166話 土の楔
来るべき瞬間が、映し出される映像だけでなく、足音が直に聞こえてきていた。ノグニスはその瞬間を身を焦がす想いで待ちかまえていた。空間に浮いた映像にはウィルが大きく映し出されていた。その表情は固く、鋭い目つきと閉じられた唇からは静かな怒りが揺れていた。
「いいぞ……私にその狂った情動をぶつけるがいい」
暗き通路から書庫エリアに踏み込むウィル達。後味の悪さかウィルに引っ張られてか誰もその巨大な書庫の空間に驚きも反応もしない。見据えていたのは恍惚な表情を一層強く浮かべる漆黒のドレスに身を包むノグニスだった。
「……お前がノグニスか」
右手に剣を従え、剣先をノグニスに向ける。ウィルの頭には会話など求めていない。そう思わせるには十分な殺気をノグニスにぶつける。むしろ効果的なのか逆なのか、その目つきにノグニスは震え上がるがその顔は恐怖などではなく喜びの表情だった。
(ねえ、ノグニスってやばい奴なの?)
ニーアは心の中でユグドラウスに問いかける。やばいと言う意味は戦いにおいての意味ではなく、その人格そのものへの疑問だった。
(あー、昔から影響されやすい子だったから、たぶんそういう本を読んだせいだろうね。ましてやずっと一人で過ごしてただろうからあれは、もうどうしようもなさそうだよ……)
さすがのユグドラウスも参った様子でどこか悪びれた言い方でもあった。つまりお手上げだ。ちょうど品定めをするかのようにノグニスが舌なめずりをしたところでニーアの背中に悪寒が走る。ある意味戦いたくはない相手だが、ウィルを見れば話し合いをするつもりは毛頭ないようで覚悟を決めるしかなかった。
「……そう。私が孤高たる母なる大地を司るノグニス。道中のアトラクションは楽しめたかな?」
演技かかった大げさな手振りを交えつつ、うっとりとした表情で頬に手を添える。白い肌がほんのりと紅い。
「ああ、むしろ助かったよ。女を相手にするのは気が引けたけど、お前の悪趣味のおかげで全力でたたきつぶせるから。だから一回だけ言う。おとなしくニーアと契約して楔を解放するか?」
「ほう? 答えは分かっているんだろう?」
その返事に静かにウィルは剣を下ろす。
「ああ、断われるのが前提だよ」
ウィルが言い切るや否や初速から全力でノグニスに突撃する。合図なしの戦闘に遅れた一同は急ぎ、後に続く。
「正直者は嫌いじゃないが……まだアトラクションは終わってないわよ」
一回の瞬きで目の前に迫り来るウィルに焦ることなく、ノグニスは両手を広げる。
「その慟哭で自らに相対せ。ゴーレムよ。鏡となれ」
ウィルの容赦ない下段からの切り上げはノグニスを完全に捉える。しかし、痛みを訴えるようなことはなく余裕の表情のまま顔面が裂けると土塊となり崩れた。ウィルの舌打ちを楽しむかのようにさらに奥にノグニスが床から顕現する。
「これが最後のアトラクション。術式"ミラージュ"」
ノグニスが唱えたミラージュという術式に反応したのか、各人の床に亀裂が入ると突出し、生き物のように襲いかかる。
「やばっ」
レインシエルは考えの浅さを呪った。この空間がノグニスの作ったものならば、その全てが彼女の武器になっていることが抜けてしまった。追いかけていたはずのウィルとの間に壁がせり出し、他の面々も誘い出されるようにそれぞれが孤立する。地面の躍動が落ち着いたかと思うと、四方が壁で閉じられ小さな空間となる。
壁はガラスのように半透明になり、レインシエルが様子を確かめると、どうやら皆同じ状況のようで、それぞれ閉じこめられたようだった。
「皆、大丈夫!?」
声は届くようで皆、無事を伝える。ウィルは後ろ姿のままだったが、どうやら無事のようで安堵した。当のノグニスはどの空間にも収まらず、壁の外で不敵な笑みを浮かべウィルを楽しげに観察していた。
破壊を試みようと壁に切りかかるが出来た傷は瞬時に埋まり、一方の壁が少し滲むように光ると、何かが迫り出してきていた。攻撃を一旦止め、レインシエルは距離を取る。隣をみればダーナスの空間も同じように何かが迫り出してきていた。それは形を成していなかったが、徐々に成形していき、土色のそれが色を持ち、程なくして完全な人型へと完成する。
「趣味悪……」
レインシエルはその人型に吐き気すら覚える。それは、鏡のように瓜二つのレインシエルが悪戯な笑顔を浮かべていた。
皆、その光景に目を疑う。顔はもちろん、体型も服装も全て同じで持っている武器も同じものだった。ウィルがようやく後ろを振り返り皆の様子を伺えば、自らと対峙していた。土塊から生まれたもう一人の自分、とすればウィルは武器を構え、目の前で形作られていく存在へ標的を変える。そして、色が足から上に上っていく。顔には血が通うように、髪は染め上げられていく。ウィルは想像を裏切られた。頭を殴りつけられるような衝撃が襲う。目眩すら覚え、吹き出した手汗が剣を落とそうと必死だ。ウィルに相対するそれは、瞼を上げ、緋色の眼をもってウィルを見据えた。
「なんで……お前が」
それは怒りでも恐怖でもない、ただの戸惑いによる動揺だった。自らの鏡と戦うと踏んでいたウィルはみてくれこそ同じの少年、だが決定的に違うはずの相手だ。
「ナルガ……」
そう口走ったのは、願望ゆえだった。自らと違う存在であると言い聞かせるために名前を呼んだ。対してナルガと呼ばれた土塊だったゴーレムは肯定するように笑みを浮かべた。
「消えろ……消えろおおおおおお!!」
それに弾かれたようにウィルは防御も考えることなく、まるで子どものように考えなしにナルガに剣を振るった。笑みを浮かべたままのナルガは声を発することなく、なんなくかわせば、空振りし、地に着いた剣を流し見て、頭を低めに落としたままのウィルの顔面に右足で蹴りを入れた。骨が鈍く、低く唸る。ウィルの顔面に引っ張られ背中が反り返る。耐えることは出来ず仰向けに地面を滑り飛んでいった。
視界が痛みの条件反射で溢れる涙で滲む。もしかしたら頭が飛んでいったのかもしれないと考えてしまうほど脳が揺れ思考が正常に動かなかった。手に握られていたはずの剣は衝撃について来れずナルガの足下に転がっていた。防衛本能が遅れながら立ち上がれとウィルを促す。ぼやけた視界はそのままだが、ナルガは既にウィルの剣を拾い上げていた。逆手に持ち振りかぶる。まずいと本能が叫ぶが体は壁を背にして立ち上がるので精一杯でそれへの対処には追いつかず。投げられた剣は剣先をウィルへと向け、風を切る音が耳横にかすめ、後ろの壁へ突き刺さった。遅れてくる頬の痛みは蹴られたものではなく、掠めた剣によるもので赤が滲んで伝っていく。最初から当てるつもりはなかったようで、ナルガは自らの剣を抜き放ち、向けた剣先で受け取れと軽く動かす。滲んだ視界をぬぐい去り、焦点をナルガへと合わせる。死を間近にしてウィルはナルガと同じく声を上げることなく、静かに突き刺さった剣を引き抜いた。
奥でそれを見つめているのはノグニスだった。その口元は心底愉快で楽しそうに上がり、とろんとした眼をウィルに向けていた。
「己を映し出すゴーレムだというのに、これはこれで趣があるものよ」
気づけば他の空間では自らとの戦いは始まっていた。飛び回るのに十分な広さの箱でそれぞれが戦う。誰もがウィルの前に立つナルガに気づいていた。同時にウィルの変化を察してはいたが、まずは目の前の敵をどうにかしなくてはならず声をかける余裕もなかった。
一方、ルイノルドはまだ動かない。彼も例外ではなく目の前に立つ人物を見据えていた。
「俺はどうなるかと思ったが、ある意味助かった」
目の前には同じく仮面を被ったルイノルドで互いに表情は読みとれないが、ルイノルドの声色にはむしろ安堵が漂っていた。ルイノルドが剣を抜けば敵も抜く。トレースするかのように、それこそ鏡のように同じ動きで距離を取りながら円を描きながら半身の状態で動く。
「さて、どこまで同じかな」
合図もなく同じタイミングで剣と剣がぶつかり合い、彼の戦いは幾分遅れて始まった。