本当にあった、曖昧な奇譚
瞬くと、街灯一つない山道の脇から漏れる一筋の光を見つけた。
———もうすぐ深夜四時。
ただでさえ交通量の少ない田舎道に純粋な闇が沈殿して久しい。
その長い長い漆黒を孤独に走るのが好きだった。
イヤホンから流れる爆音の曲間に、埋もれていた呼吸が思い出したように顔を出す。
俺、息してたんだ。
そんな他愛のないことを確認できる時間が好きだった。
それなのに、今日は何かが違った。
山道に入って間も無く、闇が切り裂かれ落ち着きを失くしていることに気付く。
変わらない風景の奥底から不気味なザワメキを感じた。
遥か後方から来た車が高速で通り過ぎていく。
瞬時に遠ざかっていくハイビームを消えるまで眺める。
取り残された感覚が全身を這う。
そしてまた曲が終わり、小刻みになった呼吸が孤独を一層引き立ててくれる。
———するとまた一台、車が通り過ぎる。
珍しい。
こんな時間に複数の車がこの道を通るなんて。
そう思っていた矢先に、もう一台。
離れていくライトを訝しげに目で追うと、どうやら皆、先の方で左に折れているようだ。
はて、あそこらへんに道路などあったか。
首を傾げながら速度を上げる。
その間にも車は何台か通り過ぎ、決まって前方で左折していった。
その辺りまで辿り着くと、ちょうどまた一台。
何の標識もない横道に車体を揺らして吸い込まれていく。
イヤホンを耳から外し、好奇心だけでその後を追う。
未舗装の獣道をゆっくりと進んでいくから、案外その姿を見失わずに追うことができた。
車はすぐに止まり、同時に何かを警戒したようにライトを消した。
すると逆光に隠されていた建物がいきなり目の前に現れたのだった。
そうか、ここはあの”ヘキサゴン”だ。
昼間に近くを通る時、必ず目にする六角形の天井のない建物に勝手に名前を付けていた。
道路から横道に逸れて雑木林に紛れてそれはある。
外壁が真っ黒に染められていてどこか異様な印象を与えている。
遠い昔に朽ち果てて、とうに忘れ去られた遺跡のような趣もある。
一辺が開いていて、確か、中には砂利やら砂が盛られていた。
おそらくゴミの集積場の跡か何かだと思って素通りしていた。
が、今は天井がシートに覆われていてドアも塞がれている。
どうしてだろう。
建物全体が有無を言わせぬ拒絶感に覆われている。
「VIPか?」
漏れ出した一筋の光を頼りに近づくと、暗闇に同化した黒服が二人、立っていた。
どちらも黒人。
サングラス。
二人とも長い黒髪を後ろに束ねている。
スティービーワンダーみたい。
「そんなわけないだろ」
どちらがどちらともなく受け応える。
「おそらく、迷子だ」
そう言って二人は嘲笑を向けた。
「こんな時間に、ここで何をやっているんですか」
そう問うても完全に無視される。
岩のような体で威圧してくる。
が、こちらもハイになっていて物怖じしない。
「なんだかあやしいですね」
カマを掛けるとため息が漏れ、
「一般人はいいから帰れ」
とどちらともなく黒服が諭してきた。
「あやしいので通報しちゃうかも」
ニヤケてそう問うても、二人の表情は全く変わらない。
「お前が今から通報しても、警察が来るまでにはここはもぬけの殻だ」
「おい、相手にするな」
どちらも同時に口を開き、どちらがどう喋っているか判別できない。
何となくではあるが、どこか違うところから発声されている気がしなくもない。
———その時、中から鋭い嬌声が漏れた。
俄かに伝わる熱気。
張り詰めた緊張感。
ますます好奇心がそそられる。
「中に入れてもらうことはできないですか」
「一万」
「おい」
「いいじゃねえか、見物人が一人増えたところでバレやしねえよ」
二人のやりとりを尻目に、ジャージに裸で突っ込んでおいた緊急時の一万円を取り出し、
「じゃ、そういうことで」
と黒服たちの間を割って入った。
♠♠♠♠
「———ゴングは午前四時を予定しています。観戦後は速やかに撤収してください」
同じアナウンスが何度も声高に叫ばれる。
ゴングという言葉に、”闘技場”という言葉が頭に過る。
ヘキサゴンの天井は簡易的な膜で覆われ、場内には煙が充満していた。
中央に松明が建てられ、これでもかと得体のしれない植物がくべられていく。
乾ききっていない植物は夥しい煙を吐いた後、勢いよく火柱を立てた。
熱と煙で息苦しく、視界も判然としない。
酸っぱい匂いが鼻を衝く。
が、慣れてくると不思議と気分が高揚してきた。
会場には様々な人種があふれていた。
男と女、白人も黒人も、ガリも、信じられないデブも。
二メートルは超えている松葉杖の男や、そいつの太ももくらいの背丈しかないおばさんも。
会社帰りのようなきっちりとしたスーツで眼鏡がいるかと思えば、ボディビルダーのように膨らんだ体を見せびらかす輩や、逆さ十字に髑髏のタトゥーを首筋に入れた坊さんもいた。
また、明らかに体の一部が欠落している人々も、何かが余分な者達も。
皆、同じ場所で所狭しと体を寄せ合っていた。
入り口にスキンヘッドの眉無し少女が立っていて、手を差し出してきた。
札を渡すと、代わりにどういうわけか背丈ほどもある透明なライオットシールドを渡される。
中の人だかりは皆、身丈に合った大小様々なそれを持ち、隙間なく並んでいた。
観客が一人増えると、少しずつずれていく仕組みらしい。
それが即席のリングであると悟ったのは、中央に二人の男が立っていたからだった。
一人は上半身が裸で、既に背中から湯気が立ち上るほど体が温まっている。
松明の炎で汗ばんだ肩口が照っている。
おそらく日本人。
筋骨隆々で、低い構えを崩さない。
シュートボクシング系だろうか。
対する男は浅黒い肌の持ち主で東南アジア系の顔立ちをしていた。
小柄で、いかにも場違いな雰囲気で悠然と立っている。
チェックのシャツを肩口で結んでいるところから、右腕を失っているようだ。
そして首筋から顎、額の中腹まで火傷か何かの跡があり、右目も開かないようだった。
しかしそんな様子でも、裾の広いズボンに隠れて、緻密なフットワークを垣間見せている。
———異様な光景に眼を疑う間も無く、高く鋭いゴングが鳴らされた。
「私は戦場で右目と右腕を失いました。残された体で生き残るために、とはいってもそれは戦場ではなく、所属していた軍隊や社会からですが、足技を極限まで磨き上げました。幸い、私の近くに足に特化した格闘技を身に付けていた同僚がいたもので。死に物狂いで鍛錬して今の力を手に入れたのです」
小柄な男は華麗なステップワークの合間に足裏を天に掲げるほど高く上げて見せる。
「下手くそな日本語でよく喋る奴だ。俺は騙されないね。お前はそうやって俺の注意を足に向けさせて術中にハメようとしているんだ。その証拠に、ダサいシャツの下に隠しきれないほどの太い腕があるじゃないか」
一定の距離を保ちながらも、日本人はハイスピードでサイドステップを踏み、相手の死角へ入り込もうとしている。
「ああこれですか、これは仕方ないんですよ。戦場から帰ってきて生活する中で、片腕ですべてのことをしようとすれば、どうしたってこのくらいになってしまうものなんです。おわかりですか?」
そう言って力こぶを作って見せる。
対峙した二人はお互いに距離を詰めようとせず、しばらくは隻眼の男を中心に日本人が左回りに円を描く時間が続いた。
ギャラリーはヤジを飛ばしつつ、前へ前へと圧力をかける。
ライオットシールドがガチャガチャとぶつかり合い、気を付けないと後ろに吹き飛ばされそうになるほど犇めき合っている。
「よく喋る。それなら一つ答えてくれ。お前、”ここ”は何度目だ」
ステップを続けても息一つ乱さずに日本人は訊く。
が、片腕の男は応えない。
「いいだろう。俺から言おう。俺はここが初めてだから、お前が”前回の勝者”ということになる。教えてくれ。お前は一体、何回勝ち抜いているんだ」
「何を仰いますか! 皆さん、騙されてはいけませんよ! 私が挑戦者です! 初めてこの戦いに参加する新参者です! それなのにこの男は! ……おそろしい……おそろしいですよ———」
———言い終る前に鋭いフックが隻眼男の右頬に炸裂する。
日本人は無理に深追いせず、体制を立て直す。
そして機会を見ては何度も何度も同じような攻撃を喰らわした。
大きくはないが、着実にダメージが隻眼の右瞼に蓄積していく様子がわかる。
パンチが一発ヒットする度にギャラリーは歓声を上げ、二人を煽る。
会場は熱気で空気がますます薄くなっていく。
「死角ばかり狙って、卑怯じゃないですか!」
隻眼は左腕で大まかに右頬をガードしながらそう叫ぶ。
「バカ言え、これは”決闘”だ。相手の弱点を責めるのなんて当たり前だろう」
日本人は細かく手を出しながらも低い体勢を保ち、常にタックルのタイミングを見計らっている。
隻眼は時折、ローキックや前蹴りで距離をとるが、死角から飛んでくるフックは防ぎきれていなかった。
すでに瞼が腫れあがり、血が滲んでいる顔を顰めつつも必死で間合いを取っている印象だ。
いつの間にか結んでいたシャツの裾がほどけ、体を回転させる方向へブラブラと揺れている。
「俺は油断しない。お前は消耗させられているように見えるが、きっと何かを待っている。どこかで逆転する術を持っている。じゃないと”ここ”で勝ち残れるはずがないんだから」
「まだ言いますか。そうやってギャラリーを味方に付けて、万全の体制で決着を付けようという魂胆ですね? 私は諦めませんよ。なんせ田舎で待っている幼い4人の娘の———」
———やはり言い終る前に日本人は隻眼の男の死角から凄まじい勢いでタックルを仕掛けた。
———隻眼はそれを前傾になり食い止める。
———日本人は力任せに押し込みつつ、体を左右に揺さぶる。
———後ろに下がりつつも首相撲に持ち込み、隻眼は二、三発と膝蹴りを見舞う。
———が、圧力を抑えられず、とうとうシールドまで押し込まれてしまった。
ぶつかったシールドの持ち主は周りの何人かに支えられ、必死の形相で持ちこたえている。
そんなことはお構いなしに日本人は圧力を緩めない。
体格差を活かし強引に隻眼の身体を持ち上げたかと思うと、激しく振りかざし、自身を浴びせるように地面に叩きつけた。
首尾よくマウントポジションをとった日本人は、興奮のあまり吠えた。
それに呼応してギャラリーのそこかしこから叫び声が上がる。
隻眼は左腕で顎を抱え防御の姿勢をとるが、腹部がガラ空きで素人目から見ても半ば勝負は決したように見えた。
「なに叫んでるんですか。脳みそまで筋肉みたいに」
肩で息をしつつも隻眼はなお、挑発の声を上げた。
日本人はボディブローでガードを下ろし、機を見て何度も相手の顔を殴り続けた。
二人とも血と汗まみれ、隻眼のシャツは重く変色している。
「ギブアップ?」
しばらくすると日本人はそう訊いた。
隻眼の顔は明らかに腫れあがっていたが、二人を止めるレフェリーはどこにも存在しない。
「ギブアップ? そんなのあるわけねぇだろ。このアマちゃんが」
ガードの奥から眼光鋭く隻眼が言うと、日本人は一層激しく拳を振り下ろし始める。
威勢の良い男は仰け反るように逃げるが、日本人はがっちりと足で胴体を固めてビクともしない。
次第に隻眼は悲鳴を上げ始める。
肉が肉に打ち付けられる鈍い音が、歓声の最中に飛び続ける。
「や、やめてくれ! これ以上殴られたら左目も潰れちまう」
隻眼はやはり腫れあがった左目を庇って言う。
「何も見えなくなったら、これからどうやって生きていけって言うんだ」
そう泣き喚く。
「ギブアップ?」
すると殴る手を休め、日本人は訊いた。
「———だから、そんなのないんだって、アマちゃんが」
しかし隻眼はそう受け答え、今度は相手の顔に唾を吐きかけた。
顔を手で拭った日本人のコメカミの血管が浮き出した。
上体を起こして見下ろす肩が怒っているのが見て取れる。
一瞬、場内は静寂に包まれ、松明が爆ぜる音だけが耳に届いた。
日本人は歯を食いしばり、唸り声を上げる。
そして怒りに任せ拳を振り上げた。
———次の瞬間、前のめりになった日本人の首を隻眼の双脚が刈った。
重心を奪われた体は引き倒され、一気に体制が逆転する。
隻眼は絡めた足でそのまま相手の首を絞めにかかる。
日本人は力任せにそれを振りほどこうとするが、脚はがっちりと首に巻かれ、跳ね除けようとする体は左腕と解けたシャツの裾を使って器用に固定され振りほどけない。
日本人は隻眼の身体を殴り、掻きむしったが、次第にその拳は力を失っていった。
最後に隻眼は、蹲って失神した日本人を器用に反転させ、観衆の前に晒し、自らの勝利を認めさせた。
再び鋭く短いゴングが二度鳴らされると、日本人はどこかに運び出され、隻眼もどこかに連れていかれた。
それらを見送った観衆は各々でライオットシールドを壁に立てかけ、ほとんど一言も発せずに会場を後にしていく。
力のある者がない者の不自由を補う。
助けられた者も助けた者もそれを当然として出ていった。
松明は消され、会場は間も無く暗闇に閉ざされた。
天井を覆っていた膜が取り払われ、煙が一気に夜空に吸い込まれていく。
微かに昇る漆黒は暗闇に紛れ、曖昧になっていく。
何人かが迅速に残された痕跡の隠滅に動いていた。
そして間もなく、そこはもぬけの殻になった。
追い出されるとき、例のスキンヘッドの少女から一枚の紙きれを渡された。
そこには日時とGPS情報が、そして最後に”この紙は燃やさなければならない”と記されていた。
”ヘキサゴン”の周りにあった車は一台も残っていなかった。
まだ五時にもなっていない。
振り返って黒塗りの壁面に眼を向けるが、そこにかつての熱気を感じ取ることはできなかった。
小一時間の出来事がまるで嘘のように辺りは静まり返っている。
もう一度、扉を開ければ、戦いの名残が見つけられるかもしれない。
まだ、熱気の残り香があるだろう。
———そう思いながらも、俺は再びイヤホンを付け、走り始めた。
人権をテーマにした企画小説になります。
全編悪意はございませんので悪しからず。