127話 逃亡の過去
ニーアはすぐに夢だと分かった。その世界でただ一人色褪せていたからだ。
山が燃えている。いやそんな言葉では収まらない。怒りが噴出するように炎の塊が四方へ放たれていた。
逃げまどう大勢の人々と共にニーアは巨大な船へと乗っていた。遠ざかっていく街の景色、立ち並ぶ高層建造物が無惨に崩れ落ちていく。
船に間に合わず泣き叫ぶ家族。子どもだけを乗せ気丈にも笑顔で手を振る夫婦。ニーアの目の前の男の子が母と父を呼び続ける。喉が枯れるまで涙が枯れるまでひたすらに叫び続ける。
ニーアに突如として知識が流入する。いや、それはそもそも常識みたいにこべりついていたようにも感じられた。
高層建造物は一般にビルと呼ばれたこと。この鋼鉄のように堅い船は方舟と名付けられた避難船の一つだということ。
それを認識した途端にニーアの存在を確定させるかのように体に色が入る。
避難船ということは逃げているのだ。この世界の終わりから人々は、それは怒れる山々だけではないことを直後に痛感する。
乗り遅れた人達から絶叫が響く。崩れ落ちていく高層ビル群からそれは現れた。炎に照らされながら異形の存在は獲物を捉える。
「魔物……」
テイントリア大陸で見てきた魔物の存在が当てはまった。
だが、それよりも暴虐的でどす黒く、不気味に青白く輝く魔物の体躯に比例した巨大な石が心臓の拍動のように体に張り巡らされた血管を脈動させていた。
群れは押し寄せ、人を潰し、千切り、そして喰った。
やがて、男の子がぱったりと鳴き声を止めた。今、まさにその両親諸共つかみあげられ魔物に吟味されようとしていた。
「おかあさ……ん、おとう……」
「ーー生きろ!!」
最後の言葉と共に頭が闇に埋もれようとした。
「撃てっ!!」
甲板から砲撃の合図が轟いた。その瞬間、一瞬の熱さが顔を撫でたかと思うと閃光が港を薙ぎ払った。
遠ざかっていく景色には炎と煙が立ち上るだけとなりそこにあったはずの命の叫びは炎に巻かれていた。
「すまない……俺だけが生き残ってしまった。妻よ、先に待っててくれ」
合図をした軍服を着た恰幅のよい男は涙を流しながらもその視線を逸らすことはなかった。ニーアは男の子に目線を戻す。既に泣き疲れたのかへたり込んだまま声も上げずに動かないままだった。
「……中に入ろう」
黒みがかった雨が降り始め、その冷たさで目が覚めることはなかった。ニーアは船室へと男の子を連れようと肩に手をかけた。その肩は雨よりも冷め切っていた。
「こんなの……嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
動こうとしない男の子にどうしたものかと困っていると脇から現れたフードを被った男が軽々と抱き抱えた。突風がフードを剥がさせると銀髪が靡き、その風貌に皆、その男から距離を置く。そして恐怖と怒りの視線が男に向けられていた。
「その耳……」
「エルフ……! 耳尖りの変異種め。悪魔がお似合いだ」
「お前達が生まれたせいだ」
「その子から手を離せ!」
「内心、ほくそ笑んでるだろう! お前達を迫害した人間の末路を!」
小さな声は重なるごとに大きくなり、発散させる対象を見つけ口々に中傷の言葉を投げつける。それでも男は無言だった。
近くにいたニーアだけはその眼差しに気づいた。哀しく今にも泣きそうな瞳だった。だが、その瞳から涙がこぼれる様子はなく、どことなく涙すら流すことを諦めた絶望すら感じた。それが何に向けてかは見当つかずだった。
突如、火薬の炸裂音が響いた。驚いた人達は声を止めその方向へ注目した。ニーアも同じく目を向けると先ほどの軍服の男が天に銃を向けていた。雨にも関わらず硝煙の匂いは消えることはなく漂った。
「誰かのせいにするのはやめろ! エルフ種となった彼らは私たち人間のために力を尽くしているのです! 人間を守ろうとしているのが誰か今一度改めなさい!」
皆、押し黙った。それが真実だったからだ。
この世界の終末を防ぐ手だてを考えたのはエルフ種と人間の研究者達だった。傍観して命を助けられた人間達に非難する権利などない。ニーアの脳裏に次々とこの世界の常識、歴史が浮かび上がってきていた。
そして私情を捨て責任を果たそうとしている軍人の言葉に反論できる人間は幸いにもいなかった。
「失礼……皆、船内で休んでください。東京からは旧南極大陸までは時間がかかります」
軍人は銃を下ろすと人々は先ほどの荒々しさから嘘のように行儀よく船内への階段を降りていった。
「地球は終わったんだ。どうせどこにいっても無駄なんだよ」
去り際に乗客がつぶやいた一言が何故か重くのしかかった。
甲板に軍関係者以外いなくなるとエルフの男は子どもを渡し、甲板へとどまった。
「よろしいので? あなたは別の区画になりますので安心してください」
軍人が船内へ促そうとするが男は首を振った。
「心遣い感謝します。後で行きますので」
低い声ながらもよく通った優しい口調だった。
軍人は手を翳す敬礼ではなく深々と頭を下げた後、前方の司令室へと戻っていった。
波が打ち付ける音と雨だけがその場に響いていた。
「内心、ほくそ笑んでいる……か。エルフなど幻想の産物だ。勝手にエルフと名付けたのは人間達だろうに」
男は後方の出発地を遠く眺める。ニーアは目を疑った。遠く離れたからこそその景色が信じられなかった。沿岸部が煌々と燃え上がりその上空を赤く染め上げていた。先ほどの港だけでなくあの地上そのものが終焉を告げていたのだった。
「……いつまで見ているつもりだ」
ニーアは肩を震わせた。まさか話しかけられるとは思わなかったからだ。
「あ、えっと」
予想外な出来事ということもあり言葉が出てこなかった。
「……ごめんなさい」
それはニーアの声ではなかった。
ニーアの背後から体をすり抜け出てきたのは先ほどの男の子だった。
「子どもは早く寝たほうがいい。この雨も良くない。用があるならさっさと済ませろ」
言葉尻は固いがそれでも声色には優しさがにじんでいた。それを体でも表すように膝をつき男の子と目線の高さを合わせていた。
「さっきはありがとう、おじ、お兄ちゃん? ぼくはお兄ちゃん怖くないよ! 晴れたら遊んでね! お母さんもお父さんもいいって言ってくれたから! 名前教えてよ!」
男は驚いたあと再び哀しげに瞳を落とし、やがて男の子の頭を撫でた。
「そうだな。晴れたら遊ぼう。お母さんに怒られるから早く入りなさい。遊びたくなったら軍の人にオルリを呼んでもらえ」
ニーアは理解してしまった。男の子の記憶は先ほどの惨劇に蓋がされたのだと。
「うん! オルリ! その銀髪かっこいいね!」
そう言うと元気に走り船内へと駆けていった。
「……銀髪を誉められたのはあいつ以来かな」
軽く息を吐いた後、再び立ち上がり、ニーアの方向を見据える。まだ子どもがいるのかとニーアは後ろを振り向くがそういった様子は見えなかった。
「……いつまで見ている」
今度は完全に目が合った。その言葉はニーアに向けられていた。平静を取り繕いながら言葉を考えた。
「あんたが……オルリ?」
オルリという名前はユグドラウスの空間で出会った男の名前だと記憶していた。そしてセラ達と同様の敵の名前だと分かっていた。ただ風貌が記憶と違った。今目の前のオルリという男は若く、ユグドラウスで出会った男は年を取っていたはずだった。
「そうだ。俺がオルリだ。お前が異物だということは分かるし敵意もあるようだな。俺には理由はわからないが……この先に答えがあるのかもな。もしお前が望むなら見ていくといい」
雨の音がいっそう強く響き始める。雨音は周囲の音を塞ぎオルリの言葉さえも届かなくなっていく。
「願わくば俺をーー」
その先は轟音にかき消され聞こえなかった。
「待って、聞こえない!」
音は頭をたたきつけるように重くなり目の前の景色は霧のように霞んでいった。意識が遠のく中、オルリの口の動きを思いだし読みとろうとした。
「俺を……くれ?」
読唇術でもあればわかるのだろうが、そんな特技があるわけもなく現実へ引っ張れられていくだけだった。