143話 帰還
心地よさは原因を変え、服が擦れる音と適度な重みにまだ寝ていたいとウィルは思った。身じろいだせいで周りが騒がしくなり、眠気は覚醒へと強制的に引き上げられ、何度目かのベッドの上での陽光に瞼を開けた。
「ウィル兄……?」
聞き慣れた呼び名に目の前の影に焦点を合わせる。のぞき込んでいた影から垂れた髪が顔に当たりくずぐったかった。
「……よお、ニーア。なんで泣いてんの?」
生暖かい一滴が数滴になり顔に当たっていた。はっとしたニーアはうずめかけた顔を上げ、顔を真っ赤にしてふんぞり返る。
「な、泣いてなんかないわよ!! 雨よ雨!」
「天井あるのに雨なんて振るかよ」
それ以上、いじるとまた寝てしまうと考えウィルは体を起こす。しばらくぶりの動きだったが、ただの寝起きように軽かった。それもそうでフォルテがそれまで動かしていたからだった。
「……なんか言うことないの?」
ふんぞり返ったまま目線だけ向け、求めるようにちらちらと瞳を揺らす。フォルテの時の記憶もあり、ただの寝起きの感覚ではあったが、ウィルは自然にそれに応えた。
「ああ……ただいま」
ウィルの言葉にニーアは瞳を止め、また大粒の涙を流す。それは雨などと誤魔化しようのない人の暖かい涙だった。ニーアは向き直り右腕を振りかぶる。心配させたからだろう、一発ぐらいもらってやる気概で来る瞬間に瞼を閉じる。
だが訪れたのは柔らかな腕にくるまわれる感覚で痛みは一切訪れなかった。
「おかえり……!」
ニーアから伝う涙の暖かさがウィルの頬を伝う。帰ってきた実感がようやく湧き確かめるようにニーアを抱き締め返す。ウィルの目尻から涙が流れた。
「ありがとな」
どれくらいそうしていただろう。咳払いと共にようやく周りを見渡す。
「いつまでやってんだ」
その声の方向に首を伸ばして伺うと、ルイノルドを初めとしてダーナス、オルキス、ティアが並んでいた。ルイノルド以外の女達は生暖かい表情とどこか恥ずかしそうな目を向けており、急激に恥ずかしくなったウィルとニーアは腕を解きニーアは直立した。
「見てんじゃねえよ、親父」
「……見せてんじゃねえよ」
ルイノルドは親父と呼ばれたことに軽く頷きウィルの頭をぽんと撫でた。
「ま、無事戻ってきたようで何よりだ。色々はなすこともあるが、俺は後にするぞ、レ、レインシエル」
ルイノルドはレインシエルの名前を噛むが、何ごともなかったようにしてベッドから離れる。ニーアは一同に戻ると奥で隠れていたレインシエルの腕を引っ張り、その背中を押した。
二人の時は止まる。ウィルの記憶が呼び起こされる。ウィルであった時の最後の記憶はレインシエルがナルガに殺された光景だった。フォルテの記憶からレインシエルが生きていたことは知ってはいたが、死んだ印象が色濃く残っていた。
喜ぶべきなのだろうが言葉にも表情にも現実が追いつかずウィルは硬直していた。対するレインシエルもそのことを思い出していた。自らの危機で呼び込んでしまったウィルの消失、それの後悔と、意識がとぎれる前に見たウィルの必死さに対する感謝と実感した心臓を鷲掴みにする気持ちに、何から言えば良いのか言葉を聞めあぐねていた。
なかなか進まない状況にニーアは気を利かせて皆を部屋から連れ出す。ダーナスとオルキスは複雑げな表情だったが、この場は仕方ないと後にした。
「行っちまったな」
とりあえず会話しようと二人だけになった部屋を見回しウィルはおどけてみせる。レインシエルは気づいていなかったのか後ろの空白に驚いたようできょろきょろと辺りを見回した。
「え? あれ? ええと」
どぎまぎするレインシエルにウィルは意外さを感じて笑ってしまった。
「ちょっと、なんで笑うの!」
不満げにレインシエルは恥ずかしげに頬を染めて睨むが、つられたのか誤魔化しか、レインシエルも笑ってしまった。
「ははっ。いや、なんか新鮮で。戻ってきたなあってさ」
ひとしきり笑い合うと、レインシエルは息を整える。笑ったおかげか胸の鼓動も落ち着いていた。
「あのさ、ええと、あ、あの時はごめんなさい! 私のせいであんなことになって」
あの時とはナルガに切られた時だとウィルは思った。その時の取り乱しようを思いだし誤魔化すように咳き込む。
「あ、ああ。いいって。結果良ければいいってね。にしてもなんで生きてんの?」
「なにそれ! 死んだらよかったの!?」
レインシエルはむくれて抗議する。言葉を間違ったとウィルはあわてて訂正する。
「ごめんごめん、あの後、どうやったか見てないからさ」
「あ、そうだっけ」
レインシエルが治療を受けている時にはウィルは既にいなかったことを思いだし、力が抜け備え付けの椅子に腰を落とした。
「自分でもびっくりしたけどね――――」
レインシエルはウィルがいなくなってからのことを話し始めた。暗い会話には終始ならなかった。それも今があるおかげだった。今がなければという仮定の話は無意識に考えることはなく。それを考えないようにレインシエルはこれまでを語るのだった。
「――――でね、それでさ、ウィルが戻ってきたらその……」
レインシエルは俯き、言おうかどうか迷った。たが今しかないと意を決して顔を上げる。
「――――あ」
意を決して言おうとした好意を告げる言葉は、ウィルの寝息で口から出ることはなかった。勢いを失ったレインシエルはため息をつく。目の前を手で遮るものの反応はなく完全に眠っているようだった。
「ウィルめ……」
恨めしそうに寝顔を眺めると布団をかけ直す。眼前に近づいたウィルの顔にレインシエルは止まる。
「いいよね……」
誰に許しを得たいわけではないが、あえて許可を求めた。当然、許可するのは自分だけで、ゆっくりと優しく唇を合わせた。
「本当にありがとう」
レインシエルは頬を赤らめて言うと部屋を後にした。
静寂が訪れた部屋、ウィルは唇に感じた柔らかさに気づき、うっすらと蒼眼を覗かせた。
「寝ちまったのか……?」
眠たいわけではなかったはずだった。だが、いつの間にか意識を手放していたということはそういうことなのかもしれないと自らを納得させる。強制された、という考えにはまず至らなかった。
ウィルは残った唇の感触を忘れないように再び瞼を閉じた。
「俺どうしたんだ……?」
その問いに答えを返すものはいない。暫く体をフォルテに貸していたせいか、言うなれば馴染まないという言葉が正しい。消えたいと願った自分が戻るにはそれなりの代償がある、開いた拳を握りしめ、今度こそ守れるようにと誓うのだった。