに、ニコラスも深く頷く。
「サルリマ財務官の懇切丁寧な帳簿は誰も真似できますまい。僕の部下でも、ここまでの精度は難しいと思います。あなたのひたむきに仕事に向き合う姿勢を部下にも見習わせたい、と常々思っているくらいですから」
「ニコラス殿下……」
「そうそう、これはここだけの話なのですが。実は僕、気になる噂を耳にしまして」
「噂?」
「ええ。密輸資金が裏ルートで動いているらしい……というものです。財務官は何かご存じありませんか? 財務官はあらゆる部署の予算を統括していらっしゃるでしょう? 顔が広いあなたなら、何かしらの情報が入ってきても不思議ではありません。些細な話でも構いません。情報提供にご協力いただけると非常に助かります」
期待の眼差しを向けると、ジョルジュの眉がぴくりと動いた。
彼は困ったように顎に手を添えて、記憶を探るように窓の外へ視線を向けた。ニコラスもその視線の先を追う。空は高く、まだ鮮やかな青を色濃く残している。夏の名残の留めた風が、開かれた窓から入り込み、書類の端を静かにめくる。
「……確かに、そういった噂を耳にしたことはございます。ただ、どれも信憑性に欠ける話ばかりです。所詮、ただの噂話でしょう」
「なるほど。では、あなたを貶めようとしている犯人に心当たりは? 財務官の筆跡を真似できる人間は限られるでしょう。そう、たとえば先ほどの秘書官ですとか」
「なっ……身内に裏切り者がいると!? ご冗談でも笑えませんな!」
「そうですね。失礼しました、さすがにあり得ない話でした。これは、あなたを敵視している人間の仕業と考えるのが妥当でしょうね。恨まれている人物に覚えはありませんか?」
ニコラスの問いに、ジョルジュは鼻で笑う。
「恨みなら、数えきれないほど買っていますよ。逆恨みというやつですね。予算が少ないだのとケチをつけてくる者は後を絶ちません。財源は限られているというのに」
「おっしゃるとおりですね。予算は有限だ。財務官のお言葉は正しい。……先ほどに言っていた本物の帳簿、よろしければ拝見させていただいても? この部屋にあるのでしょう?」
「あ……いや、それは……」
途端に目を泳がせ始めるが、失言を悟っても、もう遅い。
ニコラスは笑みを崩さず、時が来るのを静かに待つ。エディがこの場を離れてから、あの秘書官も戻ってこない。おそらく、どこかで騎士団に捕まったと考えるのが妥当だ。
今回のニコラスの主な役目は、時間稼ぎだ。
予想が正しければ、そろそろ確たる証拠が手に入る頃合いだ。
(…………来たか。少し遅かったな)
訓練された規則正しい足音は部屋の前に迫り、勢いよく部屋の扉が開かれた。騎士がなだれ込むように入ってきて、ジョルジュが視線を鋭くする。
「これは何の真似ですかな、ニコラス殿下」
「ただの警備強化ですよ。最近は物騒ですからね。事務次官が失踪したり、文官が一人消えたり……」
ぬるくなった紅茶を一口飲み、ニコラスは爽やかな笑みを浮かべる。まるで世間話の延長のように。
「ちょっ、ちょっと待ちたまえ! 君たちは誰の許可を得て、勝手に書類をあさっている!? ここは君たちのような野蛮な輩が扱っていい書類は何ひとつない! 出て行ってくれ!」
まだ状況がわかっていないのか。
冷めた目で見ていたニコラスは小さくため息をつく。
「……例のものを」
後ろに控えていた部下の文官が、手前に来て膝をつく。恭しく丸めた羊皮紙をニコラスに差し出す。
それを受け取り、目の前であたふたしているジョルジュにもわかりやすいように、両手で広げた羊皮紙を見せつけた。
「そうそう、言い忘れていたことがありました。財務室の調査権は現在、僕にありますので。ジョルジュ・サルリマ殿、あなたの逮捕状もこちらに。続きのお話は取調室でお願いしますね」
「なっ……!? う、嘘だ。そうだ、証拠は? 証拠がなければ捕らえられるわけがない」
「ご心配には及びません。裏金の資金流用を示す裏帳簿の原本、密輸の記録、そして収賄の文書もすでに押収済みです。この期に及んでの言い逃れは見苦しいですよ。あなた方の企みは、ここまでです。──連れていけ」
短い命令に、騎士たちは財務官室のジョルジュだけではなく、続き部屋に控えていた財務官室つきの文官たちにも手際よく縄をかけた。ジョルジュはなおも何か喚いていたが、屈強な騎士たちに急き立てられるようにして、そのまま部屋の外へと連れ出されていく。
帳簿類がひとつずつ運び出されていく様子を見届けながら、ニコラスは静かに肩の力を抜いた。
まだすべてが決着したわけではない。
しかし、ずっと続いていた長く暗い夜の幕が、ようやく上がり始めた気がした。






