100. 揺さぶり(ニコラス視点)
「まさか、ニコラス殿下自らお越しになるとは思いませんでした。本日のご用件は、帳簿の確認でしたな? 殿下つきの文官を派遣していただれば、それで終わると思うのですが」
ジョルジュが苦言を呈したくなるのも無理はない。
本来、文官同士で話が終わる仕事だ。明らかにニコラスが出向く案件ではない。探られているのではないか、と相手が警戒するのは当然だ。
ニコラスはほとほと困ったようにため息をつき、苦笑いを浮かべた。
「あいにく、部下は他の仕事にかかりきりで手が離せないのですよ。ですので、代わりに僕が伺いました。それとも僕では不都合でしたでしょうか?」
「いえっ、そんな滅相もない。ニコラス殿下と直接お話できる機会など、そうそうありませんからな。何もないところですが、どうぞごゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
ニコラスが財務官室に入ると、几帳面に整えられた帳簿棚と、光沢のあるダークブラウンの木目の執務机が目に入った。
壁際には紙束を分類した仕切り棚が並び、どれもきっちり角が揃っている。巻物は崩れ落ちる心配などないほど、等間隔に積み上げられている。神経質なほどに整頓された棚は、ほとんど使っていないのではないかと思うほど、整いすぎていた。どこもかしこも掃除が行き届いていて、塵ひとつ見当たらない。まるで、この部屋の主の性格を物語っているようだった。
机の上には青い背表紙の帳簿が三冊、すべて同じ向きで揃って重ねられている。おそらくその順番も一定のルールに従ったものなのだろう。
室内に入る光の角度まで計算されたように、背の高い観葉植物が配置され、昼の柔らかな陽射しが資料に射し込んでいた。
「質素な部屋で申し訳ございません。ニコラス殿下をおもてなしするには不向きな場所ですので、どうかご容赦ください」
「いえ、どうぞお気遣いなく。僕は困っていた部下のただの代理です。接待を望んでいるわけではありませんから、帳簿だけ見せていただければ、すぐに帰りますよ」
ニコラスが朗らかに言葉を返すと、ほっとした様子でソファを勧められた。
奥の席に優雅に腰かける。ニコラスの後ろには、エディが静かに控えている。近衛騎士として護衛業務に集中し、存在感を極力抑えている。
財務官はちらりとエディを一瞥した後、ごくわずかに眉を寄せた。
(エディは弟の近衛騎士。当然、ジョルジュも知っているだろう。ならば、なぜ僕についているのか、疑問に思っているに違いない。彼を動揺させるのが今回の作戦の肝だ。あくまで僕たちは自然に接していればよい)
警戒されているのは織り込み済みだ。
言わば、こちらは値踏みをされている状態。作戦通りだ。この場で主導権を握っているのは、財務官である彼だと錯覚させておけば、問い詰めたときの揺さぶりも効果的になる。
年配の秘書官がティーカップを二つ、運んでくる。
ニコラスは足を組み替え、ジョルジュの部下が持ってきた帳簿を早速確認する。ぱらりと数ページをめくり、感嘆の息を吐く。
「さすがですね。どの帳簿も数字が綺麗に揃っていらっしゃる。ここまで整った帳簿はなかなかないですよ」
「そういう性分なもので……」
「ご謙遜を。僕には芸術的価値があるように思えます。それに美しさだけでなく、数字におかしな動きもない。噂に違わず、素晴らしい仕事ぶりだ」
「はは。お褒めに与り恐縮です」
具体的な褒め言葉に、ジョルジュは目を細めた。
誰しも明確な賞賛には警戒が少し和らぐ。相手が自分の仕事を認めていると感じれば、人は話しやすくなるものだ。
ニコラスは懐から赤い封書を取り出しながら、ジョルジョに笑いかける。
「実はサルリマ財務官に見てほしいものがありましてね。おかしな記録が混ざっているようなのですが、僕では数字を読み解く力が足りず、内容がよくわからないのですよ」
「はあ……私でわかることでしたら」
「ありがとうございます。早速ですが、こちらを見ていただけますか?」
ニコラスが偽の封書を開いた状態で差し出すと、ジョルジュが身を乗り出して目を細めた。その眉がひそめられていくのをニコラスは横目で確認する。
「殿下。これを……どこで?」
「今朝方、監査局に匿名で届けられたのですよ。小包を開けたら、これが入っておりまして。差出人も宛先も不明。どうも窓から投げ入れたようで、受取人も見ていないという有様でして……。こちらも困っていたのですよ。一体誰が、どういう目的で、投げ入れたのかと」
「…………」
「サルリマ財務官は優秀な徴税官でもいらっしゃいましたよね。こちらに、あなたのご署名があるのですが、何か見覚えはありませんか?」
ニコラスが最後の用紙にある署名を指差すと、ジョルジュが小刻みに震えだした。興奮しすぎたのか目が血走り、怒りで拳を震わせている。
その様子を見つめ、ニコラスはわざと戸惑ったように驚いてみせる。けれども、言葉を発することはしない。ジョルジュから言葉を引き出すのが狙いなのだから。
しばらく待つと、彼はいきなり立ち上がった。
「これは罠だ……ッ! 私の持っているものこそが本物なのだから……!」
「本物? では、これは偽物なのですね?」
「当たり前だ。こんなもの話にならん! 私の筆跡を真似たようだが、私に書いた記憶がない以上、偽造書類で間違いない」
「なるほど……それは問題ですね。誰かが、あなたに罪を被せようとしているとは」
ニコラスが同意したことで、少しは冷静になってきたのか、ジョルジュは「ああそうだ。まったく迷惑な話だよ!」とドスンとソファにかけ直した。
(偽の封書は収賄の証拠品の控えから抜粋したものなのだが……本物は手元にある、と。興奮しすぎて自分が失言したことには気づいていないのか? それとも、これも演技なのか?)
笑顔を取り繕いながら、内心で唸る。
そのとき、それまで壁際で気配を消していた年配の秘書官が、静かに部屋を後にする。連動するように、後ろに控えていたエディがすっと屈み、耳元で短く声を落とす。
「──ニコラス殿下」
「ああ、任せる」
ニコラスの了承を得て、エディは一礼した後、すたすたと財務官室を後にした。その様子を不審に思ったのか、ジョルジュが閉じられたドアとニコラスを交互に見つめる。
「……あの、ニコラス殿下。近衛騎士が離席されましたが、何かありましたか?」