126話 波間
緋眼の少年は怒りの矛先をオルリに向けていた。
戦いの邪魔をしたオルリに。
「無能じじいが……!」
歯が欠けてもおかしくないほどその悔しさは強かった。
殺風景な小さな部屋でベッドに腰掛け貧乏揺すりが止まらない。
「いい加減にしたらどう?」
そう言って扉を開き入ってきたのはセラだった。
真紅のドレスではなく薄紅色のドレスに身を包み、紅茶が注がれたカップをナルガに差し出す。
ナルガは舌打ちをするものの、それを拒絶することなく乱暴に受け取るが、こぼれそうに波打つのを更に舌打ちして手を落ち着かせる。
「なんの用だ」
一口、茶の香りが喉を通り鼻に上がってくる。
不思議と落ち着きそれが癪に障ったのかもう一度舌打ちをする。
「私はあなたに感謝しているのよ」
セラは無骨な椅子に腰掛ける。
覗く白い脚を辿りナルガは視線をセラと合わせる。
「感謝される覚えはない。むしろ悲観してもおかしくないだろう。おまえはただの操り人形だ……俺も例外ではないが」
セラは自信に満ちていた以前のナルガとはかけ離れた様子にふと笑みが浮かぶ。
ナルガは不満げに見つめるもののそれに舌打ちすることはなかった。
「セルシスは調整できたのか」
「そうね。次は負けないわ」
「意外だな」
今度は先ほどより多めに紅茶を含む。
冷めてしまうのがもったいなく思ったからだ。
「そうかしら。でも操り人形でもエファンジュリアとしてここに私はいる。私はあの子に勝てればそれでいいのだから」
「ニーアか。俺の顔はあいつの兄と同じだ。さぞ複雑だろう」
湯気は収まり透き通る茶の水鏡にナルガの顔がかすかに映る。
「まあ、最初はね? でも今は違う。あなたはあなた。私を守ってくれたのはナルガという名前のあなたよ」
そう言うセラの表情は穏やかだった。
初めて見たのかもしれないナルガは紅茶をさらに飲む。
揺らいだ波に姿が揺らめいた。
「ナルガか……それも今となっては俺の存在証明の名前か」
今度はセラが驚いた。
いつも真一文字に結ぶか演技かかった笑みを浮かべていたナルガの素直にあがる口角にカップの手を止めた
「なんだ?」
本人は気づいていなかったのか、直ぐに元に戻ったのだが先ほどより優しく笑みを浮かべるセラに初めて戸惑った。
「いいえ。必ず成し遂げましょう」
「……ああ、反逆するぞ。この運命に」
無意識の内に口に含む回数と量は減っていった。
冷めていく紅茶よりも飲み干してしまう時間をなるべく長く過ごしていたかった。
ーー
水鏡に空が映し出された境界面のない世界。
円形の石造りの台座に円卓が一つ、さも世界の中心のように設置されていた。
その席に三角形を結ぶように座る三人の男女は口をなかなか開かず沈黙していた。
それぞれの背後には柱があり紋章が揺らめいている。
円卓にはまだ九つの空きがあった。
ただその内の二つの椅子は半透明となり空を透過していた。
「……インフどころかセシルもあっちに渡ったみたいだね」
柱の一つを前にしてユグドラウスは輪郭だけを残した席を残念そうに見つめる。
「これでイフリーテ、シーヴァの楔は絶望的ね」
ユグドラウスは視線を右方向の一角へ移す。
リヴァイアスの名を冠しているリズは綺麗な顔立ちを少し歪ませ、合流できていない同士の姿を思い描く。
「大きな問題ではない。楔の解放はなされてはいる。扉が違うだけだ。むしろ問題はあやつらの自我が抑えられていることだろう。ユグドラウス、案はないか」
しゃがれた声はもう一角の存在、ディアヴァロの名を冠しているヤトだった。
その目尻に重なった皺を伸ばしユグドラウスに解決を求める。
それに対し大仰に悩むそぶりしてユグドラウスは唸る。
「うーん。こればっかりは僕らより後の、つまりこの世界で構築されたシステムだからね。ニーアに取り込んでいれば解除は可能だろうけど、それは叶わない状況だ。可能性としては自ら解除、セラの意志で解除……この二つはあまり期待できそうにない。後はエヴィヒカイトの中枢から接続して強制的に解除プログラムを流し込むか美しくはないけど直接接触で解除を試みるってのがあるけど自我崩壊のリスクが高いね」
「一番確実なのはエヴィヒカイトではあるけど、そこまでニーア達が向かえるかというと微妙ね」
暫くの沈黙の後、ユグドラウスが口を開く。
「……もし失敗したならこの世界で楔を創出し権限移譲ーー」
「それはだめよ!」
リズが立ち上がりユグドラウスを睨む。
「わかってるよ。ただの方法の一つさ。ただ素質のあるエルフの血脈が二人いる。エファンジュリアの影響かそれも可能なレベルにマナの変異が起きているのも事実だよ」
ユグドラウスは否定されるのは織り込み済みのようで涼しい顔で尖った耳を紅潮させるリズを見つめる。
リズは悪態をつき、腰を落とす。
「ほんと研究者って嫌いだわ。」
「それは誉め言葉として受け取っておくよ」
「リズ、落ち着け。これは我らの決意だ。ユグドラウスは人間としてただ一人、決意したのだ。それを責めることはできん」
ヤトはリズを諫める。
リズは釈然としないながらもその言葉の意味はよくわかるようでため息と共に怒りを抜いた。
「まあこっちで誰かが管理しないとっていうのもあったし仕方ないことさ。研究も続けられる個人的理由もあるからあんまり持ち上げられても困るけどね」
ユグドラウスは丸渕眼鏡を外し白衣の裾で拭く。
「変わらないな。当面は他の楔の解放を第一としてエファンジュリア、ニーアに協力する」
ヤトは両手を組み肘を机につける。
そのポーズは決定事項を告げるときのクセだった。
それを理解している二人は頷き同意を返す。
「そもそも僕らの役割に反する計画だ。自らが選んだ道を我らが終わらすのは感慨深いものがあるね」
「これが終わりなのか始まりなのかを最後まで見届けるのが我らの責務だ。どちらに転んでもそれは世界の、人類の意志だ」
「そうね。私達も変わった。この世界を見続けてやはり傲慢だったと痛感したわ」
「……オルリかい?」
ユグドラウスはその名を口にすると、ヤトは哀しげな目を浮かべる。
リズもまた哀しげに空を見上げる。
「観測者から当事者へ、皮肉にもそれがこの反逆のきっかけになろうとはな」
ヤトは瞼を閉じかつてを思い出す。
世界を守ろうと決意した十二人の同志達を、昨日の事のように鮮明に再生した。