虹の魔導師との再会
彼女、虹のマリアは三年前に最後に出会った場所にいた。変わったのは今度はわたしが学院を去る番で、お互いに少し大人になったぐらいだろうか。他はまるで当時の場面をそのまま写し取ったように再現されていた。
彼女は三年前と同じく何の表情も浮かべずにわたしの方をただ見つめてきていた。
「今日は学院の卒業式だった。マリアなら進学はしないと確信していた。ならマリアの所在は探知魔法を使わなくても分かる」
「……わたしが聞きたいのは『どうやって』じゃない、『どうして』なんだけれど?」
マリアほど卓越した魔導の腕の持ち主なら、わたしの居場所を見つけ出す方法なんて吐いて捨てるほどあるだろうから、別段疑問には値しない。それよりわたしが知りたいのは、わざわざ卒業式の日にわたしの前に現れた理由だ。
「まさか三年ぶりに再会してでも世間話をしたくなったわけではないんでしょう?」
「無駄な会話が無いのはわたしも助かる」
それはどうも。こちらとしてもマリアとおしゃべりに華を咲かせるほど仲がいいわけではなかったから、早急に本題に入ってもらうのが一番だ。
ああ、勿論学院を去ってからのマリアの旅路が気にならないと言えば嘘になる。魔物の軍勢を退けてとある国を救った、長くを生きる竜を倒して失われた伝説の武器を手にした、失われた古代の魔法を再発見したなど、学院でもよく憶測されていたのを覚えている。
彼女は勇者との旅路の後、帝国最高峰の研究機関に籍を置く栄誉を得た。そんな魔導師にとって最高の環境を手放してまで行方知れずとなった経緯も知りたかった。事魔導の探求をするにあたり帝国最高峰の研究機関の右に出る存在も場所もなく、マリアの願いを叶える最短の道だった筈なのに。万が一その場所すらマリアにとって満足いかなかったとしても、属してからすぐに失望する程度の組織では決してない筈だ。
疑問は尽きないし問いただしたい件は山のようにある。しかしそれを口にはしない。彼女とは住む場所が違いすぎるから、マリアと深く関わらない方が賢明だとわたしの理性が警鐘を鳴らすのだ。
とはいえ、無碍にするほど彼女が嫌いでもない。短時間の話に付き合う程度には同級生として同じ時を過ごした顔見知りなのだから、少しぐらい付き合う分にはいいだろう。
「それで、わたしに何か用かしら?」
「単刀直入に言う。マリアにはこれを受け取って欲しい」
彼女は腰にかけた袋から一冊の本を取り出し、わたしへと差し出した。それは手垢で紙が黒ずんでいないからあまり読み込まれてはいないのだろう。けれど相当の年季を重ねているようで、少し黄色だかに変色している。
だが一番気にかかったのはそれではない。その本には背表紙にも表紙にも著者名や題名はおろか、一文字すら記されていないのだ。わたしにはそれがただ丁寧に製本されただけの筆記帳にも見えてしまう。
「これ、何? わたしこれから故郷に帰るんだけど。そんなかさばる物なんて……」
「それは魔導書。わたしが勇者との旅路の果てに手に入れた、とても大切な書物」
「ま、魔導書?」
魔導書。それは魔法の術式や行使するために必要な契約とか、いわば魔導師にとっての教本と言っていい。少し学べば誰でも出来るようになる初等魔法なら大きめの本屋でも普通に売っているぐらいには出回っている。最も、それでも一般市民が二か月働いて得る賃金とほぼ同じぐらいの値がした筈だが。
魔導師と呼ばれる者のみに扱える中級魔法を記した魔導書にもなると、一般市民はまず目にしないで一生を終えるだろう。むしろ魔導師とはいえたかが一学生に過ぎないわたしも中級に目を通すのがせいぜいと言っていい。個人所持するのは貴族や大商人と言った、所謂金持ちだけだろう。
世界の理をも覆しかねない上位魔法にもなると、国が管理するほどの重要書物になる。閲覧できる者もごく少数、それも魔導師として帝国に多大な貢献をした者のみ。個人所有ともなれば広大な帝国と言えど片手で数えられる筈だ。
なお、わたしを始め、学院の門をくぐった者達は全員教本として各属性の初等本を必ず買わされる。お金がない人は借金も可、である。わたしは何とかやりくりして返済し終えたからいいものを、学院を卒業してもなお払えきれずに借金に追われる魔導師もいるという話も聞く。
要するに、魔導書とはそれだけ貴重な書物だという事だ。それをわたしに?
「これを預かっておけばいいの? それとも貸してくれる? まさか譲ってくれる筈ないよね?」
「預かっていてほしい。その間自由に読んでくれて構わない」
「……いつまで? 期限が過ぎたらマリアに返しに行かなきゃならないの?」
「特に期限は設けない。わたしが返してと言う時まででいい」
なんと気前のいい事だ。閲覧可能だったら内容の要点を筆記帳に書き記すなり暗記するなりして自分の知識に出来る。しかも無期限だったらそこまで勉学が得意でもないわたしでも十分に習得できるはずだ。実践できるかはさておき。
問題は、その恩恵を被るわたしに求める対価、か。まさかこんな都合のいい話が無条件の筈が無いだろうし、何らかの意図があってなんだろう。ここで何も聞かずに喜んで受け取ってしまい、後からとんでもない目に合うのは御免だ。
「それで、わたしに何を望むの?」
「ない。強いて言えばその魔導書をマリアが所持する事こそがわたしの望み」
途端に雲行きが怪しくなってきたものだ。まさかこの魔導書、とてつもない価値があると同時に災いが降りかかる代物とか? まさかこれを所持したが最後、わたしの平穏は失われて始終追われる立場になるとか、または天使だか悪魔だかと契約を結ぶ羽目になるとかか?
とりあえずこの本、分厚く何百頁もありそうな大きさは鈍器になって人を殴れそうなぐらい立派に製本されている。紙自体は羊皮紙か。結構上質なものを使っていて、頁をめくるとさわり心地がいい。と、言うかこの本、もしかしてこの肌触りといい製本の具合といい、まさか……。
「これ、人の皮で出来てるんじゃあ……?」
「分からない。けれどわたしもそう判断している」
驚いて本を危うくとり落としそうになるわたしを見てもマリアの表情は崩れない。なんて物騒で悪趣味なんだろうか。皮をなめしての製本にも魔導としての意味合いがあるから決して嗜好だけでは無い筈だろうけれど、それにしたってこれはない。
にしても、マリアがわたしにこれを所持させてでも成し遂げたい願いが全く見えてこない。あまりに情報が少なすぎて仮説に仮説を積み上げていくしかない。おそらく手がかりはこの本自体にあるのだろうけれど、中身を見たが最後、マリアの依頼を断れなくなってしまうだろう。
触らぬ神に祟りなし、とは言うが、純粋にこの魔導書の知識をこの目にしたい欲求も覚える。断ってこの場での出来事を忘れてしまえばついさっきまでわたしが思い描いていた今後に至るのだろう。
けれど、これまで魔導師として学びこれから歩もうとするわたしにとって、これは正に僥倖と言ってもいいだろう。わたしとは今後も無縁だっただろう先人の知識がこの本には記されている。それを知りたいと思うのは決して不思議でもない筈だ。
「……分かった。ならこの本はわたしが預かっておくから」
「そう、それはよかった」
一見するとマリアの表情は変わらなかったが、明らかに彼女は安堵したようだった。理由は不明、わたしには計り知れない事情がこのやりとりにはあるのだろう。この選択が何をわたしにもたらすかは、起きてみなければ分からないか。
「この本、今この場で少し目を通してもいい?」
「構わない。貴女にはその本がどういった書物かを知ってもらう必要がある」
それなら遠慮なく。折角意を決して引き受けたのだからこの欲求のままに。さて、中身はどんな事が……あれ?
「……白紙?」
めくってもめくっても本には一文字も記されていない空白が続く。終いには頁をさっと流してみたが、結局最初から最後まで綺麗なままだった。
これはあまりに酷い、と口に出そうになって思い留まる。ただの分厚い筆記帳を魔導書と偽ってわたしに渡す利点がどこにもない。マリアがそのようなくだらない冗談の為に時間を割くとも考えられないし、一見白紙のこれには何かしらの仕掛けがあると思った方がいいだろう。
魔法は知識、探究は魔導師の足跡。ならそれを他の者には広めないで己の財産として秘匿する場合も少なくない。その場合、他の者に己の技術が暴かれないよう工夫を凝らすものだ。魔導書が簡単に読めないよう暗号化したり、このように無意味な代物を装ったり、と。
だったらどうやったらこれは読めるようになる? 本と契約を結ぶ? 魔法を唱える? それとも火で炙ったり水に浸けたりと一定の手順が必要なのか? わたしに謎の解明をさせるために魔導書を渡してきたならなんて意地の悪いと思うだろうが、マリアに限ってそれは無いだろう。
「読み解くのも骨が折れそうね。時間がある時にでも解明を――」
「それは無理。凡百の魔導師がどれだけ時間を重ねても成し遂げられない。何故ならそれは……」
――それは本物の冥府の魔導書だから。マリアは確かにそう述べた。
一瞬、本当に一瞬だけ、彼女がその本を見る目つきが鋭くなった。瞬きしている間に普段の様子に戻ってしまったから、見間違いだったのではと錯覚するぐらいに。
「冥、府?」
「そう、偽書はこれまで何冊か世に出回っていたけれど、それは間違いなく本物」
自分でも本を持つ手が震えるのが分かる。それを虚言だと笑い飛ばせたらどれだけ気が楽だっただろうか。だが目の前のマリアがそれを許さなかった。
冥府、それは自然の力を宿す四属性のどれでもない、死を司る神秘。四属性では出来ないような奇跡、生を奪い死を覆す、正に神に背く所業すら可能とする。確か人類史上にも何名か冥府を司る魔導師が出てきたものの、その数は本当に少なかった筈だ。
原因は魔導書自体が全く出回っておらず、口承ですら伝わっていないほどの隠匿性にある。たまに表世界に現れる場合もどこかしらが間違っている偽書がもたらす情報ばかりで、その本質が姿を見せた事はやはり指を折る程度でしかない。
そして、最大の要因はその冥府の魔導の仕組みは、何故かほとんどの魔導師が理解できないのだ。難解どころの話ではなく、選ばれし者にしか使えないのだろう。神の御業は神の子に、悪魔の所業は悪魔の申し子に、と言った所か。
「本物と偽られたただの筆記帳の可能性は?」
「その本から感じる印象を受けてもなおそう口にするのなら、それを返してほしい」
故に、と言ったらおかしいが、冥府の魔導書には贋作も多いと聞く。多分理解できないのをいい事に好き勝手でっち上げるのだろう。これだって本としては豪華にして如何にも本物らしく誤魔化しているだけという線も十分考えられる。
けれど、それは違うとこの本自身が語りかけてくる。雰囲気と言えばいいのか迷うが、この書物は他のそれ、例えば料理本や小説など、とは一線を画すモノを感じるのだ。わたしが思い浮かべる疑惑を悉く粉砕するほどのものが、これには刻まれている。
「何故、これをわたしに?」
「それは聞かないでほしい。全てが終わったらマリアにも事情が分かる筈だから、それまで我慢して」
つまり今は事情を話せないわけか。それを含めての依頼なのだろうから文句は言えないだろう。
これほどの代物を預かるのは大役と言って過言ではなく興奮もするが、同時に少し冷めてもくる。だってどう転んだって選ばれし者のみ手にする魔導などわたしには無関係だろう。魔導師にとって喉から手が出る逸品だろうがわたしには荷物がかさばるだけの重りでしかない。
「……やっぱり断ってもいい? これから故郷に帰るつもりだから余計な荷物は増やしたくないし」
ただでさえ初等本やなけなしのお金をはたいて買った唯一の中級魔導書で荷物が重くなってるのに、これ以上入れたらわたしが持ちきれない。ただの落書き帳として使ってもいいならまだ分かるが、本として扱うならここを去るわたしではなく、他の者に頼むべきだろう。
ところがマリアはわたしの拒絶にも気分を害さず、わたしから魔導書を取るとページをめくっていく。そしてある所で陶器のように白い指を止めると、そのままこちらへと見せる形に広げたままわたしへと突きつけてきた。
「その言葉はこれを見た後に述べてほしい」
「……へ?」
わたしがめくった時は確かに全てが白紙だった筈だ。けれどマリアが広げてきた頁にははっきりと文字らしき文様が確かに綴られていた。
それは学院での授業でも紹介だけはされた冥府の初等魔法の説明書きだろうか。授業では概要程度しか教わらずに肝心の理論は全く取り上げられなかったが、それには結局分からずじまいだった冥府の魔導の理論から魔法の術式まで丁寧に説明書きされていた。
ただし、記されている文字は慣れ親しんだ帝国標準語ではなく、かつて魔導の力で文明を築き上げた旧共和国語、つまり魔導世界の共通語でもない。わたしは座学はそこそこの成績だったから、決してわたしが無知なせいではなく、ここに書かれている言語らしき図形がわたしが一度も目にしたことのないものなのだ。
それでも書かれている内容は分かる。知識としてではなく、日常で使ってるかのように当たり前にその言葉が頭に浮かんでくるのだ。肝心の魔導の内容までは理解が足りていないけれど、おそらく読み取れるきっかけさえあればいつかは理解出来ると思われる。
「これで理解出来た筈。これが本物の冥府の魔導書だと」
ああ、確かにマリアの言うとおりこれは本物なのだろう。だがわたしにとってそれは確かに重要ではあるが最優先事項ではない。
どうしてわたしは冥府の理を理解できる?
「一端でもこれが理解できる。それがわたしが貴女を選んだ理由」
目の前の彼女はわたしが冥府の魔導を手に取れると分かっていたのか? そもそもどうやってそれを見つけ出した? 疑問だけが沸くばかりで答えは一向に見えてきそうにない。
「じゃあ後はよろしく」
そんなわたしを突き放すようにマリアは踵を返してこの場を立ち去ろうとする。それはわたしに言いたい事を言うなり立ち去っていた三年前とほぼ同じと言ってよかった。あの時はさしてマリアには興味なかったからそのまま見送ったが、今回は違う。
「待ってマリア! 最後に一つだけ教えてほしい……!」
「……どうかしたのマリア。お互いに用件は済ませたのだから手短に済ませてほしい」
わたしは思わず彼女の名を叫んでいた。彼女もまた顔だけこちらに向けてわたしの名を呼ぶ。何の因果かわたし達は同じ名前になっているけれどその在り方はまるで異なる。背丈は同じ、顔立ちや体格はまあ似てなくもない、なのにどうしてこうも本質が違うのか。
鏡を逆さにすれば丁度わたし達の関係になるんだろうか?
問いただしたい事は山ほどあったが、ああ言ってしまったからには一つしか疑問を晴らせないだろう。ならばわたしが訊ねるべきは……。
「マリアは、結局勇者を裏切ったの?」
このやりとりでもマリアの思惑でもなく、三年前の決意がもたらした結果だろう。それ如何で今回の出来事が今後どのような結果をもたらすかの参考になる筈だ。最悪、わたしの犠牲の上にマリアの選択があるかもしれないのだから。
マリアはわたしの質問が意外だったらしく、わずかに目を見開く。しかしすぐに元の無表情に戻ると、その深い色を湛えた瞳でわたしを見据えてくる。
「裏切るも何も、わたしは初めから勇者と志を共にはしていない」
彼女の言葉は酷く淡白、それでいて彼女らしいと自然と納得してしまう返答だった。勇者を陥れたのがマリアだろうと他の誰だろうと、それすら起こっていなかろうと、どんな真相にせよ彼女はそう答えただろう。
だが、彼女は「けれど」と付け加えてわたしに返してきた冥府の魔導書を指さしてくる。
「このやりとりはわたしが選択した結果によるもの。それだけは覚えておいてほしい」
その言葉を最後に去っていくマリアに投げかける言葉もこれ以上なく、今度こそわたしは三年前の焼き増しのように彼女を見送った。
あの時と違うのは、この手にした魔導書だけだった。