165話 救い
「最初はもっと悲惨だったんだよ。人によっては目の前で変異……魔物化した人もいたんだ。うちの母もね。びっくりだよ。久しぶりに親孝行だーって実家に帰ったら、ちょうど変異の瞬間でさ。いつもの母の顔が黒で塗りつぶされてったの。それはそれで動画撮っちゃうのも職業柄、胸くそわるいんだけど。結果的には研究の一役買ったみたい」
また、ミッツは笑う。雨で塗れているにも係わらず、ひどく乾いた笑い声だった。ウィルは考えを改めた、あの笑いは誤魔化しなどではなく、悲惨さを少しでも和らげるための仮初めの笑いだったのだ。そうしなければ彼女の心は完全に壊れていたのだろう。ウィルを初めとしてそれに反応を返す者はいない。きっと前方の兵士もそれを乗り越えた上で戦ったのだろう。まだ生きている人のために。
「この国だけじゃない。同時多発的に世界各地で魔物化が起きた。そこはさすが我が国でさ。元々警鐘をならしてた研究者達が日本に本部を置いていたおかげで対応が他より早くて、掌返しもいいところで、もっと早く、もっと声を大にして警告していればって声もあったんだ」
港までの道のりは妙に長く感じていた。ミッツの言葉が一言一言重くのし掛かる。
その研究者の一人はミッツの父だった。母の遺体を見て人目を憚らず泣き叫ぶ父の姿。それが押し殺していたミッツの感情を爆発させた。黒く変色した腕、顔の一部、変わり果てた姿であっても母は変わらず優しい笑顔のままだった。
「すまない……一人にさせてしまった」
それは研究のために一人にしてしまった母への懺悔だった。そうならない為の研究が結果的に間に合わず、最愛の妻を亡くしたのだ。
「父さん……」
かつていがみ合っていたのは過去の話だ。皮肉にも母の死が再び家族の道を合わせたのだ。父は翌日には机気丈にも研究を再開した。母の遺体を使って。はたから見れば非情かもしれない。ただすべてを知っているミッツはそれをすべて記録し世間に公表した。危機はもう訪れていると、自分たちは大丈夫などと根拠のない自信を壊そうと、あらゆる報道媒体に出演し真実を伝えた。そのおかげか、後追いながらも世界は追従し広がる魔物化を阻止しようとまとまり始めた。ただそれは遅く、感染の有無を検知するまでに至り、各国は自らの故郷を後にすることを決定した。かつて誹謗中傷した南大陸のマナ制御塔の元へと。
「ーーーーっと遅れながらも世界はまとまったのでした、って話。で今はその逃亡劇の最中ってわけ」
雨はいつしか止み初めて一条の光が世界を照らしていた。儚い光の帯はまだ終わりではないと囁いているかのようだった。港が見えてきた。まだ多くの民衆が乗り込みを続けていた。大型の鋼鉄製の船はその上部に巨大な剣のような鋭いモニュメントがそびえていた。聞けばあれはこの国だけが間に合わせたマナを利用したレーザー装置なのだという。
先ほどの兵士達は補給した後、ウィル達を通り過ぎていく。
「俺たちは最後だ。船で話そう」
そう言う隊長の顔はウィル達にはない晴れ晴れとしたものだった。
そうだ。俺達は守ることはできたんだ。それが元人間だったとしても今、生きる人を守ったんだ。
そう自分に言い聞かせ、自らが勝ち取った成果に心のより所を見つけようと差し込む光を見上げる。
「ああ、後で」
ずいぶん通り過ぎた後だったが、ようやく口にした言葉だった。過去は変えられない。だったら今を全力で生きるのだ。そう想わせるには十分な出来事だった。
『最終シークエンス、スタート』
その無慈悲な音声が悲劇を告げるまでは、確かにそう想っていた。
『シークエンス3による変動率5%、確定率変動なし。アップデート』
何かが弾ける音がしてウィルは振り返る。先ほど少し先の約束をした隊長は首から上を弾かせ、その約束は果たせないことを唐突な死をもって告げた。つづけて陣形を組んでいた兵士も同様に黒き弾丸によって風穴と共に人形のように崩れ落ちる。倒れゆくその先に両手をこちらに掲げた魔物の一体が弾丸を射出していた。
「そんな、遠距離攻撃できる魔物がいるなんて……」
異常事態は直ぐに知れ渡り、待機していた兵士がウィル達の横をすり抜け銃弾を浴びせ始めた。
「下がれ!」
ミッツは兵士に半ば引きずられていく。それでもミッツはカメラを映像記録に切り替え回し始める。悔いがないように生きた証を残そうと。
「やめろ……」
銃弾は既に効いておらず、それどころか敵の黒い弾によって兵士は次々と倒れていく。
「やめろおおおおお!!」
ウィルは剣を乱暴に引き抜き魔物に特攻する。ニーアの唄なしでの自身のマナを蒼き煌めきに変え、蒼剣を魔物に振り抜く。確実な手応え、迸る黒き血しぶきに混じって赤が頬を濡らす。それはかつての命、鎧を切り裂くように上へ切り上げ、顔をも切り上げれば、その漆黒はまだ未成熟だったのか割れて霧散した。それでも手を上げる魔物を完全に沈黙させようと振り上げた剣をそのまま勢いで降ろす。悪夢を終わらせるために苦しみから解放するために、振り下ろした一撃はその眼前で止まってしまった。
「お兄ちゃん!!」
助けたはずの兄妹、聞き覚えのある妹の声が寸ででウィルを止めるには十分な力だった。魔物後ろで叫ぶその声が自分に向けられた声ではないと分かったのは、割れた黒から覗く顔を見たからだった。そう、初めに助けたはずの小さな兄。
「大丈夫だから……」
兄は小さく妹に声をかけた後、命を手放した。
「あ、ああ……」
目の前の悲劇に女の子は男の子に覆い被さる。男の子から漏れ出したもやが宿主を探すように今度は女の子もろともに纏まり始める。ウィルは震える剣先を上げる。
迷い、葛藤、後悔、苛立ち、悲壮、それらは甘さとなり決意を鈍らせる。女の子はもやにくるまれながらウィルに真っ直ぐな視線を向ける。
「……大丈夫だよ」
それがウィルへの、兄を殺したことへの許しなのか、これからすることへの許しなのか不明だった。だが、それでも、それを薄汚れた免罪符にしてしまえば楽だった。そうして、女の子の命を貫き、ウィルの葛藤は終わった。
「ありがとう」
せめてもの救いはその儚い感謝の言葉だった。
『全シークエンス終了、シミュレーション判定D。世界変動の可能性著しく低いと推測』
「違う未来だとしても救われたよ……」
人知れず呟いたミッツの声は届かない。
世界は灰色へと戻っていく。瓦礫だった建造物は元の高さへ、死んだ者、生きていた者、見えていた港ですら白昼夢のごとく灰色の世界へと姿を消した。
「シミュレーションということは、仮想空間だったようだ」
ルイノルドが気にするなと言いたいのかウィルの肩を叩く。
「ふざけやがって……」
ウィルがルイノルドに振り向くことはなかった。開けた道の先には最後の階層へと続き、ウィルは剣を納めることはない。
「不安定ぷね」
どこに居たのか後になって合流したプルルはルイノルドの頭の上でそう漏らした。誰も合流したことに突っ込む気力もなく、ルイノルドだけが珍しく反応した。
「だろうな」
そう言うと、進もうとしたルイノルドの足下がふらつく。一番後ろにいたためか、プルル以外に察した者はいないようだった。
「ウィルのことだけではないぷ。あんたが一番心配ぷ。その負荷はやっぱり危険ぷ」
「今更どうこう足掻くつもりないさ。自分で決めたんだから」
ルイノルドはその言葉を確かめるみたいに、一歩一歩を踏みしめる。その先に進むウィルの後ろ姿を見つめながら。