魔王軍との対峙⑥・フォールンヒロイン
-閑話-
「……都市に入った部隊からの報告はまだか?」
「いえ、未だに」
キエフ第二都市の城壁外に設置された本陣にて、司令官は都市の様子を眺めながら首を傾げた。
城壁は制圧済み。都市内部へも部隊を突入させている。特に争いの兆候も見られず、全てが順調に進んでいると彼は判断していた。むしろあまりに何も起こらないせいで不安を募らせるばかりだった。
やがて彼の思いが通じたのか、城門をくぐって女剣士と騎士団の一行が姿を見せる。彼女達の凱旋には本陣に残った兵士達が大いに湧き上がる。遂に魔王軍を退けた、これで後は少しずつ失った領土を取り戻そう、と声が所々であがる。だが司令官には言い現せられぬ嫌な予感が拭いきれなかった。
「勇者様が帰ってきましたよ司令! 勝鬨を挙げましょう!」
「……いや、待て。まだ早い。まずは勇者達から中の状況を報告してもらってからだ」
はやる気持ちを抑えられそうにない参謀を抑えて彼は女剣士一行より目を離さないよう努めた。
段々と近づくにつれて次第にはっきりと確認できるようになった彼女達の姿をはっきりと目にして、司令官の違和感が確信に変わる。あの者達の変貌ぶりは明らかに異常だ、と。
騎士達が被っているのは断じて兜ではなかった。質感が金属ではないしましてや被り物ですらない。ではあの黒山羊のような頭部は一体何なのだ?
女剣士の鎧や服が極端に露出されているのも背中に悪魔のごとく翼を生やしているのも決して目の錯覚などではない。蕩けた顔で微笑む彼女からは凛々しさや清楚さなど欠片も見受けられない。妖艶さに溢れた佇まいは勇者のそれではなく、明らかに男を堕落させる魔女の類で――。
「ぜ、全軍直ちに迎撃態勢を取れ!」
「は? 司令、一体何を……?」
「早くしろ! お前達死にたいのか!?」
もはや形振り構っていられなかった。己の勘違いなら後でその命に変えてでも贖罪すればいい。今は目の前の勇者……いや、勇者の格好をした堕落者共を一歩たりとも本陣に近づけない事こそが最優先だと、理性も本能も叫んでいた。
だが悲しいかな、司令官の命令に従おうとする者は誰一人としていなかった。確かに勇者達の雰囲気がどこか変わった、とまでは分かっても、思い浮かぶ違和感の出所がどこなのかまでを考える者がいなかったからだ。
「そこで止まれ! 従わないなら反逆とみなして処断する!」
動かぬ案山子同然の部下達を押し退けて司令官は本陣の前へと躍り出る。彼は剣を鞘から抜き放つと、その切先を女剣士に向けて恫喝した。何事だとばかりに本陣の兵士達は司令官の暴走、錯乱を疑う。だが大声を浴びせられた女剣士一行はそれが耳に入らなかったとばかりに行進を止めようとしない。
司令官は歯を強く噛み締め、最終警告とばかりにさらに声を張り上げた。
「じきに聖女様方がここに来られる! それまでで問題は無い! 何故従わない!?」
女剣士一向の行進はなおも続く。さすがに本陣の兵士達も彼女達の様子に疑問を抱き始め、にわかに騒がしくなり始める。だがまだ誰もが疑心暗鬼になるばかりで司令の意図を掴めず、警戒心を接近しつつある前方の者達に向ける事はなかった。
やがて、人類連合軍兵士達は女剣士からまるで獲物として狙われたかのような眼光で見つめられると、信じられない光景を目の当たりにした。
女剣士は破顔させると外套にも見えた翼を大きく広げ、ただ一人用心深くしていた司令官へと飛び掛かってきたのだ。あまりに突然突撃してきた為に咄嗟に行動も取れず、司令官は女剣士にその場に押し倒されて馬乗りにされた。
「あはっ、掴まえた」
「勇者殿、一体何を……!?」
軽い笑い声をあげる女剣士に驚愕する兵士達だったが、彼女を気に掛ける余裕などもはや無かった。直後に騎士の鎧を着こむ黒山羊の頭部をしたソレらが身の毛のよだつ雄叫びをあげて連合軍本陣へと突撃してきたからだ。
ここに来て兵士達はようやく理解した。眼前にいる者達は第二都市より戻ってきた騎士団や女剣士などではない。それらは自分達に破滅をもたらす魔物の群れだったのだと――。
慌てて兵士達は反射的に槍を向けるが、魔物の振るう剣は向けられた得物を木の枝を掃うように破壊する。そして次の一振りで一人の兵士が鎧ごと肉を引き裂かれた。焼けつくような熱さと共に襲い掛かる痛みで地面をのた打ち回る兵士の顔に、具足で覆われた脚が容赦なく降り注ぐ。
勢いに任せるままに魔物の群れは狼狽える人類連合軍兵士達を一方的に蹴散らし、本陣深くへと突き進んでいく。悪魔となった騎士達に誰もが成すすべなく血祭りに上げられ、瞬く間に本陣は地獄の扉を開いたかのような惨状が広がっていった。
「魔性に身も心も、魂まで売り渡したのか……!?」
「捧げた、って言ってもらえません? 堅苦しい立場からの解放感は最高ですよ」
司令官がかろうじて動かせる顔を城壁の方へと向けると、城壁上に展開していた連合軍兵士達はいつの間にか魔物に取って代わられてる。いや、それどころか門や城壁上、更には上空よりも魔物が続々と出現し始めているではないか。
連合軍はかなりの数の兵士を都市に送り込んだ。城壁の防衛に人員も裂いた。にも関わらず魔物共は素通り同然に都市から次々とあふれ出てくる有様となっていた。もはや単に敵軍が都市の奥に潜んでいて人類の部隊が駆逐されただけとは考えられなかった。
司令官は認めるしかなかった。第二都市攻略が完全に失敗した所の話ではない。人類連合軍の兵士達はただナイフとフォークを手にして待つ魔物殿の眼前に並べられた皿の上にまんまと自ら登っただけだった。そして己にまたがる魔女同様に都市へと入っていった者達は魔物へと堕ちてしまったのだと。
ただ多くの犠牲を払うだけならどれほど良かったか。死という救済すら許されない堕落の果てに人間としての想い、思想、信仰を踏みにじられ、かつての仲間を無慈悲にもその手にかけるばかりだ。勇者すら堕ちた魔の誘惑からどうして一介の将官に過ぎない自分が逃れられようか?
「神よ、何故あなたは我らを見捨てたもうた……!」
息を荒げながら己の鎧や衣服を強引に破り捨てる女の化身が未来の自分の姿だと思うと、司令官は我を忘れて神へ救済を乞うた。それをあざ笑うかのように女の魔物は手で司令官の顔をなでる。
「うっふふ、私達が信じるべきは神などではありません。この身体の奥底より湧き起こる情熱、本能こそが全てではありませんか」
「そこまで人の矜持を捨てたか!」
「大丈夫です。貴方にもきっとこの甘美な世界は分かってもらえるでしょう」
既に司令官の防具ははぎ取られ、後は己の全てを食らい尽くさんとする女がいるだけだった。女の魔物は舌なめずりをしながら最後の隔たりを外すべく司令官へと手を伸ばしていくと……、
「何を、しているんですか……ッ!」
直後、寸前まで女剣士がいた場所を輝く何かが通り過ぎていった。
女剣士は翼をはためかせながら身を翻して司令官より離れた位置に着地する。彼女は己の身体をなぞるよう指を這わせながらはだけた衣服を整えていく。「面白い」との喜びと「よくも邪魔立てを」との憤りが複雑に混じり合わせて微笑を浮かべたまま女剣士は司令官の後方を見つめていた。
司令官が振り返った先にいたのは、杖の先端から光の矛を放出させている魔導師の姿だった。
そこで彼はまだ自分に希望が残されているのだとようやく思い出せた。かつて人類を魔の手より救済した、勇者一行の英雄達がいたのだと――。
-閑話終幕-
■■■
「な、何なんですの、これは……!?」
「連合軍の皆さんが襲われている……?」
ノアを退けた後で乗ってきた馬車が姿を消していたのはまあ予測の範疇だった。女三人の歩行速度なんてたかが知れているから、結局先行した人類連合軍の本陣にたどり着くのには大分時間を要した。批難されるのも覚悟の上だったが、現実はそのはるか下を行っていた。
悪魔が下品な雄叫びをあげながら人類側の兵士を殺傷していく様子は正に地獄絵図だった。もはや人類連合軍の歴戦の兵士達は敵に背を向け逃げ惑うかただ腰を抜かすばかりだった。まさに一方的な殺戮劇が繰り広げられていたのだ。
「ど、どうしましょう……!? み、みんなが……!」
「混乱する軍を立て直すには心の支えが必要ですわ。聖女様には死地に飛び込む覚悟を持っていただき、兵士達を奮い立たせていただければと」
「わ、分かりました……! やってみます!」
軽く悲鳴を上げて青ざめるチラの前に出たプリシラは矢をつがえ、聖女に力強く頷いた。チラもまた口を固く結ぶと大きく頷き返す。そして彼女はわたしの方にも視線を移してきたので、わたしも頷いてみせた。
「ではマリア様、行きますわよ」
「ええプリシラ」
わたし達は走りながら遠距離攻撃で人類連合軍兵士を襲う魔物への攻撃を開始した。魔物共は兵士達に夢中になってくれていたおかげでほぼ一方的な展開になり、視界に入る敵は次々とその巨体を大地へと倒していく。
兵士達はわたし達の遅すぎる到着に気付いたのか、中には歓喜の声を上げる者すらいた。
「聖女様! 来てくださったんですね!」
「おお、聖女様! どうか我らを救いたまえ!」
「みなさん、もう安心です! どうか気をしっかり保って下さい!」
「武器を取り槍を構えてくださいまし! 敵を近づけなければ後は私共で排除いたしますわ!」
わたしとプリシラは激を飛ばして恐怖と混乱に怯える兵士達を正気に戻していく。何せわたし達三人は残らず後衛で、今この軍を襲う悪魔のような魔物は明らかに近接戦に優れた種族だ。兵士達がわたし達の前で槍を構えて牽制してくれるだけで安全度が全然違う。
兵士達は何とか自分の気力を奮い立たせると、散乱する武器を手にしてわたし達の前に列を展開していく。本陣は遠距離狙撃を防止するために幕が張られていて非常に入り組んでいるから一ヶ所に留まっての敵軍排除は出来ない。用心しながら少しずつ陣地内を進む他ないだろう。
「聖女様を中心に方陣を組んで前進! 魔物共の駆逐して回りますわ!」
それからは早かった。聖女という心の拠り所が戻ったおかげで兵士達は士気を取り戻していき、それぞれ反転攻勢に出始める。どうやら奇襲してきた敵人数はさほど多くは無いらしく、敵の勢いもさほど強くないように感じる。
「そ、それにしても敵はそれほど強力じゃあなさそうなのに、ど、どうしてこんなに皆さん混乱しているんでしょうか……?」
「畏れは伝播しますからね。その畏れを振り切るほどの支えが無い限りは立て直しは難しいと思います」
「にしても解せませんわね。こんなに開けた場所に陣地を構築しているのにどうしてこうも深く入り込まれているんでしょう?」
立て直しが順調だからか意見を交わす余裕も生まれてくる。今も迫りくる山羊の頭部をした魔物の脳天を魔法の槍で撃ち抜きながらわたしの意見を披露した。だが前衛を担ってくれている兵士達は誰もが聖女に勇気づけられている中でも怯えが拭いきれていなかった。
「ち、違うんです聖女様……。あの悪魔どもはそんなんじゃあ……!」
「? ど、どういう事ですかぁ?」
「聖女様、横から失礼を」
プリシラがチラのすぐ横を掠めさせて放った矢は、幕の裏に潜んでいた黒い悪魔の喉元を見事に射抜いていた。筋肉ではち切れんばかりの身体をさせた敵は幕を引きちぎりながら前のめりに倒れる。その向こうには悪魔の攻撃を受けて負傷した兵士達が呻き声を上げて横たわっていた。
「まだ息がある! 助けないと……!」
「ひ、ひいいっ! 聖女様どうか奴らには近づかないでください! 聖女様までやられちまったら俺らは……!」
「えっ? ど、どういう事ですか?」
彼らに駆け寄ろうとするチラとわたしを、わたし達を囲んでいた兵士達がさせじと圧し留めてくる。あまりに必死の形相に気圧されていると、突然負傷した兵士達が苦しそうに絶叫をあげて身体を弓のようにしならせた。
何が、と思った矢先、兵士達の身体に変化が現れた。彼らの身体の中で虫か何かが蠢く、とでも表現すればいいんだろうか? 白目をむいて髪が抜け落ち肌の色が浅黒くなり肉が削げ落ちてくる。あまりにおぞましい光景に思わずわたしは口元に手をやり、聖女は甲高い悲鳴をあげた。
「い、いやあああっ! 何が、何が起こっているんですか!?」
「あの悪魔共の仕業なんだ! 悪魔共に傷つけられた人間が時間を置くとああして人間じゃあなくなっちまうんだ!」
「何なんだよ、一体何なんだよこれはああ!?」
やがて、わたし達の眼前からは傷を負った兵士達はいなくなっていた。そこに在るのはもはやこの国でこれまで散々わたし達が相手をしてきた魔物、グールの群れだった。その兵士達の成れの果てが何かをする前にプリシラが容赦なく矢を浴びせていく。
そうか、これが混乱の原因か。負傷した兵士を介抱していたら魔物化して襲われる。そして新たな魔物の出来上がり。つい昨日まで同じ鍋の飯を食べていた者が突然自分に牙をむける有様は、正に悪夢と呼ぶにふさわしいだろう。
「成程、外傷による魔物化ですわね。ああなってしまったら最後、どうしようもありませんわ」
「じゃ、じゃあ、傷を負った皆さんを救うには、ああするしかないんですか……?」
「魔物化する前に要因となる呪い、魔力の類を祓えば問題はありませんわ。マリア様は魔物となった者達を元に戻す術はお持ちですの?」
「いや、残念ですがわたしには無理です」
いかに呪いや魔導の影響だろうと、身体が変貌してしまったらもう引き戻す事は出来ない。治すのであればもう一度身体を造り変える手段が必要となってくる。そんな手段は回復や治療の範疇ではない。対象の身体構造を造り変える魔法はあるにはあるけれど、大掛かりな儀式魔法が必要だ。
脇目でチラの方を見つめてみる。わたしの視線に気づいたチラは悲痛な面持ちで顔を横に振った。聖女の奇蹟なら常識を打ち破って人に戻せるとも期待したけれど、さすがに無理だったか。
ただ一つだけ魔物となった者達を救う方法があるとすれば……。
「魔導生物を研究しているバラクになら魔物を人へと作り変えられるような気もしますけれど……」
「……あのお方の力を借りるのは最後の手段にしておきたいですわね」
「救えるのか!? 魔物になった連中を、本当に!?」
わたしが何気なく漏らした妙案が聞こえたのか、兵士達が飛びかからん勢いでわたしに迫ってきた。よほど魔物化した仲間達を救いたいのだろう、その思いがわたしにも強く伝わってくる。
冷静になって頭の中を整理してみる。確かに理論的には可能かもしれない。魔物化が可能なら人間化が出来ない筈が無いし無理でも理論を構築して実現する、と考えるのが魔導師の在り方、探究だ。バラクなら達成出来る、どこかにそんな確信がわたしにはあった。
だが、その手段はここでは非現実的な空論に過ぎない。
「ですが考えてみてください。魔物化したみんなをわたし達だけでどう生け捕りにするんですか?」
「そ、それは……!」
「悔しいですが現実的には不可能でしょう。ならわたし達がやるべきなのは一人でも多くを救う事。取捨選択は……已むをえません」
「ぐ……そ、そうですな……っ」
魔物よりこちらの数が勝っていればその限りではないけれど、今わたし達が伴う即席の部隊だけでは到底無理な芸当だろう。結局転落しかける者の手を掴む事は出来ても、崖底から引き上げる道具を持ち合わせていない現状では無理な芸当だろう。悔しいけれど諦めるしかない。
「マリア様の範囲魔法で魔物化を防げないのです?」
「範囲魔法は範囲内全員に効果をもたらすので魔物達にも影響が出ます。わたしの魔法では治療と浄化を同時に行う大規模なものでは効果対象を絞れませんから……」
「自然回復する魔物を相手する羽目にもなる、ですか。やるなら魔物共を一掃してからですわね」
「ええ、そうですね。それにしても……」
と、言葉を続けようとして、わたしの視界の隅にある一つの光景が入ってきた。
それは仰向けに倒れ伏しているこの人類連合軍を率いる司令官と、彼にまたがる熟れた身体をさせた絵画や本に描かれる夢魔のような姿をした魔物だった。
あの魔物には覚えがある。彼女には凛々しさや勇ましさなどどこにもなかったけれど、あの恍惚で輝かせた表情は見覚えがある。そう、あれはアダムを想うイヴ、つまり男を想う女のものだ。真っ先にエゴ丸出しのイヴを連想させると、あの魔物からはイヴを髣髴とさせる部位が至る所にあると気付く。
イヴ本人はあのような淫らな魔物に堕ちやしないから、彼女の正体は――!
そう思うがわたしは杖をその魔物へと向けて、力ある言葉と共に魔法を放っていた。
「マジックカノン!」
その攻撃魔法は一直線に彼女へと向かっていくものの、直撃間際で鮮やかなほどの動作で身を翻してかわされた。無我夢中で司令官を別の意味で食おうとしていたから奇襲は成功すると思っていたのだけれど、なかなか上手くはいかないか。
「何を、しているんですか……ッ!」
わたしは杖の先端から魔力で矛を構築し、司令官の前へと躍り出ると彼女と対峙した。
マジックブレード。魔力の粒子を放出するマジックアローやマジックカノンと違って、これは魔力の粒子を一定の形のまま持続させる技術が必要になる。普通の剣と違って剣の形状をさせた中でも魔力の粒子を絶え間なく流動させているので、熟練者が構成すれば切れ味は抜群だ。
わたしの場合はそもそも杖が身長以上の長さをしているので、槍のような矛を少し大きくした程度に留めても十分な間合いになる。長すぎた所で近接戦が得意ではないわたしでは武器に振り回されるだけなのは目に見えているし。
そんな矛先をまさか彼女に向けるだなんて想像もしていなかった。イヴに酷似していても彼女とは少し言葉を交わしたのみ。それでも躊躇いが生じているのは、彼女の本来の姿を知っているからだろうか。
「ふぅん、これはこれは大魔導師様。お早いご到着で」
「皮肉は聞きません。そもそも魔物へと堕ちた貴女と交わす言葉は有りません」
元女剣士の魔物は淫らな格好からは予測もつかないほど上品なお辞儀をしてきた。わたしは突き放すように強く宣言すると矛先を敵の喉元へと向けた。そんなわたしに彼女は朗らかに微笑すると、手を自分の頬へと当てた。
「あら、他人の空似って思ったりはしないの?」
「わたしが貴女の言う大魔導師様だったら、勇者イヴに酷似する貴女を見間違える筈ないのでは?」
「それは一本取られちゃったわね」
皮肉としか言いようがない。見た目はイヴだったのに皆が理想とする勇者像だった彼女は、勇者の殻を破って魔物と化してからの方がより本質がイヴに近づいている気がするのだ。みんなの為と見せかけて一人の男を満足させるべく勇者を演じていたイヴと目の前の夢魔は何ら変わりがないようさえ思えてくる。
なら、唯一の違いがあるとすれば、どちら側に立っているか、だろうか。
「一つ提案しますけれど、この場はお互いに軍を退くと言うのは?」
「駄目よ、どうして目の前の美味しそうなご馳走を逃がさないといけないの?」
いや、もう一つあったか。節操がないな彼女は。それともイヴで言うアダムに対する存在とは彼女はまだ巡り会っていないだけだろうか?
だがわたし達がこうして対峙する間も彼女の背後、第二の都市からは魔物が続々とあふれ出てくるではないか。もはや現在本陣にいる人類連合軍よりはるかに多くの魔物がひしめいているのは間違いない。これではどんな奇策を講じても太刀打ちなど出来ないだろう。
「司令、全軍撤退を。この場はわたしが引き受けますので」
「だがさすがに君を見捨てて逃げるなど……!」
「適当な所でわたしも逃げますよ。それより今残った人達をこの場から脱出させないと!」
「ぐ……っ。すまない、任せた!」
司令は腰と腹に外套を巻き付けてからわたしに頭を下げると、すぐに本陣の奥へと去っていった。その奥では彼が声を張り上げて撤退を宣言しているようだ。。
一方チラとプリシラ達はわたしが方陣を飛び出した後も本陣内に紛れ込む魔物の掃討に従事する。どうやらひとり飛び出たわたしの元へと近づこうとして阻まれているようだ。チラはこちらを心配そうに見つめてきたので、大丈夫と意思表示するつもりで力強く彼女に頷いた。
「やってくれましたね。勇者イヴの堕落は犠牲者の数以上に人類連合軍にとって大打撃でしょうね」
「もう勇者イヴごっこはおしまいよ。そんなくだらない使命に従事するより、私は私が思うがままに生きるわ。己の抱く欲情のままに動くのはとっても素敵よ」
その感覚には理解は示せるけれど同意は致しかねるな。その辺りはイヴに任せてしまうか。
……そう言えば、わたしは目の前の彼女の名前すら知らないんだったな。この軍は誰もが彼女を勇者とか勇者イヴと呼んでいたけれど、本当に彼女は名前すらイヴなんだろうか? 勇者イヴである事を止めたなら、本来の彼女に戻ったと考えるべきだろう。
「ミカルから紹介されましたが、わたしはマリアです。どうも昔は勇者イヴと共に人類圏を救ったらしいですよ」
「? どうしたの突然に?」
「わたしは勇者イヴじゃあない貴女自身を知らないので」
「ああ、なるほど。私は、そうね……」
彼女は考え込むようにしてわたしから視線を逸らす。どうして自己紹介に思考を巡らせる必要があったのかはさっぱり分からなかったものの、やがて彼女は先ほどまで彩られていた色欲を無くし、自信と誇り高さに満ちた笑みで自分の名を口にした。
「私はエヴァ……そう、私の名はエヴァよ」
その自己紹介は、私は私としてここにいるんだと主張するかのように強い意志を伴っていた。
お読みくださりありがとうございました。




