150話 目覚めの鬼
いつの間にか眠っていたニーアは重い頭を上げる。結構長い間寝ていたような気がするが、窓から差し込む日光は傾きを抑えていた。まだ昼前のようだ。
ディアヴァロ達に声をかけてみるもののの応答はない。若干むかついたものの夢の内容に気をとられそれもすぐに流した。
「オズワルト……オルリの前の名前」
普段、夢の登場人物の名前など思い出せないものだが、はっきりと覚えているしその一部始終も記憶にあった。やはり夢ではなく、過去の映像を見ていたのだと確信する。
「次の解放で、か」
オルリが最後に言った言葉を思い出す。その言葉通りならノグニスを解放できれば、またあの世界に行くのだろう。見ておかねばならない、知らなければならない。そういった使命感が不思議と心を満たしていった。同時に今やろうとしていることがどういうことなのかについても見極める必要があった。流されることが嫌いなニーアにとっては急務に近い。
ベッドから降り、空気を入れ換えようと窓に近づき、木枠のガラス窓を引き上げる。南に位置するイストエイジアは冬に近づいているはずだったが暑いとも思える風を部屋に受け入れた。
「うーん」
それでも爽やかな風だとニーアは背筋を伸ばす。ふうと背中を丸めると下にある街道に視線が止まる。
「ん……んん!?」
目を見開いて窓から体を乗り出すと、次には部屋を後にしていた。見えたのはウィルだった。それはそれで良いが、問題はその隣だった。
「誰よあれは!!」
宿の主人が振り向いた時には風だけが残りそう言い残していった少女の後ろ姿すら見えなかった。呆けたのかと首を振り主人は地元の新聞を広げ直した。
通りに出たのはいいものの、既にウィルの後ろ姿はなく、ニーアの街道を歩く夫婦や旅人はぎょっとして道の脇へ寄る。とりあえず走るニーアだったが、道行く人が恐怖の顔で道をあけていることに気づきもせず、ひた走った。
「鬼だ……街中に鬼が!」
その噂はあっという間に広がり、鬼の魔物が血眼になって獲物を探していると通報を受け警備隊までも捜索に乗り出すのはまた別のお話だ。
ちょうど露天で買い物に出ていたレインシエルは活気があった通りが静まりかえったことに気づき顔を上げる。その鋭い眼光がレインシエルを捕らえると身がすくんだ。だがそれも一瞬でその先から出てきたのはニーアだった。通りの人だかりも戸惑いながら再び活気を取り戻し行き交った。
「あ、レイ!」
ニーアに発見され、左手に持った小さな紙袋を背中に隠し、右手をあげて挨拶しようとすると、既に目の前にニーアがいた。遅れてきた風にニーアの髪が生き物のようにうねるその様は見知った顔でなければ生きることへの許しを請うだろう。
「ど、どうしたの。奇遇だね」
レインシエルはニーアのただならぬ雰囲気を感じ取っていたが、それがウィルが原因とは気づかず、むしろ今買ったものを見られたのではと気が気でなかった。暑さにも関わらず冷たい汗がこめかみを伝う。
「やっぱりレイじゃないか。で、ウィル兄見た?」
別の意味でレインシエルはどきりとする。
「み、見てないけど、どうしたの?」
じわりと紙袋が汗でにじんでいく。ニーアはその様子に気づくことは微塵もないようで言葉を続けた。
「あいつ、新しい女と一緒に歩いてた!!」
「……え?」
レインシエルの汗が急に引いていく。女はまだしも新しいとの枕詞に思考が停止した。
「だから、オルキスでもダーナスでもなくて、知らない女!」
「……なきゃ」
「え?」
「罰を与えなきゃ」
今度はニーアが震えがあがった。一瞬で素に戻ったニーアは手を引っ張られレインシエルと共にウィルという女たらしを探しにいくのだった。レインシエルの左手、無残にも握りつぶされた紙袋にニーアは気づくと察してしまったニーアは再び鬼と化す。
その日、二体目の鬼と誘拐された二人の市民との通報に、警備隊が討伐隊を組織するのはまた別のお話だ。
太陽が空の頂を登りきり、後はゆっくり降りるだけといった頃、運が良いのか悪いのか捕縛されたオルキスとダーナスは前方を走る二人の背中を追い続けていた。オルキスとダーナスはお互いに正面に回らないということで無言の合意を果たす。
そして、回り回ってオルキスのアトリエにたどり着いた鬼とその人質達。鬼の二人は爛々とした目で互いに合図し、扉を開けはなった。
「ん、いらっしゃ――――」
「ウィルは!?」「――――兄は!?」
店番をしていたのはオルキスの母、オルティだった。見知った顔だったはずだが、目があっただけで生きた事を後悔するような力にオルティは声も出せずに目線を横にずらす。
その視線の先を追うと、なんの気も知らないウィルが果実が溶け込んだ冷たいジュースを幸せそうな顔で細い筒から吸うように飲んでいた。
「お、どうしたんだ? 虫も干からびさせるような顔して。これはやらねえぞ」
ウィルはニーアとレインシエルに気づくと、ジュースを狙われていると思い、手で抱え込む。その間にもちゅーちゅーと口内を甘さで満たし続けていた。
「とりあえず、一発」
「へ? へぼあ!!」
頬にため込んだジュースが両側からの張り手で圧縮され、出口を求めたジュースがきらきらと口から旅立った。
一拍置いて、オルキスが健気にも行き場を失ったジュースを拭き取っている中、ウィルは正座させられていた。
「なんで、正座してんだ俺……じゃなくてなんだよ一体?」
「なんだはこっちの台詞よ! 私たちじゃ飽きたらず新しい女を連れ回して!」
「いや、わたしは別に……」「わ、私も達のなかに入っていいのか?」
後ろでそれぞれの捉え方をしているオルキスとダーナスは別の意味で焦っていたが、そんな様子を気にとめることは前の鬼達にはない。
「あ、新しいってなに言ってんだよ。だいたい連れてねえし、まさかオルティさんだなんて言うなよ」
突然の振りにオルティは素材を整理する手を止める。
「独身だったら考えたかもねえ」
もちろん冗談だったはずだが、オルキスは真に受けたようだ。
「ちょ、お母さん?」
オルキスはどういう顔をしていいか分からず、必死に受け入れようとしていたが、それ以上にダメージを受けている人物が階段を降りきった所で文字通り静止していた。
「キャ、キャス? ってなに真に受けてんの? あんたしかいないって。じゃなきゃ命を賭けて連れ戻すわけないじゃない」
「そ、そうだよな」
その後、別世界へと入り込んだ夫婦をオルキスは視界から苦笑いで二人を外した。
「そんなわけないでしょ? 見たんだから綺麗な白髪のす、スレンダーな女!」
「……はあ? 俺じゃねえって、仮に俺だとしても誰だよ、それ」
いい加減疲れたウィルは足を崩す。どうやら本当に見に覚えがないようだとその態度からニーアは感じ取るが、ウィル兄を見間違うはずがない自信がせめぎ合っていた。
「それは私、ぷる!!」
どうにもずっといた軟体生物のプルルが満を持して机に飛び乗った。椅子に乗っていたせいか机に隠れて今の今まで気づかなかった。
「それはない。せめて人間になってから言って」
ニーアが冷たく言い放つとプルルは身を縮こませる。結構ショックのようだった。
「あーもう、なんか気のせいってことでいいんじゃない?」
プルルの登場に気が抜けたのかレインシエルは椅子に座りくつろぎ始める。
「あ、オルティさん。私もジュース!」
二人の世界に入っていた二人もいつのまにか現実に戻っていたようでオルティはその注文にため息をつく。
「うちは喫茶店じゃないんだけどね」
とは言いつつも何故か錬成台に向かい、果実をどんどんと放り投げていく。水球にはいった果実は一瞬で形を崩し台に置いた人数分のグラスに注がれていった。
「え、そんな使い方あるんだ」
「母は普段はずぼらなので……あ、これで飲んでください」
レインシエルが錬成でできた果実のジュースが満たされたグラスを目の前に逡巡する。オルキスは慣れているのかなんのためらいもなく長細いガラス筒を吸い、ジュースが登っていった。よくよく見れば底に穴をあけた錬成用のガラス管だった。
意を決してレインシエルも吸い上げるとたちまち頬がとろけ落ちるようにだらしなくその幸せに包まれた。
いつの間にか女の話もなくなり、皆、無言で幸せを感じる味に満たされていた。
ウィルは隣で必死に背を伸ばして飲んでいるプルルに目を向けると、プルルも気づいたのかウインクで返した。