消えたヒロインとそれを愛した男
三題噺となっております。
お題は北、指輪、消えたヒロインになります。
パチパチと焚き火の薪が爆ぜる音だけが辺りの静寂を照らす中、俺は凍える身を毛布に包みホットワインを飲んでいる。
婚約をした彼女が突如北の帝国に攫われてしまってから幾日が過ぎただろうか。
今日こそ彼女に指輪を渡そうと彼女の自宅を訪ねると、玄関の鍵は開いていたのに彼女の姿が見えず、近くに買い物にでも出ているのだろうと思った俺は、数刻待った辺りでおかしいと感じ、村の警備の人間の詰め所に彼女の行方が知れなくなった旨を伝えた。
それから幾日かは彼女のことを案じるあまり夜も寝られず、日に日にやつれていった。
周囲の人間はそんな俺を案じて家事などを手伝ってくれたが、その行いに対してまともに礼も言えない始末であった。気が触れるかと思う程に日が経った頃、王都の憲兵詰め所から一通の便りが届いた。
曰く、彼女と思われる女性が北の帝国の兵に連れて行かれるのを見かけた者が居たという。現在北の帝国とは冷戦中であり、こういったことがまま起こっている。
今までは悲惨な話だとどこか他人事に思っていたが、いざ自らがその立場に立たされた時、愛するものが攫われるというのはこれ程迄に打ちのめされるものであるのかと。初めて、ショックで意識を失うという経験をした。
俺はその便りが届いてから数日も経たないうちに、家財などを処分し路銀を集めると旅支度を済ませた。周囲の者は無謀だと止めたが、俺はこれ以上待つだけの生活を続けていては自らを保つこともままならなぬとその言葉を振り切った。
心苦しくは思ったが、それ以上に彼女のことが心配だった。あの日彼女に渡そうとした指輪と食料。護身と調理用を兼ねた短刀など最低限だけを持ち。我が家の玄関に一言だけを書いた羊皮紙を貼り付け。村を出た。
――北へ。
ただそれだけの言葉を残し、消えた彼女を探しに出た。
道中、行商人を見つけ事情を話したら破格で運んでくれたのは幸運であったと言えるであろう。この情勢の中北へ好んでいく者は少ない。徒歩で厳冬の旅となると途中で力尽きることも充分に考えられた。途中までとはいえ、荷馬車で移動できたことはありがたかった。孤独に折れそうになることもなかったのだから。
今、独りになり強くそう思う。ホットワインを飲んでも、体ではなく心の芯が冷え切っている。こんな状況では貴重な薪をいくら焚べても、暖まりはしなかった。折れそうになる心を彼女に渡すはであった指輪を握りしめ奮い立たせる。残りの道は、そう長くはない。それだけが心の支えであった。無論北の帝国に着いた所で、検問など問題は山積みであったが、今はそんなことは言っては居られない。ただ一歩前へ、毎日そればかり考えている。
「アイシャ……」
彼女の名を呟き、その日は眠りに就いた。夢で彼女が影に飲まれていくのを見て目が覚める。寝られるようになっただけまだましだが、それでもやはり眠りの質は良いとは言えなかった。毛布や調理道具を纏め背負うと、再び北へ向かい歩を進める。立ち止まることは許されなかった。自らが決して許しはしなかった。厳冬の雪が降りしきる中を北へ。体力が限界を迎える頃に、やっとの思いで北の帝国の領地へと至った。ここからは王国の人間ではなく、帝国の人間として振る舞わなければならない。出来るはずだ、俺も元は行商で身を立てたのだ、北の帝国にも出入りしていた。帝国流を分かっている。そんな慢心があった。ここに来て、俺は驕ってしまったのだ。許されざる失態だった。
行商で出入りしていたことがあるということは俺を知っている人間がいるということになぜ気が回らなかったのか。検問で受け答えをしている時に俺を知る兵士が居たことは不運であった。俺は間者ではないかとの疑惑を持たれ、数日間詰め所に拘留され尋問を受けた。
俺はその中で自らがなぜ今の情勢で帝国に来たかを洗いざらいぶち撒けた。貴様らの行いは外道であると口汚く罵りもした。だが、兵士たちはそんな俺に暴力を振るうどころか、何故か亡命を勧めてくる。
「何故だ、何故俺に亡命を勧める。俺は王国の人間だいつ裏切るとも知れぬぞ。それに俺は貴様らが彼女を攫った事実を決して許しはしない。彼女はどこだ、俺に彼女を返せ」
俺がそういうと、尋問を担当することになった旧知の兵士は困ったように顎を擦りながら言う。
「落ち着けアラン。お前がいう彼女は数日の後にここに来る手はずになっている。その前にお前には亡命の意思を固めておいて貰いたいのだ。お前自身のためにも」
どういうことか意味がわからない。が、彼女が数日の後にここに来るとの言葉を聞いて俺は心が踊った。しかし、それと亡命がどう繋がるのか。どこか嫌な予感めいたものが心に巣食った。
詰め所での俺の扱いは捕虜のそれというよりは客人に対しての扱いであった。食事も朝晩としっかりでる。パンも固くなく、スープも根菜ばかりではなく豚肉の腸詰めまで入っている。何がどうしてここ迄の扱いを受けているのか、予感が確信に変わったのは彼女が俺の前に現れてからだった。
「アラン。どう言えばいいか分からないけれど、まずは、ごめんなさい」
彼女は村に居た頃の質素な装いではなくドレスを着て俺の前に立っていた。俺は、自分が置かれた状況と彼女の姿を見て事のいきさつを理解した。
「アイシャ……。君はもしかして元々北の人間だったのか?」
「えぇ。そのとおりよアラン。今まで黙っていてごめんなさい。私は帝国の貴族の娘で本当の名前はアイシャ・フォン・クラヴィア。クラヴィア家の一人娘です。けれど、誤解しないでアラン、私はあなたを騙していたわけではないの、あなたを本当に心の底から愛しているわ。何も言えずに去ってしまったのは本当にごめんなさい……」
「いや。いや。良いんだアイシャ……。君が無事であったのであればそれだけで、それだけで俺は……」
俺はその場に崩れ落ち彼女の手を取りながら嗚咽を漏らした。愛した彼女が無事であった。ただそれだけで彼女が去ってからの短くない日々の苦しみが癒えていくのを感じた。意識せず握った彼女の手が壊れてしまうのではないかと思うほどに力が入ってしまうが、彼女は決してその手を振り払ったりはしなかった。
俺はその数日後には亡命の手続きを終え、正式にクラヴィア家に食客として招かれた。招かれたその日の内に彼女が何故王国に居たのか、事の顛末を聞き、自らを恥じた。
そうだ、何故自らの属している国が清廉であると思っていたのか。帝国が人を攫うことがあるのであれば、当然自らの属している国が同じことをしている可能性もある筈なのだ。無論常時の際にはそんなことはお互いしないだろうが、もう長い間帝国とは紛争をしていて、ここ数年やっと冷戦状態まで落ち着いたところだ。当然王国も捕虜を取ることがあったであろう。自らばかりが被害者であるわけではないのだ。俺は彼女とその父上であるクラヴィア翁に自らのその考えを吐露した。クラヴィア翁は俺が話している間なにも言わずに只々、頷いてくれていた。俺が一通り話し終え、自らの蒙昧を恥じていると翁が口を開いた。
「アラン。貴殿はとても良い。自らの不幸に溺れることなくその浅慮を恥ている。貴殿のような男ばかりであれば、この情勢も、幾分ましなものになっていたであろう。しかし、現実はそうは行かぬ。我々こそ、その行いを恥じ入るべきなのだ。胸を張り給え、君の勇気ある行動は褒められこそすれ、決して謗られるものではない」
「しかし、クラヴィア翁。私は……」
「よいのだ、アラン。それに、当家の跡取り婿が下ばかりを向いていては困るのだ。前を向き給え、君はこの情勢を変える人材だ」
俺は翁のその言葉に、はっとし翁の目を見ながら、翁の言葉を反芻して問うた。
「……クラヴィア翁。今、なんとおっしゃいました? 私が、跡取り婿と、おっしゃったように聞こえたのですが」
「あぁ、確かにそう言ったとも。それとも君は私の可愛いアイシャを袖にするとでも言うのかね? で、あれば私は今すぐ君を間者であると衛兵に突き出さねばならぬが……」
「いえ、いえ! 私はアイシャを愛しています。心の底から。アイシャ、遅くなってすまない。あの日君に渡しそびれた物を、君に贈らせては貰えないだろうか?」
俺はそう言うと、ずっと首元から下げていた指輪を彼女に差し出す。
「あぁ、アラン……。なにも言わずに消えてしまった私がこれを受け取ってもいいのかとても悩むの。けれど、それ以上に今こうしてあなたが私の前にいてそう言ってくれる幸福に押し潰されそうでなんて言えばいいか……っ」
「ただ、笑って俺の求婚を受け入れてくれアイシャ。君の笑顔が俺は、好きだ」
「アラン……!」
俺は彼女の指に指輪をはめると、何も言わずに抱擁をした。……ところで翁の咳払いで我に返る。
「おほん……。若い二人だ。周囲が見えなくなるのは致し方ないが、私がいるということを忘れないで貰いたいものだが、いかがかな?」
これには彼女も俺も恥じ入り謝罪をする他なかった。その後俺たちの結婚が公になった際、話を聞きつけた戯曲作家が我々を題材に一つ作りたいと申し出てきて、俺達は照れくさくなりながらも、呵呵と笑う翁に後押しされそれを承諾した。その戯曲が思いの他人気を博し、それが元で両国の関係が僅かながらに改善されたこともあり、俺達は『消えたヒロインとそれを愛した男』として少なくない人々に祝福された。