閑話・公国宮殿への浸食
今回は公国宮殿に残ったイヴ側の話になります。
-閑話-
人質同然に旧キエフ公国の公都宮殿に幽閉されたイヴは、与えられた部屋で二振りの剣を手に舞っていた。彼女は叔母ミカルと偽ってこの国に潜り込んだのは良かったが、そのせいで淑女を演じ続けなければならなくなってしまっていた。
長い旅路で日課となっていた腕と脚を馴染ませるリハビリが中々出来ないでいた為、部屋に閉じ込められたのをいい事に鍛錬に勤しんでいたのだ。
彼女の格好は寝巻にも思われかねないほどの軽装で、既に長い時間剣を振り回しているせいで汗水で濡れて肌に張り付いている。そんな気持ち悪さもまた心地よく思いながら一心不乱に剣を振るっていた。
彼女が頭の中で仮想する敵は誰でもなく自分『達』自身。すなわち勇者イヴと魔王アダムに他ならなかった。さすがにイヴと融合したアダムでもかつての自分二人がかりの相手は厳しく、十回やってもその全てで相手の剣で自分の胸は貫かれ、首を跳ね飛ばされていた。
それならと一人を思い浮かべて相手をしても、結局腕と脚が追い付かなくなり結末は変わらなかった。勇者と魔王として備える魔導を駆使すれば結果は覆るだろうが、それではリハビリにならないので自分も相手も純粋な技術だけで決闘を繰り広げていた。
イヴが手にしているのは勇者として所持する光の剣と魔王として所持する闇の剣。いずれもこの世に二つとない至高の一品だった。この二本がぶつかったのは勇者と魔王の決戦が繰り広げられた大魔宮でただ一度きりだけ。その時の経験から二振りの剣はほぼ同等の性能だと今のイヴは認識していた。
今もまた動きが鈍くなってきた隙を突かれ、勇者イヴによる一振りがイヴの右腕を切り飛ばし、左腕で繰り出した反撃は光の盾に阻まれ、その胸に深々と光の剣を突き刺された。
「……駄目か。今の僕じゃあ到底昔の私には勝てないなあ」
目下悩みの種となっているのは手足の鍛練不足だった。マリアの治療もあって大分自由に動かせるようになってきたものの、この手足は元々剣士サウルが率いていた帝国騎士団の女騎士から失敬した代物。勇者イヴとして経験してきた熟練度より大きく劣るものだ。
それにこの一年間イヴ自身が鍛錬や死闘を経験せずに復讐の旅路をしていたのも要員の一つとなっていた。剣士サウル相手に両脚と片腕を犠牲にかろうじて勝利を治めた程度ではこの先聖騎士や聖女を守護する教会異端審問官達に太刀打ち出来ない可能性すらあった。
今度は魔王アダムに左手首を切断されてから続けざまに首をはねられた。イヴとアダムが一体となってからほぼ日課のように続けられていたが、当分かつての自分達にすら及ばない体たらくだった。イヴは突き付けられる事実を歯がゆく思いながら水桶にいれたタオルで軽く体を拭いていく。
「失礼いたします。入ってもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞお入りください」
扉を三回叩かれたのはイヴがミカルとしてのドレスを着終わってからだった。二振りの剣は既にしまわれ、彼女が先ほどまで剣を振り回した形跡はどこにも見当たらない。
イヴの返事を受けて入室してきたのはキエフ公爵だった。今朝もイヴと朝食を共にした彼女の名はエステル。魔王軍による再侵攻で第二の都市を治める公太子を訪問していた公爵夫妻が共々行方不明となり、急遽彼女が公爵の座に付いていた。
蹂躙されゆく国を支える気苦労で疲れ果てた顔をしていた彼女だったが、イヴの部屋に入った際の彼女はどこか晴れ晴れとしていた。既に公都よりすぐ東の地で人類連合軍が快勝した旨は伝えられてきたが、それにしても度が過ぎているとイヴは感じた。
「随分と嬉しそうじゃあないの。どうかした?」
「ええ、吉報が届いたので」
イヴは子沢山なミカルと偽っているものの実際の年齢が近しいのもあり、エステルとの間に古くからの友人のように親しい関係を構築していた。これはエステルが公爵となり心を打ち明けられるほどの相手がいなくなったのもあったが、イヴが退屈しのぎに彼女の苦悩を真摯に聞き入ったのもあった。
イヴはエステルをテーブル席へと誘うと、侍女に紅茶と菓子を用意させる。戦時中の現在では西方諸国から送られる貴重な支給品頼りではあるものの、多少の贅沢ならとエステルが少々備蓄させていた。マリアとの生活で日課になったせいかすっかり日々のティータイムは楽しみの一つになっていたので、イヴは大いに喜んでいた。
「人類連合軍が第二の都市に軍を進めた所までは聞いたけれど、その後何かあったの?」
「実はですね、お父様方がもうすぐこちらに戻って来られるんです」
「……お父様って、キエフ公爵閣下が?」
イヴは眉をひそめた。それに気づかずにエステルはなお嬉しそうに彼女に報告していく。
「それが、攻め落とされる前に脱出出来て今まで匿われたらしいのです。魔物を避けるようにここを目指していたそうで、今日ようやく到着されるとの報告が入りました」
「ふぅん、そうなの。それは良かったじゃあないの」
エステルはイヴが送った家族の帰還を祝福した言葉を素直に嬉しがった。だからか彼女は気付かなかった。イヴが興味深そうにわずかに目を細めて微笑を浮かべたとは。
「それで、ミカル様をご紹介したいのですけれど、大公の間に来ていただいて構いません?」
「ええ大丈夫、問題は無いわ」
「では早速ですが行きませんか? あと少しで到着するそうですので」
「随分と早いのね。分かったわ、行きましょう」
潜伏するなら馬でも出してこっちから迎えに来させればよかったのに、とイヴはふと考えたが、同時にそれは絶対にしないだろうとの確信もあった。何故なら考え通りなら……と、イヴは興味深そうにエステルの方を真摯に見つめて、彼女に微笑んだ。
「さて、どんな演目が見られるのか楽しみだね」
「? 何か仰られましたか?」
「いえ、楽しみねって呟いただけよ」
エステルはもうじき安否不明だった家族に会えるかと思うと歓喜の思いが湧きあがった。今なら羽ばたいていけそうだとばかりに体が踊りそうなのを何とかこらえつつ彼女はイヴを案内していく。そんな彼女をよそにイヴは何某が起こった場合どう立ち回るか、と考えを巡らせていた。
■■■
公爵夫妻が姿を見せたのはエステルが玉座に座ってそう時間を置かなかった。扉が開かれて現れた公爵夫妻とエステルの兄でもある公太子の服はくたびれていたが、それでも特に疲労も見られずに元気そうな姿をエステルへと見せていた。
「お父様、お母様……!」
感涙を流して両親に駆け寄ろうとしたエステルだったが、傍らに控えていたイヴに手で制された。思わずエステルは彼女を睨みつけたが、イヴは公爵夫妻に視線を合わせたままエステルの方に見向きもしない。イヴの眼差しは帰還した公爵家の者を観察しているようにエステルには見えた。
「ミカル様……!?」
「悪いけれどしばらく少し彼らと会話を交わしてみて。距離はこのまま離しておきなさい」
「え、ええ……」
エステルは帝国からの客人の様子がどこかおかしく感じたものの、イヴの言葉を忠告と受け止めた彼女は一端深呼吸を取って玉座に座り直した。そしてやはり駆け寄ろうとしていた両親を大公の間の中央よりやや手前、エステルより少し開いた距離の位置で制止させた。
「お父様、お母様、そしてお兄様。お帰りなさいませ。ご無事をずっと祈っておりました」
「ああ、ただ今帰ったよエステル。所で随分な挨拶じゃあないか。どうしてそんなに余所余所しいんだい?」
「念には念を入れ、です。敵魔王軍は想像以上に狡猾でして、何があるか分かりませんので」
「冗談が過ぎるぞ。まさか私達が魔物共に操られているとでも?」
その言葉を受けてエステルは浮足立った自分の心を戒める。
魔王軍に攻め落とされて魔物の巣窟と化した第二の都市から命からがら逃げ出せた? 道中魔物に見つからずに回り道をして帰還を果たした? それが真実なら確かに奇跡の脱出劇と言っていい。神の祝福があったのだと感謝を捧げるべきだろう。
だが、それが嘘偽りなら話は全く別になる。魔王軍に捕らえられた両親達が魔物と取引を交わしたか影響下に入っていたなら、もはや家族の姿をしていようが人類の敵に他ならない。他家に嫁いでいた自分が代理で不相応な地位に納まっている事を差し引いても今やこの国は自分の肩にかかっている、と改めて振り返った。
人類連合軍を率いていた司令は石橋を叩く慎重さなどと揶揄されていたな、と彼女はふと思い出した。ならばと彼女はその慎重ぶりを見習い、本当にこの場面が感動の再会なのかを確かめる事にした。
「あの地よりは魔王軍に攻めこまれる前に脱出出来た、とお聞きしていますけれど、本当ですか?」
「ああ本当だ。一体どうしたんだエステル、どうして私達にそんな仕打ちを……」
「近づかないでください! 言葉にしないと分かりませんか? 近衛兵、何をしているのですか! 早くわたしを守りなさい!」
エステルの命を受けた近衛兵達は戸惑いの色を見せたものの、かつての自分の主人と現在の主との間に割って入り、現公爵を守護するように隊列を組んだ。
「誰か、お父様方が引き連れた者達に一ヶ所に集まるよう命じなさい。拒絶するようなら私の名において多少の狼藉には目を瞑ります」
「はっ!」
大公の間の片隅で控えていた近衛兵が公爵の命を受けて去っていく。それを見ていた公太子が手を震わせてエステルの方を睨みつけた。彼は完全に怒りで目が血走らせ、妹であるエステルを恫喝する。
「どういうつもりだエステル! いくら父さんの代わりを務めていたからとは言え、これ以上お前の勝手は許さんぞ!」
「勿論わたしの勘違いでしたら後で誠心誠意を込めて謝罪します。ですが今は疑念を晴らす方が先でしょう。誰か、アレを連れてきなさい!」
「はっ!」
別の近衛兵は威勢よく返事をすると大公の間を後にした。
戸惑う近衛兵、憤る公爵夫妻と公太子、強く勤めようとするエステル。そんな中で一連の流れを眺めていたイヴは自然と笑みをこぼしていた。
「随分と見事なお手前です、公爵閣下。私も貴女のようなお方が統治する国へと来れて鼻が高い」
「いえ、浮かれる私に注意を促してくださったミカル様のおかげです」
「ではどうやって真実を暴くか、お手並み拝見させていただきます」
「私だって本当は疑いたくないんですけれど……みんなの無事が私にかかっていますから」
エステルは己の家族を玉座より見下ろす。憤怒に彩られる兄、全く表情を見せない父、どこか落ち着かない様子の母。いずれも自分の知る家族に間違いは無かった。本当なら今すぐその胸に飛び込みたい衝動があったけれど、統治者として慎重な姿勢であらねば、と気を引き締め直す。
やがて大公の間に連れて来られたのは三つ首の犬だった。ケルベロス、と口にしたのはその場で控えていた文官の誰だったか。ケルベロスは近衛兵に引っ張られて大人しく歩行してくる。
そんな犬の様子が一変したのは、公爵夫妻と公太子を目の当たりにしてからだった。
警戒するように唸りをあげるケルベロスに文官一同、そしてエステルが驚愕で目を見開き、そして愕然として身体をよろめかせた。倒れそうになったエステルはイヴに両肩を持って支えられる。ケルベロスがどのような目的で訓練されたのかイヴは知らなかったが、エステルの様子から大体の事情を察した。
「素晴らしく優秀な番犬をお持ちなのですね。これなら寝首を襲われる心配も無いでしょう」
「す、すみません、取り乱してしまいまして……」
「現実に背を向けずに真摯に受け止める強さがあるのですから立派なものですよ」
公太子は吼えたててくる三つ首の犬を睨み返し、今にも殴りかかりそうに肩を震わせていた。
目の前の現実で混乱を隠せなかった公爵夫妻とエステルの間に並ぶ近衛兵達に対し、エステルは鋭い声で命令を下す。
「何をしているのですか近衛兵達! 早くその魔物共を捉えるのです!」
「ど、どういうつもりだエステル、私達が魔物などと世迷言を! 気でも狂ったか!?」
「お言葉ですがそのケルベロスは勇者一行に加わっていた英雄バラク様が調整した使い魔です。私共が今相手している魔王軍、つまり妖魔に反応するよう訓練されています」
「な、何だと……!?」
憤りを見せた公爵だったが、エステルの淡々とした、しかしどこかもの悲しさが混じった声色をさせた説明を受けて一瞬たじろぐ。
投擲手バラクの名を聞いたイヴは、かつての仲間をどのように絶望の底に叩き落とすかはまだ考えていない事に気付いた。聞いた話ではこの都市で研究機関を営んでいるらしい。この一件が片付いたら時間をかけてじっくりと料理してやる、とイヴは場違いな事を考えながら軽く舌なめずりをした。
「グールを始めとして今回の敵は何故か人の部分がある魔物ばかりだったので、人に化けて潜伏する可能性を考慮してでしたが……まさか妖魔達が人を魔物に変貌させるだなんて」
「――……」
「お父様、お母様。治療法は必ず見つかると信じています。近衛兵達に部屋に案内させますので、大人しく従ってください」
静寂が大公の間を包み込む。公爵達は先ほどまでの怒りが何処へやら行ってしまったのか、表情を失って軽く俯いていた。固唾を呑んで両親の反応を窺うエステルだったが、そんな彼女の願いも空しく公爵は腹をかかえて高笑いをあげた。
「……ふ、ふふふ。ふははははっ!!」
そして彼、いや、彼ら三人は厳粛だった物腰を一変させ、肩から力を抜いた楽な姿勢となった。その目は狂気に彩られたように歪み、エステルを恐怖を覚える前に愕然とさせられた。
「まさかお前がそこまで見破るとは思っていなかったぞエステル。蝶よ花よと言っていた嫁ぐ前のお前からは見違えるようだ」
「お父様! どうかそれ以上何も言わずに……!」
「お前を騙して我々側へと誘おうと思っていたが、こうなっては仕方があるまい。力づくでやるとしよう」
公爵夫妻と公太子は身体を震わせると、次の瞬間身にしていた服をはち切れさせ、その身体を変貌させていく。公爵夫人のドレススカートの下から六つの犬の首を覗かせたスキュラに、公爵は筋骨隆々で牛の頭部をさせたミノタウロスに、公太子は黒山羊の頭部をさせたバフォメットに、それぞれ姿を変えていった。
「あ、ああ、そん、な、そんな……っ!」
エステルは口元を両手で覆って顔を青ざめさせる。家族の変貌に彼女は恐怖でおののいたが、肩を持つイヴの手の温かさに再び勇気づけられる。それに押される形で彼女はかつての家族、今宮殿内に侵入した魔物を睨みつけた。
「どのような仕打ちを受けたか私には想像も出来ませんが、身ばかりでなく心と魂すら魔物に売り払うだなんて……! その神への冒涜、恥を知りなさい!」
「お前の身体にもすぐに教え込んでやろう、我らを誘ってくださった魔物の世界の素晴らしさを!」
「近衛兵、槍を構えてその者達が逃げられないように取り囲みなさい! いかに凶悪な魔物だろうと大勢で取り囲めば……!」
「あぁらエステル、そんな脆い作戦でいいのぉ?」
エステルから命令を下された近衛兵達より三体の魔物が動く方が速かった。魔物はその凶暴さを存分に発揮し、取り囲んでた近衛兵の構えた槍を弾くと次々とその暴力や牙へとかけていく。殺傷こそされなかったようだが吹き飛ばされた近衛兵達の被害は甚大となる。恐れおののく文官を除けばもはや彼らとエステルの前に立ちはだかる者は誰一人としていなかった。
牙をむいて魔物に飛びかかったケルベロスだったが、その突進は公太子によって易々と阻まれる。黒山羊の悪魔は更に身体を震わせると、首と肩の間から左右それぞれにもう一本ずつ頭を生やしてきたではないか。
「そ、んな。あの姿は文献にも載っている悪魔その者じゃあ……」
「三つ首のバフォメット、か。人間を素体にしてよくここまで練り上げたものね」
エステルとイヴの反応は対称的で、エステルは絶望に包まれて玉座に崩れ落ち、イヴはただ現在の公太子の姿に感心したように頷くだけだった。
エステルはイヴの方へと顔を向けて苦悶の表情を浮かべると、やがて強い眼差しで家族だった者達を見据えて立ち上がった。イヴの前に立つ彼女の手は恐怖で震えていた。
「ミカル様、私が時間を稼ぎますのでどうかお逃げください。そしてじきに来る予定の帝国軍の方々にどうかこの国を救ってください、と伝えていただけます?」
「では公爵閣下があの輩の毒牙にかかると?」
「確かに怖いです、恐ろしいですよ……! あれほど立派だったお父様方があんな魔物そのものに変えられてしまうなんて! けれど、この国を救うためには貴女様に死なれると困ります」
そしてエステルは意を決して魔物達の方へと歩みだそうとしたが、その矢先にイヴに肩を掴まれてしまった。そればかりか次には力いっぱい引き戻されて玉座へと尻を付いてしまう。
エステルが見たのは彼女を守るように魔物達の前に勇ましく立ち塞がるイヴの姿だった。その佇まいはとても貴族社会でお城の中で過ごす貴婦人のものではなく、むしろ――。
「この国を救いたいのでしたら貴女ほどの統治者がいなくなる事こそ大きな損失ですよ。貴女はただ命じればいいのです。魔の者共を討ち払え、と」
「で、ですがミカル様。この国の精鋭でもある近衛兵を一蹴した今のお父様方には……!」
「所で閣下。あの者達の処遇は如何いたします?」
「しょ、処遇……?」
「この先治療法が見つかる事を祈って牢屋に入れるのか、それとも人類に仇をなす魔物として討ってしまっていいのか、ですよ」
「……っ!」
そもそも目の前の魔物に敵うかどうかすら絶望的だったエステルにはその先の判断は考えも及ばなかった。確かに魔物へと変貌した者を逆に人間に戻す手段があってもおかしくはない。家族に戻ってきてくれるならそんなに嬉しい事は無かった。
しかし、エステルは首を横に振った。彼女の頬の上を涙が流れて膝元へと落ちていく。
「どうかせめて、お父様方に安らかな眠りを与えてください」
「いいのですか? 魔導に疎い私は把握していませんが、あの方々を救う方法も――」
「お父様方があの様子ではこれまで魔王軍として戦ってきた相手は我が民の成れの果てだったかもしれません。あまりに多くの犠牲を出してしまったのに私ばかり我儘は言えません。この先を考えれば、一思いに決断を――」
「本当に?」
ドレスを握る震えたエステルの手の上にイヴの手がそっと乗せられる。イヴの手は華奢に見せかけて予想よりはるかに固く、なのにすぐに折れそうな繊細さも保っている不思議なものだった。エステルを見つめるイヴの瞳はとても真剣なもので、そして彼女を按ずるように感じた。
エステルの顔が歪む、涙が止めどなく流れ出す。
「救って、ください……! 私の大切な人達なんです!」
「公爵閣下の願い、しかと受け取りました。私はその想いに答えるだけです」
イヴはエステルに不敵に笑ってみせると、無防備なほど堂々と魔物達へと歩み寄っていく。それを目にした近衛兵は逃げるように大声を上げ、魔物共は愚かな行為に奔る貴婦人を嘲笑う。
「まずはお前からか! 誰だか知らんがお前にもこの甘美な心地を与えてやろう!」
「大丈夫よ、不安なのは最初だけ。後は快楽を思う存分愉しめる素敵な世界が待っているわぁ!」
元公爵は鼻息を荒くする。元公妃は笑い声をあげながら下半身の犬どもの首をくねらせる。おぞましく恐ろしい光景だったが、イヴは恐怖するどころか小馬鹿にしたように鼻で嗤った。
「ふぅん、相変わらずサロメ旗下の連中は下品で仕方がない。知的生命だったらもっと慎み深さも備えればいいのにねえ」
「何だと……? 人間の分際で我らに――!」
「お前達が何者に変化しようと……」
それは一瞬だった。この場にいた者の誰もが何が起こったか把握出来なかった。やられた側の元公爵夫妻や公太子すらも自分の身に何をされたか把握出来なかった。エステルの目には瞬きほどの間の後にイヴの姿勢が変わったぐらいしか分からず、思わず目をこすった。
「――僕と私の敵じゃあない」
公爵夫妻と公太子の身体に無数の光る線が走る。彼らはこの世の物とは思えない苦痛の悲鳴を上げると身体中の線から光が溢れだす。光の粒子が身体から出て行くにつれて公爵夫妻達の魔物化した部位が砕け、次第に人の物へと戻っていくではないか。
「何を、したんです……?」
エステルはただ茫然とその光景を眺める。理解が付いていかなかったが、とんでもない出来事が起こっているとだけは分かった。当のイヴ本人は特に何も無さ気な様子ではあったが。
「何をって、彼らを魔物たらしめる要素を切り裂いただけよ。魔を断てば元の人に戻るってだけね」
「そ、そんな奇蹟が出来るんです……?」
「可能も何も今見せた光景が現実でしょう。違わない?」
イヴは話半分にエステルへと説明したが、実際には彼女はかつての勇者イヴや魔王アダムにすら不可能な芸当、魔物と化した者達を光と闇の剣の両方で切り刻んでいだ。光で魔を払い、闇で魔を制する。そうして魔の要素だけを払ったように見せかけて魔物を再び人へと作り変えたのだ。
ただ、イヴはエステルに勝手に勘違いさせておくようにした。後を考えたわけではなく、単に義務も義理もないので面倒くさがっただけに過ぎない。
「公爵閣下、私に直せるのは体だけです。魔に犯された心を人に戻すのは時間をかけてでないと……」
「い、いえ……! 私の肉親を救っていただきありがとうございます」
「それでは参りましょう。魔物と化したこの方々に同行していた者達も怪しいので、確かめないと。失礼ながらこうなってしまった以上、私と共にいた方が最も安全かと思われますので、ご同行を」
「わ、分かりました」
エステルは身体をふらつかせる近衛兵達に倒れた公爵夫妻達を介抱するよう命じ、手を差し伸べるイヴの手を取った。
突然現れて魔王軍相手に奮戦する勇者と名乗る女剣士も確かに立派だった。この国に来訪した奇蹟を体現する聖女は正に人の心のよりどころになった。
けれど人を、魔に堕ちた者をも救った目の前の彼女を差して魔を払う勇者と呼ぶのではないか? エステルはそう思わずにはいられなかった。
「勇者様……」
エステルは自然とイヴを讃えるようにつぶやいていた。
-閑話終幕-
お読みくださりありがとうございました。
 




