プロローグ
彼女との別れは、確かそう、三年ほど前だったか。彼女、稀代の才女と謳われたマリアが魔導師を育成する学院を去ると言い出したのは。
「勇者が現れた。わたしは彼女に付いていく」
その理由は単純明快、人類を救うべく旅をする勇者一行へ同行するためだった。
勇者、それは神によって選ばれし者。手にする光の剣を一振りすれば百もの魔物をなぎ倒し、その盾はいかなる暴力も通さない等、語られる伝説を挙げればきりがないだろう。わたしも勇者を題材とした英雄譚は好きだったし、今でもたまにその類の本を読むものだ。
三年前、世界は混沌に包まれていた。炎を吐く竜、爪と牙をたてる魔獣、生者の魂を奪う死霊。平穏を脅かす魔者達が至る所に跋扈していて、安息などひと時も訪れやしなかった。
だから、伝説が再び姿を現したのだろう。光をもたらし闇を薙ぎ払う、勇者という希望が。
そんな勇者に突然マリアが同行すると言い出した時、学院中が騒然となったものだ。魔導の今後を背負えるほどの才能が惜しいと言い出す者もいれば、マリアだからこそ勇者の傍らは相応しいと称える者とで分かれていた覚えがある。
けれど、わたしにとっては別に驚く事でもなかった。いや、むしろわたしにとっては実にどうでもよかった、と言うべきだろうか?
あのマリアに嫉妬する者は少なからずいたけれど、おそらくわたしほど彼女に無関心だった人はいなかった筈だ。別に彼女が嫌いってわけじゃない。単に彼女と親しくするきっかけが無いままだっただけの話だ。
マリアが学院を去る間際、わたしは旅支度を終えて部屋を出ようとする彼女と偶然顔を合わせた。それからどういった訳か、わたしは彼女と二人きりで話す形になった。確か挨拶だけして横切ろうとした所に彼女が話しかけてきた……んだったかしら?
もう覚えていないけれど、確かわたしは適当に他の人が口にしたようなお別れの挨拶を彼女に送った筈だ。なのに彼女はいつものように表情を全く変えず、それでいてとんでもない事を口にしてきた。
「世界救済に興味はない。わたしはわたしの悲願を果たす為に為に勇者を利用する」
今でもその情景は鮮明に思い出せる。学院での彼女は模範生、才色兼備、どんな賛辞の言葉でも説明するには不十分だった。そんな姿からは想像もできない己の欲を、隠しもせずにわたしに晒してきたのだ。多くの人が冗談だと捉えると思われる一言だが、それには彼女の強い意志が宿っていた。
「だから、目的を果たせれば勇者には興味ない。世界平和とかもどうでもいい」
結局、彼女が何を思ってわたしに秘めたる願望を打ち明けて来たのかは今でも分からない。きっとどれだけ考えてもわたしがマリアを理解出来る日は来ないと思う。当時もそう考えて結局あの場での会話はあまり続かずに終わったのだった。
そんなマリア達の旅が終わったのは今から一年ほど前。それは勇者が魔物を率いて世界に混沌と厄災を振りまく首魁である魔王を打倒したからだ。
マリアは結局とか案の定とでも言えばいいのか、学院には戻らなかった。勇者一行の仲間はそれぞれ彼女らの輝かしい功績に相応しい地位と名誉を得たらしい。マリアもその例に漏れなかったけれど、ある日突然行方不明になったと噂話を聞いた。きっとマリアの事だ、立場や義務に縛られるより自分の探求に時間を費やしたかったんだろう。
そんな中で、当の勇者本人は帰ってこなかった。
魔王との戦いで既に致命傷を受けていた、解除不能な呪いを受けた、等様々な根拠もない予想、仮説が実しやかに人々の間で噂された。けれど結局勇者失踪の原因は謎のままだった。残された勇者一行は勇者の未帰還を哀しみ、勇者の帰還を待ち望んだ人々は大いに嘆いたらしい。
学院の同級生がそんな話で盛り上がっているのをふと耳に入れた時、その時まで思い返す事もなかったマリアとの一幕がふと頭に浮かんだ。
勇者の冒険、活躍は物語に、唄に、そして歴史になって今後も語られるだろう。けれど、真実はこうなのかもしれない。
――用が済んだ勇者は、邪魔だったから排除された。
それが更なる探究を求めたマリアの仕業か、他に勇者を疎んだ者がいたのか。そうだとしたらきっと、その誰かにとって勇者は不要な存在となったのだろう。
とは言ったものの、勇者が誰に裏切られようが本当に美談通りに命を賭して魔王を打倒したのか、どちらでもわたしには非常にどうでもよかった。真相を明らかにする手立てが無いのもあったが、いくら世界を救った勇者だろうとわたしにとっては所詮他人でしかない。勇者はわたしにとって仲間でも親戚でも仇でもない。そもそも勇者に会った事すらないのに関心を持てる筈が無い。
そうしてわたしはそれからも勇者やマリアとは関わりのない学院生活を送った。それはわたしが学院を卒業するまで変わりやしなかったし、これからも節点など無いに違いない。
■■■
「――あなたは、マリアかしら?」
なのに、どうしてこうなった?
「答えなさい。あなたがマリアなの?」
何故わたしは深い森の中、ついに帰って来る事はなかったその女勇者に剣を突きつけられている?
「勇者って、魔王を討ち果たした勇者?」
「そう、私が勇者と呼ばれた剣士イヴよ。とぼけているのかしら?」
わたしが治療した女剣士の正体が勇者だったのも驚きだけど、わたしをどうしてマリアと勘違いするのだろうか? 第一、万に一つもないが、例えわたしが彼女の言うとおりマリアだったとしても、共に勇者一行として旅をした仲間相手に血も凍るような冷たい目で睨んでくるのはどう考えても完全におかしい。
まさかいつぞや思い浮かべた馬鹿な憶測が本当だった? 本当にマリアか他の誰かが勇者を陥れて、地獄の底から舞い戻ったとか?
いや、真相がどうであれ、わたしはこのままマリアとして死ぬのはごめんだ。
「言っているのが虹のマリアだとしたら、わたしはマリアじゃない」
「虹のマリア? 何よそれは?」
「学院を卒業する魔導師は二つ名を与えられるんです。『虹』は全ての魔導を極めんとしていた天才、マリアに贈られた称号です」
マリアなんて名前はありふれているから、貴族や一般市民は家名を、魔導師なら与えられた二つ名をもって区別される。ただ、一般的にマリア同士が会話してもお互いマリアと呼び合う。魔導師の場合も式典などごく限られた所でしか『虹のマリア』みたいに称号と共に呼ばれはしない。
そう言えばわたしはマリアの家名も知らなかったんだな。虹の称号でしか他のマリアと区別がつけられないとは、もう少し彼女に関心を示してもよかったか?
「証拠を示せと言われるなら、後で荷物の中にある学院の卒業証書を見せます」
「では、あなたは誰なのかしら?」
誰だと言われても、わたしはマリアとは違うごく普通のありふれた魔導師だ。ゆくゆくは地元に戻って少しばかり人々に頼られるようになれればと思っている程度だし、マリアのように世界の真理を探求しつづけるほどの才能も根気もない。
それを彼女に説明する義理もないので、わたしはわたしなのだと胸を張って名乗るだけだ。
「わたしは、黒曜のマリアです」
初めまして。お読みくださりありがとうございました。