176話 矛盾
焦燥とはつまりまだ希望はあるから生まれるものだ。岩の弾丸を弾き、耐えながらその瞬間をルイノルドは待っていた。焦燥とはタイムリミットが設定されたということだ。零になればそれはゲームオーバーということ。
「急げよ、馬鹿息子め」
それは、ノグニスに囚われたウィルに向けた言葉のように聞こえた。
暗い、寒い、まるで光の届かない深海に放り込まれたみたいだった。少しだけ船から放り出された時の冷たさを思い出す。ウィルが気を取り戻した時には既に体は寒さからか鈍重で、ここがどこであるかすら思い出すのが困難だった。
「さむ……」
声は出る。本当に深海ではないと確信した。というか息ができること自体そういうことだ。
暗黒に遮られた視界は足元すら確認できず、ここがノグニスの体内とは心底意外に感じていた。ウィルは歩き出す。この歩くという表現が果たして正しいかは不明だが妙な浮遊感と異なる足裏の幾分か固い反発がそう思わせた。
「どこへ行くの?」
ウィルは寒気を感じると同時に飛びのけた。浮遊感に慣れず着地に失敗し転げる。暗い空間に響いた声。聞き覚えがあった。そう記憶が叫んだ瞬間、光が、スポットライトのように場を照らした。浮かび上がる輪郭と影、次第に鮮明に映し出されるそれは、かつてのウィル自身だった。
「子どもの時の俺?」
正直なところ、そういう精神攻撃の類だと予想はできていた。それぞれに似せたゴーレムといい、妙な世界の体験とか、つまりはまどろっこしい悪巧みの一部なのだと、そう決めていた。
「どこかって? ちいっとばかし遠くてやばいところだよ」
返事を返したのはウィルではない。もう一人、これもよく知っている人物だった。
「親父……?」
そう、それは十年前のルイノルドが旅立つ前の風景だった。ノグニスの攻撃の類とは思ってはいたがこの後の別れを思うとウィルの心は物憂げになる。仮面はもちろんなくぐずるウィルに困った表情を浮かべている。
「そんじゃ、行ってくるわ。お土産楽しみにしてろよ」
ルイノルドはぐずり始めたウィルにどこか呆れたような笑い顔を浮かべて頭を撫でた。
「ったく、ニーアといいお前もぐずるんじゃねえよ」
ウィルは違和感を覚えた。そんなはずはないと自分の持つ記憶と照らし合わせる。ニーアはぐずってはいたが、自分は早く冒険の話を収穫して来いとむしろ追い出したはずだった。
「ノグニスの仕業か」
ほとほと悪趣味な奴だ記憶を捻じ曲げた映像を見せて何をしたいのか。無性にいらだった。
「違うよ」
突如冷たいトーンで否定したのは子どものウィルだった。視線はウィルを突き刺すようにして、対象を明確にお前だとしていた。
「違うって何がだよ」
我ながら相手するのも馬鹿馬鹿しくも思えたが脱出の方法がない今、ノグニスの策に乗る他ないだろうという判断だった。気づけばルイノルドは無表情で子どもの後ろに回り二人のやり取りを見続けていた。
「さあ? なんだろうね。何が違って何が正しいんだろう」
うっすらと笑みを浮かべるそれは、自分とは思えないほど冷徹で気味が悪かった。特にあの蒼い瞳がこちらを捉えているのかすら怪しいほど遠くを見ている気がした。そう後ろをみているかのようだった。
「な、なんだってんだ。めんどくせえ、早くここから出せよ!!」
無気味な感覚と不安が膨れ上がり、一刻も早くウィルはこの空間から出たかった。その焦りを愉快そうにそれは口角をさらに吊り上げる。
「君は本当に愉快だね。そして何より愚かだ。自分が何をして、いや何をさせられているかにも気づかず、調子になって殺して得意げになって」
「お前、なんなんだよ! さっきからわけのわかんねえこと言ってんじゃねえ! 俺は俺の意思でここに
来てんだよ!」
ウィルは語気を強める。自分で否定すればするほどどれを否定しているのかも怪しくなっていく。精神攻撃の類でそれらしく聞こえるだけなのだと必死で言い聞かせる。
「さて、おふざけもやめにしよう。あまり話すと君が壊れてしまうからね。ただ残念なのがまったく疑問を持っていないことだよ」
子どもはため息まじりに肩をすくめる。あまりの敵意の無さにウィルは力が抜け握りしめた拳が開く。
「なんの疑問だよ」
たまらず問う。自分自身に質問するのはどうかと思ったが、妙な含みを持たせるので気になってしまった。
「そうだね。これだけは言っておこうかな。それは、君がどうしてここにいるかだよ。この世界に、この場所に、僕の目の前にね」
その時の目線だけは、ウィル自身をしっかりと見据えているようだった。すりガラスが澄み、そのガラスにウィルを映し出していた。
「意味わかんねえよ……、ほんとに」
それは確かだった。意味不明ではあったが何かが心の奥に根付いたような感覚が芽生えた。疑問という種が根を下ろしたかのように。
まだ聞き出そうとしたところで空間に亀裂が走り始めた。光が漏れてくる。眩しさに手で影を作った。
「さて、さすがに時間切れみたい。ほら。忘れ物だよ」
影を作った右手に重さがのしかかる。
「俺の剣……」
蒼く淡く輝く剣はノグニスに取り込まれたはずのウィルの剣だった。思わずよろけてしまう。何となく重いような気がした。
「さあ、ウィル。お膳立てはここまでだよ。後はその時まで。既に結末は用意されているからね」
崩壊していく。光に包まれ子どももろとも世界が白に包まれていく。
「俺は……俺だ」
なぜそう口についたのかはわからなかった。そして蒼剣を天へと振り上げた。