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学院からの卒業


 ――話は数日前までさかのぼる。


 国立魔導学院。それは魔法を担い導く者の集う、帝国最高の機関だ。学院に固有名詞は無い。それは他に代わる存在なし、故に固有名詞は要らず、と言った自負があるからだ。他にも国立の魔導学院はあるけれど、一番長い歴史を持つ学院こそが帝国の頂点に君臨する。その認識は自他共に確かなもので、学院と言えばそれだけでここだと通じるほどだった。

 そのため、魔法を探求する者、魔導師を目指すならまずここを目標とする。入学は難しいけれど卒業するのもまた厳しく、多くの者が挫折し、志半ばで立ち去っていく。逆に学院を卒業する者は帝国の要職に就いたり大貴族の庇護のもとで研究をする等、国にとっても重要な人材として扱われる。

 その為、学院には帝国全土から優秀な人材が集まる。それは親が魔導師や大貴族または大商人の子息だったり、偶然才能を手にした一般市民、中にははるか遠くからやって来た村人など多岐にわたる。帝国の国土も広いから人種にも違いがあるけれど特に差別はない。社会的には差別が蔓延していようが魔導師にとっての正義は『ただ優れているか』であり、そこに出生や人種の入り込む余地は無い。


 春になったその日は学院の卒業式、魔導師のひな鳥達が巣立つ日だった。来た時は雲を掴むような感覚だったけれど、まさか自分が主役になる日が来るとは実は思っていなかった。いつもただ退屈なだけだった式典もいざ自分の番になると全く違うように感じたのは我ながら興味深かった。

 既に式典を終えたわたしが足を運んだのは二年間所属していた研究室。手には卒業証書の入った黒い筒、着ているのは儀礼の時にしか袖を通さない高価な礼服。正直、いつもの服装と大分違うので違和感しかない。


「卒業おめでとう」

「ありがとうございます」


 研究室に入ってすぐに声をかけてくれたのはわたしが属していた研究室の教授、アンナだった。この人は今こそ後進の育成のために教鞭を振っているけれど、昔は帝国宮廷魔導師を務める程の方だった。どうして国の要職に務めていたのに、と聞いた事があるが、後進の育成に精を出したかったかららしい。

 教授はわたしが入室するを確認すると手にしていた筆を置き、本にしおりを挟むと席から立ち上がり、わたしを迎えてくれた。


「まさかあなたが卒業できるとはねー。やろうと思えばやれるもんだねえ」

「卒業するだけならわたしにだって出来ますよ」


 もっとも凄く苦労しましたけどね、と続けようと思って止めた。わたしが迎えた落第の危機の数々を詳細に振り返ってしまうと半日以上はかかってしまう。最後ぐらい見栄を張っても罰は当たらないと思いたい。

 教授がわたしに座るように促したのでわたしはテーブル前のソファーに座った。有名な工房で制作されたこのソファーは柔らかくて座り心地がよく、いつも羨ましがったものだ。教授もテーブルを挟んで反対側のソファーにゆっくりと腰を落ち着かせる。


「あー、ちょっと、彼女に紅茶と菓子持ってきてやってくれないか?」

「教授、それでしたらわたしが用意を……」

「今日の主役はあなた。そこで座ってなさい」


 教授は紅茶を持ってくるよう助手に命じる。わたしは慌てて立ち上がろうとするも教授が手で制する。

 助手の方々は学院を卒業してもなお学院に残る先輩方だ。本来、学院生のわたし達がそこそこの雑務も担当し、教授や助手たちの研究を手助けする立場。いつもと違う扱いには戸惑いしか覚えなかった。けれど教授もこう言って下さっているし、今日ぐらいはお言葉に甘えよう。


「砂糖何杯だったっけ? マリアはミルク要らないんだったな確か」

「砂糖は一杯、ミルクは要りません、紅茶の風味がなくなってしまうので」


 ミルクを入れていた頃もあったけれど、紅茶っぽくない気がして止めたのだ。南国の飲み物だと言われて口にしたこーひーとやらはミルクが無いと辛かったっけ。


「研究室に置いている茶葉は安物ばかりだよ。ミルク入れようがレモン入れようが結局茶なんて口寂しさを紛らわす程度でしかないし、あまり変わりやしないさ」

「わたしの数少ないこだわりですから」


 やがてわたし達の前に紅茶カップが置かれた。安物と言われた紅茶の風味が座っているわたしの鼻をくすぐる。教授は一口つけるとカップから手を離して、少し砂糖を付け足した。


「それでどうだった、ここの学院生活は?」

「どうと言われても、大変だったとしか言えませんよ」

「大変で済むなら十分だろう。田舎娘が夢を見て何とか学院に入学できたけれど、現実に打ちのめされて消えました、なんて珍しくもない」

「確かに、同い年の何人か田舎に帰りましたっけ」


 教授の仰ることは誇張でも何でもないただの真実。田舎で少し優秀だろうと、帝国中から才能溢れる人材が集結する学院からすれば掃いて捨てるほどいる生徒その1に過ぎないのだ。井の中の蛙が学院で全く通用せずに夢半ばで敗れていくのも当たり前のように繰り返されてきた。


「別に。単に故郷から激励を受けているのに、恥だけかいて帰りたくなかっただけです」

「そう自分を卑下するんじゃないさ。全課程を終業してここを巣立つあなたは、間違いなく学院の魔導師なんだから」


 どうだか。学業も技能も片手間で済ませて残った時間を自由に謳歌する人達がこの学院には多かったから。わたしももう少し優秀だったらもっと他の奉仕活動や自己啓発に手を回せたのだろうか? 思い返すだけで自分の不甲斐なさにため息がもれてしまう。


「学院の魔導師なんて名乗って恥ずかしい成績しか残せなかったのが問題なんですって」

「あー、学年総合成績は下から二番目だったっけ」


 随分とはっきり仰ってくれる。これでもみんなから遅れないように必死になって知識を頭に叩き込んだ結果だ。落第する事なく低空飛行を維持できたのだから、わたしなりにはこの結果には満足している。誇れるほどの偉業ではないけど、馬鹿にされる謂れもない。


「気にするんじゃないよ。学院での成績なんて履歴書を飾るぐらいしか能なんてないね」

「それを……いえ、教授がそれでいいのならいいんですけど」


 くっくと面白おかしそうに笑う教授。けれどこの事実はわたしにはとても笑えない。

 わたしが最下位すれすれでわたし自身が笑われるのはいい。それがわたしの至らなさが招いた結果なんだから、甘んじて受け入れよう。けれど、わたしの成績が悪かった為にそんな学生を輩出してしまった研究室、そして教授まで評価を下げられるのは嫌だった。

 酷い教師など落ちこぼれを排出させるのは恥、とまで公言しているぐらいだ。けれどアンナ教授はさっきみたいに言ってくれる。それは嬉しくもあり、だからこそ申し訳なさも痛烈に感じてしまう。


 そんなわたしの想いをよそに、「そう言えば」と教授は続ける。


「折角ここまで頑張ったんだからまだここにいたってよかったんじゃないかい?」


 それはこの先の修士課程、更なる学を修める道、だったか。

 確かに学院は設備も書物も充実しているから、半端な研究室に属するよりはるかに効率的だろう。進学条件も軽いテストと教授の推薦が必要なぐらいだから、わたしでも行こうと思えば行けたと思う。授業料も帝国に奉仕する代わりに免除してもらえる制度もあるらしいし。

 けれど、わたしは最初から進学するという選択肢を外していた。理由は簡単、これ以上ここに残ってもあらゆる面で自分を伸ばせないという確信があったからだ。それはわたしが学院に収まらないからじゃなく、わたしがもう限界なんだ。


「これ以上はわたしには厳しいです。ここまで来るのが精一杯だったので」

「んー、あたしはマリアなら次も何とかなるんじゃないかって思ってたんだけれどね。ま、もう決めたんじゃあ仕方がないか」


 どこをどう評価してそうなったのかは分からないけど、教授が仰るのだから、もしかしたら自分でも分からないわたしの可能性があったのかもしれない。それでもわたしはもう学院を離れると決意したんだ。

 それに、こんなわたしに真摯に向き合ってくれた教授から離れたくはなかったけれど、これ以上この人に迷惑もかけられない。


 いつの間にか紅茶はカップの中から無くなっていた。ポットも置かれていたので自分でカップにつぎ足す。砂糖は……教授の方か。なら今度は何も入れずに飲むか。


「学院を出たら帝国の機関にも属さないし大貴族の庇護にも入らない、完全に無所属になるって?」

「無所属ではなくて独立、です。故郷に戻ろうかなって」


 学院の卒業生は学院に修士として残るか、帝国の機関や研究室に属するか、貴族や大商人のお抱えになる等の進路を取る。学院は帝国の最高機関であり、その卒業生は優秀な人材であると保証されているも同然なのだ。

 けれどわたしは故郷に戻って地元に貢献する道を選んだ。これ以上わたしがどこぞの研究室に属して最先端の魔導の探究に携わろうと力にはなれないだろうし、要職に付いても帝国の役に立つ人材足りるとも思えない。

 わたしでは最先端の分野は力不足だろう。それが自己評価だった。


「教授もご存じでしょう、地方は魔導師どころか魔法使いも少なくて、回復魔法さえ使えればそれなりに重宝されるって」

「ああ、大体地方に下っても貴族のお抱えになるのが多いからね。町住民が魔導の恩恵を受けられるのはあまり聞かないな」


 これは己の叡智、技術の結晶である魔導を安売りしたくないという思惑が広がっているためだ。普通の手間暇では叶えられない事柄でも魔導ならすぐに解決できる場合も多く、魔導師も己の研究費用を得るために報酬を吹っかける場合が多くなりがちだった。

 自然と魔導師の顧客は贅沢な資金を持つ貴族や大富豪に限られ、一般市民が魔導の恩恵を受ける機会は限られているのが現状だろう。


「だから、開業魔導師にでもなって、生活の支えになれればと」

「あー成程」


 魔法が使える人はそこまで多くないけれど、そこそこ存在するとも言い換えられる。魔法が少し使えれば魔法使いとして冒険者の援護をしたり貴族に雇われたりと、より富と名声を得られる選択肢がすぐに生まれてくる。だから町医者の延長とする地域に根差して人々の役に立つ魔法使い、そんな酔狂な存在はあまりいないと言ってよかった。

 逆を言えば、魔導師なら一般市民として普通に暮らす分には不自由しない程度には簡単に稼げる。悠々自適な暮らしが約束されているようなものだ。

 とまあ俗物的な動機もあるけれど、単にわたしは学んだ魔導を普段の生活に生かしたかっただけだ。色々と近所の人達の助けになれれば、とはいつも考えていた。その為にわたしは在学中に開業魔導師としての勉強も重ね、開業資格も無事に取得できたのだ。


 それでも教授は眉をひそめてわたしを見つめてくる。よほどわたしが心配なのだろう。


「でもさ、地元戻ってからあれこれ準備するのかい?」

「その辺りは学院の支援制度があったので利用させてもらいました」


 学院は卒業していく魔導師達の将来を援助する様々な支援制度がある。大抵は貴族や研究機関への斡旋になるが、たまにわたしのような気まぐれを起こす魔導師がいるらしい。人外魔境に引きこもって単独で魔導の研究に勤しみたい者や、人々の生活の支えとなりたい開業魔導師への援助も行われている。

 わたしが利用したのは地元に一番近い魔導を司る協会への根回しと、手ごろな物件の紹介だ。もう既に段取りは済ませていて、後はわたしが現地に到着して最低限の雑貨を揃えれば新生活を開始できる。


「そんな物好き用の制度まであったのか、この学院……」


 それは教える立場の人が言うべき感想じゃないと思います。アンナ教授。


「でも、学院卒って看板があっても経済的支援者もいないマリアじゃあ立ち上げから厳しいんじゃないかしら?」

「地元ですからどうとでもなりますよ」


 何だったら実家に戻って魔導師と家業の二足わらじになってもいい。そこに拘りはない。最も最近卒業の為の研究で忙しくて連絡が取れていないから、家業が傾いていなければ、の話だけれど。

 わたしはただ朝普通に起きて街の人と語り合って、夜は賑やかな街で少し飲んだり遊んだりして、普通に寝る。それぐらいが丁度いいと思っている。朝昼晩全てを魔導の探求に費やしてしまうとすぐに駄目になってしまいそうだから。


「だとしたら、回復魔法を主軸にやっていくのね」

「ですね。回復魔法だけは人並みに出来ますから」

「貴女は他の腕が微妙だったものね。まともに開業魔導師するんならそれしかないか」


 うぐ、それは言わないお約束だ。確かに他の魔法の実技試験ではいつも赤点すれすれだった。けれど、それは逆を言えば出来なくもないんだけどな、と負け惜しみを思っておく。


「それなら得意分野の水属性を重点的に伸ばしていく方向になるのかしら?」

「ん、まあ、そうなりますね」


 魔法と一口に言っても属性によって扱える現象は全く異なる。魔導は世界が四つの元素で成り立つと考えられて理論が構築されている。はるか極東は五つらしいけど、分別が違うだけで中身は同じだろう。


 地属性は大地に干渉して、壁や洞窟等の土木建築から錬金術、土の活性まで。

 水属性は流体に干渉して、雨や川の流れを変えたり人の身体の流れを整える回復魔法まで。

 風属性は大気に干渉して、風を動かしたり雷を生じさせたり。

 火属性は炎だけではなく凍らせる方、つまり熱全般を扱うものとなっている。


 中にはこのどれにも当てはまらない特別な属性、そもそも属性を持たない無属性魔法もあるらしいが、わたしには使えないので割愛しておこう。

 努力すれば四属性全てを習得できるけれど、やはり才能が優劣を決定づけてしまう。わたしの場合は水属性がそれなりに優秀、地と風は平均よりかなり下、火属性はお世辞にも出来るとは言い難かった。学院での実技試験はお情けで合格最低点にしてもらったぐらいだ。

 魔導師には得手不得手があるのは最初から割り切っていたけれど、こうまで才能なしだったのは正直凹むしかなかった。最も、魔法が使えるだけでも十分才能があると言えなくもないので、この際不満を言うのは贅沢だと自分を納得させてしまおう。


 テーブルの上に置かれた菓子に手を伸ばす。客に出すような高級なものではなく、これも研究の傍らで何となく口に入れられるような安物だ。それでも今日が最後だと思うといつもより美味しく感じられた。


「ま、気が変わったらあたしに連絡くれればそれなりの所を紹介してあげられるよ」

「ありがとうございます。その気持ちだけ受け取っておきます」


 なるべくそんな機会が訪れない事を願いたい。学生時代は散々教授に迷惑をかけた身だ。独り立ちするんだから、出来るだけ自分の力だけで何とかしていきたいものだ。


「それでは教授、わたしはこれで失礼致します」

「あ、ちょっと待った。最後に一つだけ聞きたかったんだった」


 席を立とうとしたわたしを教授は手で制してきた。上げていた腰を再びソファーに降ろす。はて、この期に及んで改まって一体何なんだろうか?


「虹のマリア、についてどう思う?」


 意外な名前が教授の口から飛び出してきた。もうその名は今後耳に入れないだろうと思っていたのに。それもこの人から聞く事になるとは。


「どうも何も、わたしと彼女とは接点がありません。ただ同じ年に入学した同級生に過ぎません」

「そうだったな。あたしもあんたとマリアが会話している場面を見た覚えがない」


 教授は低学年の授業も受け持っていたから、わたしとマリアが関わっていなかったのは十分分かっていた筈だけれど。それにしたってどうして彼女の話題を出してきたんだろう? もう彼女が旅立ってから三年も経つのに。


「その話題のきっかけって何です? まさか行方不明の彼女に遭遇したとか?」

「今虹のマリアが何をしているか、は把握している。だがそんな事は今重要じゃない」


 なんと、教授はマリアの居場所を知っているのか。当時、世界を救った英雄の失踪は結構な衝撃が走った覚えがある。稀代な才能を失っただの研究資金を募る名目がだのと、大いに騒がれていたな。おそらく彼女を見つけ出しただけでも多額の報酬を各所から貰えるだろう。

 なのにこの人はそんな重大な情報を口外せず、あまつさえ些事だと言ってのけた。根拠を問い質したい所だが……下手に探りを入れるのはどうも嫌な予感がする。さすがに真相の裏側に引きずり込まれる事態にはならないとは思うが、今日が最後なのだからあえて踏み込む無謀をしでかす必要もないだろう。


「彼女は四属性全てに優秀な成績を収めていたから、卒業を待たずに『虹』の称号を授かった。けれどね、彼女は別に地水火風なんざどうでもいいって思っていたんだよ」

「確かに彼女は自分の実力を誇っても驕ってもいませんでしたが……」


 しかし彼女は魔導師として探求に取り組んでいた。それも探求に打ち込む行為自体に目的を見出しているわけではなく、明確な目標をもって。彼女にとっては魔導は手段にすぎず、そして学院では叶えられないと悟ったからこそ、あの時に去っていったのだ。

 『虹』の称号を授かるほどの四属性魔法の腕でも果たせない悲願、とすれば……。


「学院でも教えられない奇蹟にすがったんだよ。虹のマリアはね」


 神の御業、悪魔の所業と呼ばれる奇蹟に活路を見出すしかない、か。


 確かにここで腐るより勇者と旅した方がまだ可能性があっただろう。マリアの事だからただ漠然と勇者の後ろを付いていくばかりではなかった筈だ。今マリアが行方不明なのもソレに関係しているかもしれないが……。


「教授、それがわたしと何の関係が? 親友の知られざる真実とかならまだ話は分かりますけれど、知り合い以上友人未満でしかなかった彼女の素顔を知った所で意味が無いんですけど」

「聞きたくなったのさ。虹のマリアについてをあんた、黒曜のマリアにね」


 黒曜、それがわたしが授かった称号だ。本来専攻した分野に絡んだり優秀な成績を収めた属性に関係した称号を授かるものだが、何故かわたしはこれになった。結局今でも由来は不明のままだ。教授に伺ってもはぐらかすだけなので、何らかの意図はある筈だが。

 虹のマリア、稀代の才女。だがわたしからすれば……。


「無駄な知識ですね。マリアの才能も悲願も全て彼女の物だ。わたしには何ら関わりがありません」

「……そうか。そうだったね。いや、馬鹿な事を聞いた」


 教授にしては随分と歯切れの悪いつぶやきだった。この人がマリアに対してどんな評価を持っていたかは定かではないが、今日中にここを去るわたしにとっては実に今更だ。


 どうやらもう話は終わったようなので、わたしは空になった皿とカップを端に寄せて立ち上がる。


「では改めて、今日までありがとうざいました」

「ああ、じゃあな。地元に帰っても達者でやりなよ。何ならここに戻ってくるのもいいさ」


 戻る、か。長く過ごしている間に学院は第二の故郷にもなっていたんだな。けれどそれに甘えてばかりもいられない。わたしは自分の意志で学院を去って故郷に戻ると決めたのだから。

 卒業式も終わって最後のあいさつも終わってしまった。教授とも学院生活とも今日でお別れになる。思えばこの学院では色々とあったけれど、わたしにとってはかけがえのない経験の連続だった。今後も知識と経験としてわたしの基礎となるだろう。


 わたしは一礼して研究室を後にする。名残惜しさが無いと言えば嘘だけれど、不思議と喪失感より逸る気持ちの方が勝っていた。これから歩みだすのはわたしが今まで経験した事のない未知の生活。一体わたしはどんな場面に遭遇するのだろう?


 わたしの心は、この晴れ渡る空のように澄み切った清々しさに満ちていた。



 ■■■



「三年ぶり。元気そうで何より」

「……マリア?」


 ――直後に彼女と再会するまでは。

お読みくださりありがとうございました。

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