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復讐された白魔導師が望むのは平穏  作者: 福留しゅん
復讐対象外の零人目と本人
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普段通りの筈だった朝

「おはよう」


 朝、目が覚めてから真っ先に耳にした言葉はそれだった。寝ぼけた頭を無理矢理に覚醒させて声の方に顔を向けると、マリアが窓辺でわたしの本を読んでいた。どうやら今日は晴れているらしく、窓から差し込む日光に照らされるマリアが絵画に描かれた一場面に思えた。

 どうやらわたしは自分の部屋で寝ていたようで、いつの間にか寝巻に着替えている。下着はそのままだから後で軽く体を拭いて履き替えないと。


 確か昨日は……危機一髪の場面からかろうじて逃げきれた所で記憶が途切れている。その後どうやってここに戻って眠りについたかは一切覚えていないけれど、誰かが寝かせてくれたんだろうか? 後でイヴに聞いてみるか。

 で、今問題なのはわたしの経緯でもマリアが勝手にわたしの部屋にあがってわたしの本を読みふけっている点でもない。そしてマリアの容姿や装備がわたしに酷似している件でもない。


 わたしがマリアなら、目の前のマリアは何者だ?


「おはようマリア。一つ聞きたいんだけれど、いいかな?」

「わたしはマリアでマリアはわたし。けれどわたしはマリアになれないし、マリアはわたしに戻れない」


 わたしが質問を口にする前にマリアはわたしが聞きたかった回答を提示してきた。こちらに視線を向けずに本へと落としたまま。わたしの目の前にいるのは落ち着き払った学院時代からいつも目にしていたマリアだった。

 回りくどい言い回しだったが意味は何となく分かる。わたし達は同一人物ではあるけれど、わたしは過去には戻れないし、マリアの未来は閉ざされている。


「じゃあわたしが目にしているマリアは誰なの?」

「イヴの復讐、マインドクラッシュとマインドオーバーライドの効果で『虹のマリア』は完全に抹消されたとイヴは思っているようだけれど、その二つには穴があった。その結果がマリアが見ているわたし」

「……ごめん、もうちょっと詳しく説明して」


 マリアは本を閉じると丁寧にわたしの机の上に置く。そしてわたしの方を静かに見据えてきた。なるほど、マリアを自分だと意識して見ていて分かった。あまりマリアを自分と思えなかったのは鏡で見る自分と違っているからか。


「イヴの復讐は『虹のマリア』の完全否定。探求こそ本懐、とイヴはわたしを勘違いしていたようだから、マリアは魔導師だけれど魔導師らしくない考え方になるようにと上書きされた。つまりイヴにとってマリアはわたしへの当てつけ」


 それがマインドオーバーライドとやらの効果なんだろう。記憶と人格の改竄、それは相手を完全に否定する所業。自分がこれまでの自分自身を拒絶するのだから、確かにある意味死よりも重い罰と言える。恐ろしくなる魔導だがイヴにとってマリアはそこまでしたくなるほど憎い相手になっていたのだろう。

 けれど短時間ではあるがわたしはわたしとしてイヴと共の時間を過ごしている。気さくに語り合っているし、客観的に見ても打ち解けていると思う。イヴはわたし、つまりマリアの成れの果てを影で嘲笑っている様子も見られない。

 要するに、イヴにとってはマリアは既に過去の人で、わたしはわたしでマリアではないのだろう。そんなわたしもマリアの両親、つまりわたしの親の蘇生をイヴに阻まれて灰にされたと聞いても実感が全く湧かない。この辺りを含めてイヴの魔導の効果なんだろうけれど、不思議と怨みは抱かなかった。


「同時にイヴは『虹のマリア』の抹消も目論んだ。けれど脳を損傷させて物理的に記憶を消し飛ばすとマリアとしての生活に支障をきたす。だから『虹のマリア』の知識と経験を決して思い出せないように忘却させた」


 それがマインドクラッシュとやらの効果なのだろう。頭を強く打って過去を忘れたり人格が変貌するとは過去の事例でも判明しており、そこから頭部の脳が人を人たらしめる重要な器官なのだろうと結論に至っている。イヴが用いた手段もマリアの言う当てつけの為だろう。


「そこは分かったけれど、じゃあどうしてわたしはマリアとこうして話し合えているの? それがマリアの言った抜け穴のせい?」

「そう。マリアがわたしを否定してわたしを思い出せない効果は戦いに敗れたわたしには阻めなかった。だから、マリアがマリアとしてわたしを認識出来るようにした」

「……ちょっと待って。整理する」


 えっと、あー、何となく分かってきた。

 イヴの復讐はわたしがわたしとして生きて、わたしが今後マリアとしてのわたしを思い出せなくするものだ。わたしがいくらマリアを赤の他人だと思い込んで避けようともマリアが完全に殺されたわけではない。そこに抜け道があったのか。

 つまり、わたしがマリアをわたしとしてではなく全くの別人として認識出来るようになればイヴの魔導の効果は及ばない。最も、完全にマリアとしての経験を思い出せないわたしがどうやってマリアを捉えられるようにしたかは想像も出来ないが。


「それじゃあ、例えば今のわたしはマリアとしての過去を客観的に振り返っている感じなの?」

「そう。昨日の墓地でのやりとりも、第三者が一部始終を見ていたら単に過去を思い出していただけ。ただマリアはイヴの復讐のせいでわたしの経験をマリアの過去だって認識出来ない」


 今のやりとりも自問自答に他ならないのか。イヴが今この部屋を訪れたらベッドの上でただ静かに上半身を起こして窓辺を眺めているだけのわたしを目撃するのかな? これまでマリアがいた場面の整合性を取ろうとしたらわたしって非常に危ない人になってしまうんじゃないかな、ひょっとして。

 大筋のからくりはこれで理解できたけれど、まだ腑に落ちない点がいくつかある。


「マリアが虹って称号を得たのは四属性全てで優秀な成績を収めたからの筈だけれど、わたしが水属性以外てんで駄目なんだけど。ひょっとしてこれもイヴのせい?」

「そう、イヴの仕業。せっかくマリアがわたしでなくなっても全く別のきっかけで探求を目指さないとは限らない。わたしだって実際は水属性を最も得意としていて、火属性は苦手だった。結局虹の称号は過大評価」


 意外な事実だなそれは。わたしから見たらマリアは何でもそつなくこなせていた印象だけれど。わたしが把握していないだけでマリアは陰で血のにじむ努力をしていたんだろうか?


「じゃあ、イヴと一緒に旅をしていた一年前以前の学院でのわたしの記憶は?」

「わたしにも分からない。わたしが在籍していた一年間とマリアが過ごした残り一年間、それから周りからの情報からのつじつま合わせだと考えている。その証拠に、マリアはその間平凡な毎日を送っていた筈」


 確かに言われてみたらその期間は特筆するような話もなく日々を過ごしていた気がする。その間の色々な思い出はマリアとしての体験や他の人からの情報を元にわたしが混乱をきたさないよう、頭の中で自然に捏造されていったものか?

 いや、それが事実ならマリアとして過ごしてきたわたしが突如学院に戻ってきたってなる。なのに何の違和感もなく平穏だったと感じるのはどうもおかしい気がする。事実を誤魔化す為にもっと別のからくりがあったようにしか思えないけれど……復讐を受けた後の顛末をマリアに確かめても分からないだろう。


「最後に一つ、いい?」

「どうぞ」


 これ以上マリアから聞く必要はない。後の疑問はそのうち晴らしていけばいいし、いつまでもマリアと二人きりでいるわけにもいかないだろう。今日も色々とやらなければいけない事が大盛りだし、そろそろ活動を開始していかないと。

 けれど、これだけは確認しておきたい。マリアと話している内にそんな想いが段々と強くなってきた。不思議なものだ。三年前はマリアを遠い他人にしか思えなかった。昨日は最も近しい存在になっていた。そして今は……。


「マリアとわたしの関係は……ずっとこのまま?」


 それでも、マリアはやはりマリアだ。今でも親しみは湧いているし最も身近な存在ではあるけれど、わたし自身じゃあない。だから、今後わたしはマリアを自分だと受け入れてしまうのか、それともマリアがわたしの前から姿を消してしまうのか、それが心配でならなかった。

 わたしがマリアにこのままでいてほしいと思うのは我儘なんだろうか?


「イヴの復讐の効果は解除不可能。わたしの対抗策も一度発動してしまえば永久にこのまま。だからわたし達は魔導の観点ではずっとこのまま」

「そうじゃなくて……!」

「わたしもマリアもお互いを別人と認識したままになる。間柄が続くかはこれからの付き合い次第」


 マリアは椅子から立ち上がり、ベッドのそばまで来るとこちらに手を差し伸べてきた。わたしはマリアの手を取って立ち上がる。彼女の手は日差しにいたためなのかとても温かい。とてもこれを頭の中で自己完結させている錯覚とは思えない。


「わたしは、今の関係を好ましく思っている」

「……わたしも」


 わたし達は自然と抱擁し合った。

 マリアの呼吸が、鼓動が聞こえる。

 マリアの温もりを感じる。


 わたしはここでようやく今のマリアを形容する言葉を思い浮かんだ。知人ではない、友人でもないし、恋人のわけもない。マリアと愛では結びつかないし、けれど親友と呼ぶ以上にわたしはマリアを身近に思えている。けれどわたし自身とも思えない。


 そう、マリアは家族だ。三年前に失って、一年前に取り戻し損ねた家族が……ここにも一人いたんだ。


 涙が止まらない。きっと鏡を使えば酷い顔をした自分を拝めるだろう。

 この数日で色々な事があった。

 わたしが今まで持っていた常識も過去もわたし自身も全部、全部嘘だった、めちゃくちゃにされた。

 それでもわたしは、そしてマリアはここにいて、今を生きている。


「これからもよろしく、マリア」

「ええ、よろしくねマリア」


 お互い決して『自分』だとは決して呼び合わない。

 奇妙で、けれどとても深い関係がここにはあった。



 ■■■



 軽く体を拭いてから着替える。西の公都は水には比較的恵まれている土地だけれど、あいにく風呂を焚く為に必要な薪と労力が惜しいのでその程度に済ませた。そう言えば西の公都には大規模な公衆浴場があった筈だ。確か中央区のどこかにあった筈だから、今度行ってみるのもいいかもしれない。


 居間に足を運ぶと意外な人物が優雅に紅茶を口にしていた。あまりにも自然体なものだからお客様どころか自室でくつろいでいる貴婦人を見ているような錯覚さえ覚える。つい昨日も顔を合わせた彼女はわたしに気付いて柔らかな微笑みをこちらに向けてきた。


「お邪魔してるわよ、マリア」

「……どうしてイゼベルさんがここにいるんですか?」


 イゼベルは皿のトーストを口に運び入れる。買った覚えが無い銘柄のようなのでおそらく彼女が持参してここで焼いたのだろう。小皿に盛ったサラダといいヨーグルトといい、完璧な朝食風景がそこにはあった。ここ、わたしの家だよね?

 柱時計の指す時刻はまだ協会の始業時間にはなっていない。けれどここを今すぐ出発して出勤、仕事の準備に取り掛かるとしたら時間的余裕はもはや無いに等しい。協会支部長って御大層な肩書があるのにこんな所で優雅な朝を満喫していていいものだろうか?


「そう心配する必要はないわよ。今日の午前中はここへの訪問が仕事になっているから」

「そうやってアタルヤさんに事務仕事を押し付けてきたんですね分かります」

「頭がいなくても動いてくれる組織というのは優秀ではなくて?」


 一理あるけれどここの協会に通っていた時期はこの人と一度も顔を合わせた記憶が無い。正直彼女が真面目に仕事をしているかは怪しい。ここは無言を返答とさせていただこう。


 イゼベルの向かいではイヴが朝食を取っていた。腕を振るわせながらも自分でフォークを持ってサラダを口に運んでいて、順調に四肢が馴染んでいるのがうかがえる。さすがにまだ指を思い通りに動かせないようで、フォークは鷲掴みしているけれど。

 ……彼女には言いたい事も聞きたい事も山ほどある。実感はやはりないが、彼女はわたしの両親を奪ったのだから。けれどイヴの弁ではお互い様だそうだし、今の彼女は過去のいきさつは精算されたものとしてわたしをマリアではなくわたしとして接してくれている。ここでわたしがマリアに関して蒸し返すのは何か違うように思える。


 あえてイヴを意識しないように努めながらわたしはイゼベルへと呆れた仕草を取った。


「協会支部長ほどの忙しい方がまだ学院を卒業して魔導師に成りたてのわたしを訪問ですか」

「あら、確か今日じゃなかった? だからわざわざお祝いに駆け付けたのだけれど」

「今日? 何が?」

「何がって、開店が」


 開店……開店って、開業魔導師としてのわたしのお店の!

 いけない、正直な話すっかり忘れていた。ここ数日あまりにも衝撃的な事が続いたもので、頭の中から吹っ飛んでいたようだ。準備は整えているから後はわたしがお店の鍵を開けて来訪してくれるお客さんを待っていればいいと思う。

 お店が開けばわたしのささやかな夢は達成される。公都に来てからのわたしはカインやイゼベルの依頼で動いて色々と目まぐるしい時を過ごしていた。けれど本格的に開業魔導師としての新生活が始まればこれ以上変な依頼に携わらなくてもいい。元々異変解決なんて柄ではなかったのだから、後はわたしはわたしなりの平凡な道を歩んで、そちらの方は優秀な人たちに任せておけばいいだろう。


 なのに、頭をちらつくのはミカルの顔だった。

 今後二度と帰ってこないマリアを待ち続ける公爵夫人。彼女が死者の都の母になってしまったのはマリアの、わたしのせいなのだろう。わたしがマリアなんだったら、彼女を救済する義務がある……のだけれど、そんな事はどうでもいい。義務とか義理とかじゃあないのだ。

 わたしはミカルを助けたいだけだ。眠りから無理矢理覚まされたのになおもただ一人で悪夢をずっと見続ける彼女を。ただその想いのみでも動機としては十分だ。

 そう、イヴに手を差し伸べたように。


「イゼベルさん、その前に――」

「そんな深刻な顔して迫らないでよ。朝食取りながら落ち着いて話し合いましょう」

「……。そうですね」


 切り出そうとした直後に腰を折られた。どうやらわたしは相当険しい顔をしていたようだ。確かにイゼベルの言った通り重苦しい雰囲気の中で語り合ったって建設的な内容にはきっとならないだろう。ここは彼女の提案通りに朝食を取りながらにしよう。


 わたしの朝食は簡単で、パンと紅茶で終わりだ。朝から何も口にしないのは論外だが腹に物をいっぱい詰める気にもなれない。要は昼食まで空腹にならなければいいのだ。パンは昨日いい匂いをさせていたお店の品になる。今度は炊き立てを買ってみようかな。

 パンを半分食べ終えた所で紅茶を一口入れる。わたしの方を見つめていたイゼベルの視線はやはりどこか温かみがあった。


「さてマリア、昨日はお疲れさま。まさか冥府への境界を開くなんて思っていなかったから、慌てて空間を漂う貴女達を回収したのよ」

「あー、道理で。助けていただいてどうもありがとうございました」


 わたし達がここに戻ってこれたのは彼女のおかげだったか。確かにアダムから逃げるために空間を割ったのはいいけれど、出口を作る前に力尽きたんだよね。もしかしたら寝巻に着替えさせたのも彼女、もしくは彼女の手となり働く誰かだろうか?

 それにしても、とイゼベルはつぶやくと表情を若干曇らせた。先ほどまでの優雅さ、悪く言えば楽観的な面持ちは成りを潜め、重い空気を纏い始める。


「レイアに大方の事情は聴きました。色々と大変だったみたいね」

「……その一言だけで片付けられない多くの事がありました」

「犠牲になった二人は残念だったわね。冥福を祈るとしましょう」

「……っ」


 アモスとダニエルは、殺された。死亡は確認できていないから断言は難しいけれど、噴火のような炎の柱で焼かれたり首を飛ばされて生きていられる人間はいないだろう。今回はたまたま彼らが犠牲になっただけで、もしかしたら首が飛んでいたのはわたしだったかもしれない。

 一夜明けても鮮明に思い出せる。アモスの首が胴体から離れていく日常では決してありえぬ光景を。ついさっきまで会話をしていた相手が、あんなにいとも簡単に命を落とすなんて……。死と隣り合わせの過酷な依頼だったとは重々承知していた筈なのに。

 けれど、今は仲間を失った衝撃よりももっとわたしの感情を占めている事柄がある。


 ――アダム、イヴが倒した筈の魔王を名乗った者。


「それで、二人を殺した相手はどんなだったの? レイアの話だと途中で二手に別れて、マリア達の方が遭遇した相手らしいんだけれど」

「……ロトから説明は受けていませんか?」

「夜遅かったから帰ってもらったわ。彼、結構疲労困憊みたいだったから」


 それもそうか。ロトは昨晩の冒険の立役者と言って過言ではないだろう。様々な所で行く道、そして逃げ道を切り開いてくれた。傷こそあまり受けていなかったけれど集中力と体力を振り絞ってもらったのだから。


 魔王アダム、端正な顔立ちをした好青年はおそらく誰もが好印象を覚えるだろう。外見や落ち着いて柔らかい物腰とは裏腹に恐ろしいまでに卓越した剣捌きと魔導を担う相手だ。わたしが逆立ちしたって敵う存在ではない。

 彼の話をイヴがいる今この場で彼の話をしていいものか迷うなぁ。しかし遅かれ早かれ死者の都に彼がいる事実はイヴの耳に入るだろう。手足を動かすだけで精一杯な今のイヴが無茶な使命感に駆られなければいいのだけれど……。


「彼は、ま――」


 言葉が止まった。いや、意図的に止めた。

 いつの間にかわたしの視界に移る居間の隅にマリアがいて、深刻な面持ちでわたしを見つめてきている。彼女の瑞々しい唇が動く。「気を付けて」、と。


 さっきまでいなかったのにどうして今になってわたしに注意を促す? 考えろ。マリアは過去にイヴと共に旅をしていたマリアとしてのわたしなんだ。過去のマリアが今のわたしに何かを伝えたい真実こそ今のマリアだ。今わたしはイゼベルにアダムについて打ち明けようとしていたけれど、これが問題だって言いたいのか?

 ふと、先ほど懸念を抱いたイヴの方を見る。完全に我関せずのようで、優雅に黙々と朝食を味わっていた。丁度トーストを食べ終えたのか、唇に付いたパン切れを指で拭う仕草が妙に色気がある。今後も茨の道を突き進んでいくだろう彼女には、せめて重傷になっている今ぐらいは平穏なひと時を過ごしてほしいものだけれど。

 とは言ってもロトと口裏を合わせて秘密にする理由もない以上、彼から真相は語られるだろう。わたしにはアダムの打倒が極めて難しい以上、事実を明らかにする他ないのだ。


「彼は、自分を魔王アダムだと――」


 ハッキリ言っておこう、今この瞬間の生死を分けたのは正にマリアの警告のおかげだったと。


 わたしの分かる範囲で一瞬の出来事を整理すると、わたしがその存在の名前を口にした直後、イヴがフォークを掴むとわたしの喉めがけて突き出してきたのだ。テーブルを間に挟んでいたのが功を奏して、イヴがテーブルに乗り上がる挙動が加わった分攻撃が遅れたため、とっさに脇に置いておいた杖で迫りくるフォークを防御出来たのだ。

 イヴの顔は憤怒と憎悪に満ち溢れており、先ほどの温和な様子はどこにも見られない。こんな表情を向けられるのはわたしが覚えている限りでは二度目か。あの時と違ってまあまあ良好な関係を築いてきた今となっては、鋭利な負の感情をぶつけられるとこちらの胸が痛くなってくる。


「おまえが、その名前を口にするな」


 それよりどうしてイヴはこんなに我を忘れているんだ? わたしは単に自称魔王が現れましたと口にしただけ。勇者が倒すべき魔王を打ち漏らしてましたと明かしてわたしが襲われる理由なんてどこにも無い筈だ。


 そう、少なくともイヴとアダムが勇者と魔王という戦う宿命にあるだけの間柄だったなら。


 アダムはマリアとは長い間一緒だったとか言っていた。わたしではなくマリアが一緒だったならおそらくイヴ、つまり勇者一行ともそんな関係だった筈だ。打倒すべき魔王と親密になれる訳もないから、もしかしてアダム個人として接触していたのか?

 なら、もしかしてマリア達がしたイヴへの裏切りは今の一言に集約される……そんな気がした。

お読みくださりありがとうございました。

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