惨敗の報告
朝日なのか太陽が眩しい。寝ぼける頭が次第に覚醒していき、まどろんだ瞼を開く。まずわたしの視界に入った光景は低い天井だった。顔を横に向けてみると少し向こうでは司祭服を来た少女が横たわっている。どうやら深い眠りについているようだけれど、わずかにうなされ気味だった。
身体を起こそうと力を入れた所でわたしは自分の身に起こる異変に気付いた。体が重いのだ。麻痺とかではなく倦怠感が酷くて力が入らない。鉄を身体中に巻き付けているとこんな感じだろうか? 腕で目元を覆って日差しを避けるのが精一杯だ。
「気が付きましたの?」
狭い空間の外から声が聞こえてくる。何とか顔だけをそちらに向けると窓から修道服に身を包んだ女性がこちらを覗いていた。わたしは彼女、プリシラに対して手を振って答える。言葉を口にしようとしてその気力すら絞り出せないのか、息が喉元を抜けていくばかりだった。
「マリア様、無理をしない方がいいですわ。貴女様は度重なる魔法の行使で魔力が枯渇し、あまつさえ死体に鞭打ってまでここまで帰還されたのですから」
彼女が棘を含んだ言い回しをわたしにぶつけてきてようやく意識を手放す前の顛末を思い出す。
わたしは、生きている……?
チラが必死の形相でわたしを死なせないと魔法をかけていた所までは覚えているけれど……。
そっと首筋に手を当ててみると、エヴァの剣で斬り落とされた辺りがわずかに窪んでいてくすぐったい。どうやら本当にチラの蘇生魔法でわたしの命は繋がったらしい。正直助かるだなんて全く思っていなかった、命があるだけ儲けものと思っておこう。
この疲労感は魔力枯渇のせいばかりじゃあなくて蘇生や反魂といった死を覆した反動も原因か。補助魔法を行使する精神力すら枯渇している現状では何も出来ないし、しばらくはこのままじっとしている他は無いだろう。
そう言えばわたしを救ってくれたチラはどうしてこうも苦しそうに……?
「聖女様も貴女様への蘇生魔法で力を使い果たしたんですわ。しばらくは休ませてくださいませ」
わたしは返事を返せない代わりに首を縦に振って同意を示した。
チラには感謝してもしきれない。わたしも彼女も回復したらちゃんと感謝の意を示さないと。彼女は全力でわたしを救ってくれたのだから。
そう言えばようやく気付いた。わたしが横になっているのは馬車の座席だった。わたしが進行方向の下座でチラが後方の上座か。馬車につられて身体が揺れ動いているのだともやっと分かった。
じゃあわたしが力尽きてからそう時間が経っていない、つまり退却戦はなおも続いたまま?
「いえ、私共が追手を悉く狙撃していったおかげで追撃の手も緩んできましたわ。昨晩も夜通しで逃げていましたから、もうあと少しでキエフ公都に戻れる筈ですの」
そう、か。敵を追い払えたのか。それは良かった……。
「公都に着きましたら起こして差し上げますので、しばらくは眠っていてくださいまし」
逃亡している間ずっと狙撃と見張りをしていたプリシラは徹夜だろう。本来は彼女こそ休むべきだろうけれど、今は彼女を気に掛ける余裕は無かった。わたしはプリシラの言葉に甘えてそのまま意識を埋没させていった……。
■■■
次に目が覚めた時には既に人類連合軍の生き残り達はキエフ公都へとたどり着いていたようだ。いかに魔王軍の影に怯えていようとまだこの都市は人類圏を保っている。やっと安全な場所へたどり着けたので命からがらの逃亡劇はこれで終わる、と誰もが安堵していたそうだ。
けれど、実際にはわたし達の安心は見事に打ち砕かれる形となってしまった。
まず都市入口の城壁を中々通れなかった。どうやら守備隊はわたし達が悉く魔物が化けているのではと疑いを向けていたようで、こちらに弓矢や投石器すら向ける有様だった。起き上がるのがやっとだったチラが事情を説明してやっとわたし達が人間のままだと信じてもらえたぐらいだったから、よほど追い込まれていたとは想像に難くない。
公都の街を馬車で抜けている間に窺った限り、公都は静まり返っていた。人々の顔から笑顔が消えて怯えどころか恐怖の色すら宿している。連合軍兵士の帰還には出迎えどころかむしろ人々が逃げるように隅に寄る始末だった。
「少なくともわたし達が出発した時はもっと活気がありましたよね……」
「その後に厳戒態勢を敷く破目になった何らかの異変があったんでしょうね」
「守備隊の様子も変でしたし、もしかしたら人間に扮した魔物がこの公都に紛れ込んだ?」
「皆が疑心暗鬼になっているんですわ。昨日普通に声を交わした隣人が次の日には妖魔と化して襲ってくるかもしれないんだ、って」
それは決して滑稽な仮説ではなかった。あの勇者エヴァすら魔物の毒牙にかかり堕ちてしまったのだから、一般市民に魔の誘惑に抗うすべは無いに等しい。一度街に魔物が紛れ込んでしまったらそれを発端として公都の人々は凄まじい勢いで魔物と化していくだろう。
最も未だにこの都市が紛いなりにも健在なのだから、この仮説がそもそも間違っているのかもしくは早急に何らかの対抗策を打ち出したのだろうか?
「まあ、きっとアレですわね」
「あれ?」
プリシラが指差した方角は建物を挟んで向かい側の街道だった。目を凝らしてよく見つめると魔物……いや、合成の使い魔が歩んでいるではないか。三つ首のケルベロスだったり三様の首を持つキマイラだったり、いずれも人よりはるかにすぐれた嗅覚を持つ個体ばかりだった。
そうか、人か妖魔かをああして匂いで嗅ぎ分けているのか。妖魔は見つけ次第討伐していって増殖を食い止める、中々考えられた対処法じゃあないか。その度に公都の住人が消えてなくなる点に目を瞑ればだが。
「投擲手バラクの研究、結構役に立っていますね……」
「思想はともあれ彼は否定しようも無く優秀でしたからね」
ますます分からない。そんな優れた頭脳の持ち主ならどうしてイヴにアダムを討たせた上にイヴを騙し討ちしたんだろう? そうでもしないと叶えられない悲願が彼にもあったんだろうけれど、それは一体何なんだろう?
わたし達と人類連合軍の兵士達とは途中で別れた。兵士達はそのまま公都内への駐屯地まで戻り、そこで一旦解散するそうだ。駐在にあたり宿舎や借家に住んでいるそうで各々が家へと帰っていくのだろう。
……物凄く失礼だけれど、疲れ果てた面持ちで身体を引きずらせる彼らはまるで魂の抜け殻、アンデッドの群れに見えてしまったのは内緒だ。
わたし達はこの後どうするか、と三人で相談してみたのだが、
「教会に戻りましょう聖女様。そのお体では……」
「だ、駄目ですぅ。閣下に報告だけはしておかないと」
「さすがにわたし達の得た情報を上に伝えないままにしておくのは危険ではないかと」
「……っ。あまり無茶はなさらないでくださいまし」
プリシラは最後までわたし達の身を按じてくれたものの、結局とりあえず休むのなら洗いざらいを打ち明けた後、で意見がまとまった。
宮殿前の門までたどり着いて最初に目にしたのは犬型の合成使い魔だった。きっと魔物除けに採用しているんだろうけれど、まるで魔物に守護されているようで何とも言い難い複雑な思いになった。最もそのおかげでわたし達は魔物だと疑われずに済んで、そう時間かからずに入門出来た。
突然の来訪だったので多忙な公爵への謁見などそもそも許されないか長時間待たされると覚悟していたけれど、なんと到着してからすぐに謁見の間へと通された。わたしにとっては数日ぶりの謁見となった今回、チラを先頭にわたし達は公爵エステルの前に跪いた。
わたし達を出迎えたエステルは安堵の表情を浮かべ、涙すらその目に浮かべていた。
「嗚呼、よくぞ戻ってきてくださいました聖女様、そしてお二方!」
「勿体なきお言葉です」
謁見の間は前回より更に重苦しい雰囲気に包まれていた。文官らしき者達の顔は眉間にしわを寄せて険しく、更には前回はいたのにこの場に姿が見られない人もいるようだ。きっと事態はさらに思わしくない方向へと転がっているのだろう。
エステルもまた例外ではなく、出発する前の時より更に疲れが現れていて目のくまが酷かった。少し身体を押すとそのまま倒れてしまうのではないかと心配になるほどだった。
「まずは聖女様方からお話をお伺いしてもいいですか?」
「はい。では私から――」
そうしてチラは言葉を詰まらせながらも出発からの出来事を話し始めた。最初の快勝、軍団長ノアの強襲、そして人類連合軍がかかった甘い罠。その果てに連合軍兵士の多くと勇者エヴァすら魔物と化して敵に下り、多くの犠牲を払いながらようやく逃げてきた、と。
チラはわたしがエヴァと対峙した所はしゃべったもののわたしが一度死にかけた点は口にしなかった。そうなると冥府の魔法とかを説明しなければならなくなるので、事情を伏せてくれたのは大変ありがたかった。
ただ、人類連合軍の精鋭、そして夢魔となったエヴァについてはエステルやその臣下達には大きな衝撃を与えたようだった。
「そんな、勇者様が……」
「マリアさんも敵わず逃げるのが精一杯でして、堕ちた勇者って新しい強大な敵が立ち塞がってしまいましたぁ」
「……もはや私達ではどうにもなりませんね、これは」
両手で頭を抱えるエステルの様子から彼女の肩に負担が更に重くのしかかったのだと分かった。ノア一人でも頭が痛いのに夢魔となったエヴァにその背後に控えるサロメとやらまでこの先相手にしなければならないのだから、その気持ちは十分に分かる。
「では私の方から聖女様方が出発されてからここで何があったかを説明いたします」
そうしてエステルの口から語られた異変は予想外の物だった。第二都市で囚われていたと考えられていた本来の公爵夫妻と公太子が実は逃げ延びていて、でも本当は魔物化していて、そんな彼らをイヴが元に戻したのだと。
「す、救えるんですか……? 魔物になってしまった人たちも、本当に……?」
それを聞いていたチラの言葉にはまるで親に縋る子供のような懇願が混じっていた。けれど説明するエステルの顔は浮かないもので、それだけでもそう理想的な展開にはならないのだと思い知らされてしまった。
「ミカル様が仰るには救えないんだそうです。魔物に作り変えられた身体をもう一度作り変えて人間には出来ても、魔の影響を受けて歪んでしまった心まではどうしようもない、と」
「ど、どうしてですか!? 体が戻せたなら心だって……!」
「人としての信仰、道徳より魔物としての本能の方が強すぎるからなんですって……!」
エステルは玉座の肘かけに腕を思いっきり叩きつけた。彼女の顔は怒りで歪み、唇の隙間から覗く歯は固く噛み締められ、なのに目元からは涙が止め処なく零れ落ちていく。
「お父様もお母様もミカル様が折角救ってくださったのに桃色の色欲ばかりに走って全然現実を顧みもしない! お兄様も欲望を発散する事ばかり考えるけだものに成り果てました。お父様もお兄様もあんなに聡明でいらしたのに、お母様だって誰もが羨む淑女だったのに、どうして……」
「閣下、あの方のご尽力で公爵様は人の姿にお戻りになりました。ならば、後は時間をかけてゆっくり人の心を取り戻しましょう」
「……お父様方の心を取り戻す前に私が折れてしまいそうで、怖いのです」
エステルが流す涙をそっとハンカチで拭いたのは小太りの中年男性貴族だった。そう言えば彼は先日の謁見の際もエステルの傍で控えていたっけ。君主と臣下の間柄にしては随分と打ち解けているような気がする。このご時世でもなお高価な服に袖を通している点から判断するに結構な財力と地位を兼ね備えているんだろう。
エステルは目元をこすると、目元が腫れぼったいままではあったが強い眼差しをわたし達へと向けた。立派だと思う反面気丈だとも思ってしまう。
「魔王軍の姦計で危機に瀕しましたけれど、説明した通りミカル様のご尽力で窮地を救われました。今は厳戒態勢を敷いて守りを固めている状態になります」
「あのぉ閣下。少しいいでしょうか?」
「勿論です聖女様。何なりと」
「わ、私達が提案していた帝国への避難ですけどぉ……その後どのようになりましたか?」
そもそもイヴとわたしがこの国へやって来たのは旧キエフ公国ではもはや魔王軍の侵攻を防げなくなったからだ。聖女の奇蹟があって一時的に好転したけれど、悪く言ってしまうと人類連合軍の大敗は想定の範囲内。なら帝国への避難も予定通り進んでいると思われるのだが……。
チラが徐に手を挙げて問いただすと、エステルは重く沈んだ様子で顔に手を当てる。
「実は……当初の予測より早くこの公都に魔物が集結し始めていまして、一斉に避難させようにも市民を魔物共から守る人員が足りないんです。公都は封鎖して付近の住民には帝国へ避難してもらうよう誘導していますが、ここの市民の脱出はもはや不可能となりました」
「そ、そんな……!」
「皆さんには悪いのですが、囮になってもらうしか方法がありません」
旧キエフ公国中に散っていた魔物が公都に集まる分、地方を脅かしていた魔物の数は減っているだろうからその間に地方の人達は避難を進めるつもりか。公都の人達は籠城策を取って守りを維持しつつ帝国からの援軍を待つ、辺りか?
もはや人類連合軍に他の都市を解放して回るほどの戦力は無く、公都の防衛が精一杯。となるとやはり先発隊としてやって来るアタルヤ軍に一抹の望みを託す他無くなったわけか。
「では帝国軍が来るまで粘り、到着したら合流して魔王軍を退けると?」
「いえ、帝国からの先発隊だけで五万もの大軍ではありますが、魔王軍の勢いを止められるほどとはとても思えません。なので時間を稼いでいただいた上で公都の市民を避難させようかと」
確かに、先日の戦いで聖女チラの奇蹟で浄化した分の魔物は今回の完全敗北で補充されてしまった今、数だけで見ても圧倒的に敵側が有利なのだ。その上敵側は複数人が取り囲んで対処すべき大型の魔物も少なからずいるのだから、素人が見ても勝ち目は無いと分かるだろう。
勝つ事は考えず、奇跡も当てにしないエステルの決断は現実的と言っていい。太い身体をした中年貴族も賛同と感心を混じらせて何度も頷いていた。
「それがいいでしょうな。全市民に呼びかけていつでも脱出できるよう準備はさせておきますぞ」
「ありがとう宰相。となると残りは帝国軍の到着前に総力を挙げて攻めてこられた場合ですね」
問題はそこだよなあ。疲弊した人類連合軍では魔王軍の猛攻に耐えきれない可能性の方が大きいのはどうしようもない。奇跡を当てにしていたらいざ神の威光が地を照らさないままの時に万事休すとなってしまう。なるべくなら堅実な手段を取るべきだけれど、現状の戦力では無いに等しいだろう。
と思っていたら、宰相と呼ばれた太っちょの中年貴族は自分の胸を力強く叩いた。自信満々に鼻息を荒くするものだから他の文官達から期待の眼差しが送られている。そんな様子にエステルは表情を少し明るくし、前のめりになる。
「ご安心ください閣下。その点は抜かりございませんぞ」
「何かあるのですか?」
「無論ですとも。妖魔狩りでも大きく貢献している現在の戦力を時間の許す限り増やすのです」
「英雄バラクの研究所の、ですか」
宰相の提案に謁見の間が騒がしくなった。
バラクの研究所で創りだされ公都に配備されている使い魔や合成召喚獣は確かに即戦力にはもってこいだろう。ただし、生命の理に土足で踏み入った魔導には道徳、信仰面で嫌悪感が出てしまう弊害がある。この騒ぎ様は生きるためには背に腹は代えられないと考えるか神の教えが全てなので心中すら厭わない、で真っ二つになっている辺りか。
エステルはどうやら前者のようで、わずかに表情を輝かせた。
「そんな急ごしらえで頭数を揃えられるのですか?」
「それは当人に聞いた方が早いと思いまして、実は本日この宮殿に呼んでおります」
「そうでしたか! では早速お会いしましょう」
当人に、って言われたら来るのは間違いなく彼だろう。わたしは思わずプリシラの方を眺めたが、どうやらプリシラもどうやら同じ結論にたどり着いたようで視線が合う。彼女はこめかみを押さえつつ顔を横に振った。
「これ以上ここにいても仕方がありませんわ。私共は退散した方が良さそうですわね」
「そうですね。報告も終わりましたし下がっても問題ないと思います」
「そ、そうですね……。いつまで留まっていても迷惑ですし……」
チラはどうやらわたし達の建前と同じ理由のようで、プリシラに向けて軽く頷いた。チラは俯いたまま軽く深呼吸をして、自分を奮い立たせるように何かしらを呟く。そして彼女は強い視線で面を上げて……、
「あの、閣下。私達は――」
「失礼いたします閣下。バラク様がいらっしゃいました」
チラが退散を切り出す前に出鼻を挫かれる形で三回戸を叩く音をさせた後に、侍女の一人が入室してきた。彼女はわたし達や周囲の文官ではなく玉座にいるエステルに向けて恭しく一礼をする。
「構いません、入ってもらいなさい」
「はい、畏まりました」
「あ、あぅぅ……ご、ごめんなさいですぅ」
「こ、こう言う時もありますよ……」
か、完全に退出する機会を逸した……っ。思いもよらぬ展開にため息を漏らすプリシラをよそに、涙目で謝罪するチラをなだめる。こうなっては仕方があるまい。諦めてバラクとのやりとりを聞いていくしかあるまい。
そうして厳かに扉が開かれた。謁見の間の扉前にはあの投擲手バラクその人が立っていた。
お読みくださりありがとうございました。