国境越え③・聖女は期待を一身に背負う
久しぶりにゆっくりとした朝を迎えた。宿場町泊まりはおろか野宿すらままならない車中での仮眠ばかりだったせいで疲れがたまっていたみたいだ。気分的な問題もあってこればかりは魔法でもどうしようもない。
寝具から起き上がってゆっくりと伸びをした。宿泊費節減の為に二人部屋に四人寝るようにしたのはいいけれど、まさか寝具二人分で四人寝るなるなんて考えもしなかった。寝袋があるからわたしは床でも良かったけれど、駄目だってチラが言ってきたんだったっけ。
わたしと一緒の寝具で身体を横にするイヴはまだ小さな寝息をたてて夢の世界を旅しているようだ。チラは日が差す窓辺に向けて祈りを捧げていて、プリシラは出立の準備をしている。彼女はわたしの起床に気が付くと軽く頭を下げてきた。
「遅ようございますマリア様。既に階下では朝食の支度が整っているようですので、食べに行きませんか?」
「お、遅よう……?」
酷い言われようである。窓辺から外を伺うとまだそこまで日は昇っていない。修道女の朝は早いとは聞いているけれど、それでも決して寝坊とまで言われる程惰眠を貪ってはいなかった筈だ。
「おはようございますプリシラ。朝食は構いませんけれど、イヴはどうします?」
「日の出直後に一回お手洗いに起きてきましたけれど、二度寝するからとまた床に入られましたわ」
なんと、それはまた珍しい。公都では毎日わたしが朝食を作っている間に起きてきたけれど。昨日は飲んだ酒の量が多かったかな。それとも知らない間に疲労が蓄積していたとか? でもまあ実際二度寝は非常に気持ちがいいものだ。寝すぎると時間を潰したって軽く後悔するけれど。
何にせよここで無理やり彼女を起こして連れまわすのは気が引ける。ここはプリシラの提案に乗るとしよう。
「分かりました。ではご一緒させていただきます」
「聖女様も、そろそろ時間になりますので朝食を取りに向かいましょう」
「……あ、はい。分かりましたぁ。ちょっと待っていてくれますか?」
チラはよほど無心になって祈っていたのか、プリシラが彼女の肩に手を触れるまで全く反応を示さなかった。確か日が昇る方角に祈りを捧げるのには重要な意味があったんだっけ? その辺りの知識はとんと疎くて良く分からないな。
チラはゆっくりと立ち上がると手にしていた首飾りに口づけして首にかけ直した。祈りを捧げる姿もそうだったけれど、厳格な様子で一連の動作を行うチラからは威厳すら感じられた。普段見せる少し臆病に見える彼女からはとても想像できない在り方に思えてならない。
「お待たせしましたぁ。それじゃあ朝食を取りに行きましょう」
三人で部屋を出て廊下、階段の順で食堂まで足を運ぶ。夜は酒場だったそこでは宿泊客のみならず町人も朝食を取りに来店してくるみたいで、思っていたよりも賑やかな雰囲気になっていた。おかげで数人いる店員は目まぐるしく動き回っている。
わたし達は宿泊客専用のテーブルに付き、注文を取った。宿泊代には食事代は含まれていないけれど、ある程度の割引というかおまけをしてくれるようだ。この心遣いは小さいながらも心からありがたいと言えるだろう。
見渡すと今日も一日頑張ろうと意気込む人や黙々と食べ続ける人もいる。帝都や公都など、帝国ではありふれた町の一場面が目の前に広がっている。そう、昨日の晩餐を含めて戦災国から避難してきた人達が多く集うこの国境の町であるにも関わらず、だ。
「驚きましたわね……。故郷を追われた者は少なからず不安を抱くものですが、帝国に避難してきたキエフの人達は誰もが前向きに生きようとしているようでしたわ」
「わたしも意外でした。見知らぬ土地で全く別の生活を送っている筈なのに、みんな一生懸命になって明るく過ごしているように見えます」
「今は脅威に晒される祖国より安全な大国、ですのね。やはり帝国への避難は進めるべきとは思いますけれど、長期化すると故郷に戻ろうとする気力を失ってしまいかねませんわね」
「皇帝陛下は狙いはそれこそって気もしますけれどね……」
陛下は旧キエフ公国を占領して属州にするとか明言していたけれど、そうすれば煩わしい国境も無くなり人の往来が多少はしやすくなるだろう。旧キエフ公国の情勢が落ち着いた後で帰りたい人は戻っていけばいい。
こうして祖国を追われた人たちが笑顔を見せてくれているなら帝国の受け入れは間違っていなかったんだと思えるけれど、やはりまだ少し腑に落ちない点がある。
「それにしても、良くこうまで思い切った決断を下したものですね」
「思い切った、とはキエフの民を帝国へと避難させる措置ですの?」
「ええ。確かに旧キエフ公国は帝国と国境を接していますけれど、西側は列強国であるポラニエ王国と接していますよね。わざわざ対峙している帝国に頭を下げなくてもよかったのでは?」
同じ人類圏であっても西方諸国と帝国は長い間対立関係にある。旧キエフ公国やその北のルーシ公国群もどちらかと言えば西方諸国からの影響の方が強いだろう。特に帝国が獣人国家諸国との融和に舵を切ってからからその方向性が顕著になっているような気がする。
現に三年前の魔王軍による侵攻の際、帝国は自国の防衛に戦力を費やして西方諸国に殺戮と破壊が蔓延されるのを黙って見ている方針だったと記憶している。一年前の決戦の際は旧キエフ公国に大軍を派遣しけれど、戦争終結と同時に帝国は全ての軍を引き上げた。人類国家の義務だけを果たした感じでしかないのだ。
なのに隣国だからって何故旧キエフ公国はわざわざ帝国を頼る?
「人々を救うにはそれしかなかった、としか言いようがありませんわ!」
純粋な疑問を述べただけだったのだが、プリシラは怒りを滲ませてテーブルを激しく叩いた。食堂にいた誰もが驚きながらプリシラの方へと顔を向ける。テーブルを囲っているのは聖女とその付き人なのもあって、もはや注目の的だ。
プリシラの憤りはそれでも収まらず、チラは周囲に申し訳なさそうに周りに頭を下げているものの失望の色が現れていた。
「神だの救済だの正義だので大義名分を掲げておきながら神の像と肖である人々に慈悲を与えないなど……っ!」
「……ポラニエ、マジャル、神聖帝国からは避難民を受け入れる余裕は無い、と門前払いされたんです。しかも援軍の要請も断られてしまって……もう当てが無かった、が正直な所なんですぅ」
チラが言うには西方諸国は未だ魔王軍による爪痕が深く残っており、特に民百姓の疲弊と経済の崩壊が深刻らしい。魔王軍に真っ先に蹂躙された旧キエフ公国や旧ルーシ公国群はほぼ壊滅状態で、未だ公国としての体を取り戻せずに暫定的に人類連合軍の占領下にある始末だそうだ。
人類圏国家で最大の激戦区となったのは帝国を除けば東方人類国家の西に位置するポラニエ王国、ダキア北西部のマジャル王国、そして西方最大国家の一つである神聖帝国だろうか。これらの国々はかろうじて魔王軍の本格的侵攻を阻んだ代わりに人材、資材、資金、土地など多くの犠牲を払ってしまい、未だ疲弊から回復出来ていないんだとか。
旧キエフ公国の避難民が自力で辿り着けてかつ受け入れてもらえるだけの国力を有する国と限定すると、選択肢は限られてくる。辺境国に押しかければ迷惑どころか害虫のごとく資源を食い荒らしかねないから。その上で西方諸国の列強が突っぱねたとなれば、自ずと候補は限られてくるわけか。
「もはや帝国が教会より異端とされていようが人々を救うためには帝国の力に頼る他無かったのです。皇帝が代替わりした帝国は獣人国家と手を取り合いかつての隆盛を取り戻し、魔王軍の侵攻も独力で食い止めていましたし」
「幸いにも今の帝国は国教こそ定めていても宗教に寛大ですぅ。恒久的な移住も視野に入れて問題は無いと思うんですが……」
「異端共に縋るとは遺憾だ、などと批難の声明が至る所から出ているようですけれど……知った事ではありませんわね」
「わ、私……綺麗事ばかり言っているのは好きじゃあありません」
どうやらその辺りが二人の本音らしい。何の手も打ってこないばかりか突き放してきた癖に世迷言ばかり口にする西方諸国、ひいてはその宗教観だけを重視して現実を蔑にする教会に対してそれぞれ憤りと失望を露わにしているのか。
チラは食べ終えた皿をテーブルの端に寄せ、辺りを見渡した。声を落として会話を続けていたからか、食堂の客達はわたし達に注目しなくなり談笑を再開している。
「こうして実際に帝国に避難してきた人達が生き生きして笑っている姿を見ていると、この決断は正解だったんだなぁって思いますぅ」
「……ええ。やはりこの皆が生きる世界で人らしい生活を送れるようでなければなりませんわ」
チラは胸をなで下ろして安堵を、プリシラも満足げに笑みを浮かべた。二人の信念、そしてそれに基づく行動が今食堂にある光景に結びついているなら、立派や偉大で片づけられる陳腐な功績ではない。人を救う偉業と言っても差し支えないだろう。
チラは祈るように手を組んで、決意を新たに強く手を握った。
「け、けれどまだ始まったばかりです。一刻も早くキエフ公都まで戻って本格的に行動に移さないと。まだ多くの人達が魔王軍に苦しめられていますから」
「ですわね」
聖女の瞳には強い意志が宿っていて、彼女が目指す前の方を見つめていた。
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「さあ、それじゃあ行きましょうか」
「……イヴ、それどうしたんですか?」
朝食を取り終えて部屋に戻ると、イヴが既に起床していて出迎えてくれた。それ自体は別にどうと言う事は無いけれど、問題なのはイヴの格好だろう。この一週間、彼女は量産品の装備一式と市民服に身を包んだいかにも冒険者って姿格好だった。
なのに、どうして今はドレスと宝飾で着飾っているんだろうか?
さすがに舞踏会に出るほど豪華なものではなく貴族のご令嬢が普段着るようなものだろう。軽く化粧をしているのかいつもよりの大人びて見える。素体が美人なのもあって、見麗しい令嬢または若い貴婦人にしか見えない。最も、勇者として鍛えた身体付きを隠すよう少し厚手のドレスを選んでいるようだが。
けれど今まで不測の事態に対処できるよう武装していたのに、どうして今に限ってなんだ? 公都にいる間も一切そんなお姫様らしいドレスを纏わなかったのに。というか荷物が二つあったのは、このドレス一式を入れる為か?
わたしの疑問をよそにイヴは何か悪巧み……もとい、素敵な面白い事を思い浮かべたのか、微笑を浮かべるばかりだった。
「ちょっと興を添えようかと」
思わずプリシラと顔を見合わせたものの、彼女も苦笑いを浮かべて肩をすくめるばかりだった。
いよいよ出発の時になった。驚いた事にまだ日が昇り始めてあまり時間が無いにも関わらずに多くの人が見送りの為に道に出てきていた。
「聖女様ー! 俺達の故郷をどうかよろしく頼みますー!」
「どうかお気をつけてー! 俺達の力が必要だったらいつでも駆けつけますからー!」
「あ、ありがとうございますぅ! 私……一生懸命頑張りますからー!」
こんな感じの声援が左右から挙がり、チラは感無量で涙を流しながらも手を振ってみんなの声援に一生懸命答えていた。ちなみにそんなわけなので、関所までの間はチラが馬車の外で立った状態で、わたしは馬車の中でイヴと面する下座に座って呆然と元気な聖女を眺めるばかりだったりする。
「ある程度食料は馬車の中に詰め込んでおいたから、行く先々で食料を調達する手間は要らないわ」
「つまり、途中で休憩を挟む以外は進みっぱなしも可能って事ですか」
馬車の中は布袋に詰め込まれた食料が山積みされていて、馬車の中は圧迫されて狭く、しかも非常に見苦しいと断じていい。
けれどキエフの人々が帝国に避難してくる中で食料を分けてくれ、なんて言える筈もない。金があったって現地調達はなるべく控えた方がいいだろう。早々都合よく食材になる野生動物が現れるとも限らないし、現地調達に初めから頼るのは悪手だろう。
少しの間馬車を走らせるとやがて関所までたどり着いた。厳重に警備された関所はキエフより入国してくる人達の波で溢れており、非常に忙しそうに役人が動き回っていた。この様子では出国手続きは昼過ぎまでかかるかしれないな。
「プリシラ。帝国への入国の際はどれぐらい時間を要したんですか?」
「特使として参りましたけれど、それでも諸手続きや確認を済ませるのに半日は要しましたわね」
「西方諸国の象徴たる聖女がいてもそれぐらいってなると……」
「勇者様が昨日のうちに諸手続きの申請をしてくださったので、少し早くなると思いますが……」
役人に誘導されて馬車を一旦停める。役人は馬車から降りるよう身振りを加えつつこちらに声をかけてくるので立ち上がろうとしたら、イヴに肩を掴まれて無理矢理座ったままにされた。また、イヴは顔を横に振ってプリシラやチラにも降りるなと伝える。
「どうしたんですかイヴ。早く降りないと不審者扱いされて最悪拘束されてしまいます」
「こう言う時、利用できるものは利用しないと損でしょうよ」
役人は自分の命令通りに動かないわたし達に業を煮やしたのか、武器の槍を構えながら大股でこちらの方へと歩いてくる。チラが狼狽えるもののプリシラは彼女の肩に手を添えて大丈夫だと断言し、わたしもまた何もせずにイヴを見つめるばかりだった。
そして役人は乱暴に馬車の扉の取っ手に手をかけて……。
「おい、降りろと言ったのが聞こえ――」
「お勤めご苦労。けれど貴方はもう少し身分の上の者に対する礼儀を弁えるべきね」
――扉を開け放った瞬間、役人が手にしていた武器は切り飛ばされていた。イヴが瞬時に闇の剣を出現させて一閃させたのだと理解するのには少しの時間を要した。何せ武器が両断された結果だけしか目に移らずに、イヴは優雅に鎮座したままにしか見えなかったからだ。
彼女は何事も無かったかのように手荷物から取り出した書面を指で弾き、役人の方へと放った。武器を破壊されて少しの間呆ける役人は、慌ててその紙を拾い上げる。苛立ち紛れにその書面に目を通していく役人の顔が見る見るうちに青ざめていくのが分かった。
「貴方の上の者とは昨日のうちに話を済ませています。さあ、早く確認の上でここを通しなさい」
「し、しばらくお待ちを……!」
役人は全力疾走とも言える速度で走り去っていく。唖然とするチラに対してプリシラは呆れたように頭を軽く押さえ、わたしはようやく事態に頭が追いついてきた。
「もしかしてイヴ、身分を明かしたんですか? 自分が皇族なんだって」
「いえ、まだ勇者の生還は帝国から公式に発表されていないから、私の正体を明かす義務も義理もないわよ。それにたかが冒険者の身分で緊迫した国境を越えるなんて厳しいでしょう? だからこの旅の間、ちょっと自分を偽ろうって思ったのよ」
偽るってどんな風に、と疑問を口にしようとした所で、大慌てでこちらの方へと駆け寄ってくる者達が見えてきた。先ほどの役人と異なり豪華な鎧と飾りに身を包んでいる事から、国境警備の指揮官かそれに準じた立場の者なのだろう。
彼は馬車の横に立つと水平になったのではないかと思うほど深く頭を下げてきた。
「申し訳ございません公妃殿下! 部下の者にまで情報が至らなかった事、深くお詫びいたします!」
「いえ、例え公妃を名乗って正式な書面を持参してもなお疑ってかかる姿勢は評価できるわ。これほど職務に充実なのだから、帝国にあだなす輩は決してこの国境は通らないだろう、って安心できるもの」
「そう言っていただけるとこちらとしても大変ありがたく。公妃殿下を含めた五名の方々の出国手続きは昨日のご訪問より最優先で行い、既に終えております。すぐに門と道を開けますので少しお待ちください」
「そう、ありがとう」
公妃殿下って、もしかしてミカルか? 確かにミカルとイヴの容姿は結構良く似ているから偽ってもばれる可能性は低い。それにイヴの事だ、ただ名前を偽るばかりではなくちゃんと皇帝陛下や公爵にも正式に許可をもらっているんだろう。
勇者を死にっぱなしにしておくのは十中八九残る三名の勇者一行対策か。姉が尊厳者の地位にいる帝国ですら彼女はお尋ね者になったぐらいだ。聖女や聖騎士がイヴを罪人だと騒ぎ立てたらそれこそ西方諸国全てを敵に回しかねない。
関所の門が開かれるまでにはそう時間はかからなかった。関所の外に押し寄せてきていた旧キエフ公国の避難民も道を開けるよう左右に寄せられていた。この光景、教典に書かれる一場面が頭の中に浮かんだ。
「申し訳ございません、本来なら道中の護衛を付けてしかるべきですが……」
「キエフからの特使を乗せていて急ぐの。優秀な魔導師と弓使いが守ってくれるから大丈夫よ」
「それでは公妃殿下、どうかお気をつけて」
「ええ、ありがとう。そっちも帝国に魔の手が及ばないよう、しっかり守って頂戴」
馬車がゆっくりと走り出す。関所の外はもはや帝国領に非ず、わたし達はとうとう旧キエフ公国領に足を踏み入れた形となる。馬車の窓は開けているので左右に分かれた避難民たちがわたし達に視線を注ぎながらざわめくのがよく聞き取れる。
やがて、外に顔を出している人物が聖女チラだと気付き始めたのか、先ほどと同じように歓声が沸き上がった。誰もが聖女チラのこれまでの奉仕に感謝し、そしてこれからまた戦場の真っただ中にあるキエフへと戻る彼女へ祖国を頼む願いを口にしてきた。
「凄い人気、と言うより人望ですね……」
「教会より授かった聖女の肩書ではなく、これまで聖女様が行ってきた活動に対する評価、期待、そして希望なのでしょう。私めは己が評価されるより嬉しくてたまりませんわ」
「うう、みんなから期待を一身に集めているって思うと緊張して戻しちゃいそうですぅ……」
チラは避難民たちの想いを託されてもなお気丈に手を振って答え続けた。それは国境付近に集う避難民の波が無くなるまで続いた。




