112話 幸福願望
彼女はとても満ち足りていた。
到底、叶わなかった家族の団欒がそこにあり、中心に自分がいるのだから。
「ほらオルキス、ほっぺについてる」
今日はオルキスの5歳の誕生日だ。
迎えるはずのなかった景色だということに彼女は気づかない。
頬についたクリームを母オルティが指で拭い、自らの口に含む。
「だいじょぶ!」
返答としては間違っているものの、むしろその反応が家族を笑顔にしていた。
楽しさ、嬉しさ、幸せな瞬間が永遠に続く。
ふと、ケーキを頬張ろうとする手が止まる。
「あれ?」
何か違う気がした。
喉に魚の小骨が刺さった時のような引っ掛かりだった。
「うーん?」
オルキスは必死に何かを思い出そうとする。
こんなことをしている場合ではないはずだった。
じゃあ何をしていたのかとケーキの欠片を目の前に悩む。
「どうしたの? あ、ほらキャス、あれだして!」
オルキスが何か不満そうだと思ったのか、オルキスはフォークを置き、真向かいで座っている父キャスと目を合わせる。
「そういうことか、ほら、オルキス、目をつむって」
「うん!」
疑うことなくオルキスは瞼を閉じる。
引っ掛かりを取ってくれるのだと信じていた。
ごそごそと何かを取り出す音が耳に入り、何があるのだろうと興奮しながら待つ。
そして、耐えきれず目を開けようと思った所に頭に何か被せられた。
柔らかく頭をすっぽりと包んでくれる心地よさがたまらなかった。
「よーし、開けていいぞー」
オルキスは目を開けた瞬間に差し出された鏡に映った自分の顔を見る。
そして髪を包み込む感触を確かめようと頭を両手で掴む。
「ふかふか!」
オルキスはその贈り物に目を輝かせきめ細やかに縫い込まれた手触りの良さに病みつきになり外したり被ったりを繰り返す。
被った時の包まれていく感覚がすぐに好きになった。
「誕生日おめでとう! 私達が創った帽子気に入ってくれたみたい」
手を合わせ喜ぶオルティに更に嬉しくなる。
家族にだけ見せる姿が特別感があり好きだった。
たまに家にくる仕事仲間には言葉尻がきつく、あまり好きではなくその差が更に特別だと思えた。
「よく似合っておる」
鏡越しに祖父がにこやかに微笑んでいた。
今とは違い、皺も幾分か少ない。
今はと出た頭に一瞬、不思議に思うが新しい帽子の感触にすぐにどうでもよくなった。
「ずっとずーっと大事にする!」
満面の笑みで振り返り白い歯を家族に見せる。
笑顔が花のように広がる。
幸せだ。本当に幸せだ。ずっとずっと6歳も7歳もずっと一緒にいるんだ。お母さんとお父さんとお爺ちゃんとずっと笑顔で。
「幸せかい?」
キャスが笑顔のままオルキスに話しかける。
「うん! 幸せ!」
いつの間にか小骨があったことすら忘れ満たされていく。
いつまでも続く幸せを願った。
「オルキス、ずっと一緒だからね」
オルティが笑顔で帽子の上から優しく撫でる。
「ああ、ずっと一緒じゃ」
ザラクも頭を撫でる。
「ほら、キャス、あなたも」
オルティに急かされキャスはオルキスの前でしゃがみ、手を伸ばす。
「うふふー夢みたい!」
キャスの手が止まった。
そして頭に向かっていた手が頬に添えられる。
「ん、おとーさん?」
頭を撫でられると思っていたオルキスは優しい温もりが頬をさする。
「そうだな。本当にこんな幸せが続けばとお父さんも願っていた……本当に」
名残惜しむように頬を撫でるキャスをオルキスは見つめる。
キャスは笑顔を崩さまいと耐えながら涙を一筋流す。
「おとーさん? どこか痛いの?」
「キャス、あなた変よ」
「そうじゃな。どうしたんだ?」
心配する二人だが顔はずっと笑顔のままだった。
見上げたオルキスは、唐突に気持ち悪さを感じた。
張り付いた笑顔、作られた笑顔に感じられ不安に駆られる。
「お前はここにいちゃいけない。出て行くんだ」
オルキスは怒られたのかと思い、反射的に涙が浮かんでくる。
しかし、その顔は怒りではなく悲しそうに苦しそうに歪んでいた。
「キャス、どうしたの?」
オルティの笑顔が消えた。
夫を睨みつける視線はオルキスの記憶にはなかった。
撫でられていた手が止まった。
「キャス、あなたは幸せを願ったのよね?」
オルティの口を借りて誰か別の存在が話しているようにも思え、得体の知れない恐怖からオルキスは身を引き手を避ける。
自然と体はキャスへと向かい、キャスは優しく受け止める。
「おかーさん……?」
その疑問は母がどうにかなったのではということではなく母そのものへの疑問だった。
「そうだ。俺は願ったよ」
オルキスの両肩が力強く握られる。
痛みはなかった。
「だったらーー」
「ーー俺の幸せじゃない。この子のオルキスの幸せだ」
オルティに被せキャスはオルティを見据える。
意志を持った瞳にオルティは唇を噛む。
血が流れるほど強く悔しそうに怒りを込めてキャスを一層鋭く睨みつける。
その母とは思えぬ表情にオルキスは絶句する。
「許さない。あなたは一度受け入れた。逃がすなんて有り得ない。有り得ない。ない。ない。」
言葉を反芻する度に歯で止められていた血が床に落ちていく。
「行こう。オルキス」
キャスはオルキスの手を引く。
オルキスは何も理解できず、泣きじゃくる。
しかし、引かれるがままに扉の前へと進んでいく。
あんな母は見たくないという気持ちがキャスを選んでいた。
「オルキス、ここに残ろう」
ザラクが扉の前で道を塞ぐ。
だがキャスは止まらない。
「どいてくれ、お義父さん」
目の前まで歩きそれでも退かないザラクにようやく足を止める。
「おじいちゃん……」
「そうだよ、オルキス。おじいちゃんの手を握るんだ」
ザラクは手を差し伸べる。
オルキスを守ろうと助けようと血管が浮き出た手を伸ばす。
そろそろとオルキスは手を握ろうと片方の手を伸ばしてく。
この手を握ればまた皆で一緒に笑っていられるんだ。
喧嘩しないで済むんだ。
「オルキス……」
キャスは無理矢理止めることはなかった。
ただ悲しくその先を見守っていた。
ザラクの手に触れる瞬間に扉が乱暴に叩かれ、ぴたりと手が止まる。
「オルキス!」
「ここにいるんだろう!」
扉の外で聞こえてくるのは知らない声だった。
しかし、それを無視することは何故かできなかった。
「……ティア、ダーナスさん……あれ?」
知らない声のはずなのに口に出たのは誰かの名前だった。
知らないはずの名前がどうしようもなく気になった。
顔が見たいという欲求が生まれ手はザラクを逸れ扉へ向かっていく。
「そうだよ、オルキス。掴むべきは過去じゃない。行くんだ」
ザラクは何もしてこなかった。
その手を引き、オルキスを見送る。
もう無駄だと悟ったのだ。
いつの間にかキャスに引かれていた右手は引く手となり左手がとびらの取っ手を掴む。
「オルキス!」
取っ手を回しながらオルキスは母の声に振り返る。
「置いていくの……?」
あの怖かった顔は一転して懇願するような泣き顔になり、戻ってくれと訴えていた。
取っ手は回り切る止まる。
「おかーさん。お母さん。わたし錬成士になったんだよ。絶対にお母さんに追いつくから。皆と一緒に」
扉が開いてく。漏れ出てくる光が部屋に流れ込んでくる。
成長したオルキスは扉をゆっくりと開いていく。
この夢を噛みしめるように。
信じて待っていた父と共に一歩踏み出す。
「オルキス!」
「お帰り……!」
光の中にやっと仲間を見つけ、部屋を出る。
「ただいま……!」
ダーナスとティアがその瞬間オルキスを抱きしめる。
ふと顔を再び家に向ける。
消えゆく部屋の中には立ちすくむ母と祖父。
キャスは一緒に振り返る。
「ありがとう。こんな幸せな夢を見させてくれて」
キャスは柔らかく微笑む。
対して意外な言葉に驚きながら、二人は微笑んだ。
そして消えていく。
オルティは指をキャスへ向け、次に彼女達の後ろに指しながら夢の家と共に消えていった。
キャスは服のポケットに感じた膨らみに気づいた。
「あ……」
その消えた指の先を追い皆は扉を振り返る。
思わずオルキスは走り出す。
父を引っ張って、扉へ、扉の前で待っている人の元へ。
「お母さん!!」
キャスの手が追いつけず離れ、オルキスは勢いを止めずに飛び込んだ。
ずっと会いたかった本当の母の胸へ。
「おっきくなったね。帽子もずっと使ってくれてたんだ」
母は愛娘との再会を惜しむことなて体全体で迎えた。
強く強く抱きしめて懐かしく、そして成長した娘を失った時間を取り戻すように。
そして、オルティはもう一人、罰が悪そうに苦笑いを浮かべる最愛の夫を見つめる。
「キャス……後で説教だ」
オルティは鼻をすすり右腕を開く。
ゆっくりとキャスはオルティをオルキスを包みながら抱きしめた。
「勘弁してくれよ……でも10年ぶりだけど変わらず綺麗だよ」
オルティはすぐに赤面しそれを隠したかったのか唇を重ねた。
「あなたはまったく変わってないけどね」
十年前と変わらない夫との再会を感じさせることはなくいつものように軽口を言いながら接する。
「でもお母さん、どうしてここに?」
埋まった顔をなんとか出し母に問いかける。
「そうだ。話は後! 早く戻らないと」
オルキスの問いに思い出したように包容を解く。
名残惜しさもあったが後で思う存分時間があるとオルキスは腕を放した。
「うん。早く戻らないと皆が!」
どれくらい時間が経ったか検討が付かない。
夢の空間であっても時間の流れが同じならば相当の時間が流れていたはずだった。
急いで扉を押そうと両手を付く。
「重っ!」
ティアが一緒に押しダーナスも続く。
行きは軽かったはずの扉は重く、ようやく押し開き始めた。
「オルキス、後は頼んだよ」
三人を見守りながらキャスはオルティに別れを告げる。
その言葉にオルティは逡巡することはなく、むしろ大したことないように笑った。
少しは寂しく思ってくれるかと予想していたキャスの期待は裏切られぽかんと口を開けた。
「その表情はなに? 別れたくない! って泣くと思った? 残念でした。私がどうしてここにいると思うの? 10年何もしなかったわけない」
「……相変わらず無茶な人だ」
全てを察したキャスは扉を押す三人に加勢する。
「本当に優しい人達、私の願いを聞いてくれて、アリスニア嬢も集めてくれてありがとう」
オルティは感謝を口にすると彼女も一緒に扉を押し、扉は一気に開け放たれた。
「行こう! 皆!」
オルキスを先頭に吸い込まれるような光の先へ走り出す。
現実への道をひたすら駆ける。
仲間達と共に。
オルキスとキャスは最後に扉をくぐり抜ける。
呼ばれた気がした。
振り向くなよ。
行け。
俺達の、私達の願いを託したぞ、バカ夫婦。
「本当にありがとう。皆」
オルティは後ろから聞こえてくるかつての仲間達の声に押されながら振り向かずに走っていく。
扉が閉まっていく。
光の中から降りたったアリスニアは集まってくれた皆に頭を下げる。
「ありがとう。絶対に解放するからね」
アリスニアは閉まる扉に滑り込み、完全に扉は閉まった。
見守っていた多くの姿は満足そうに光と同化していった。
ーーーー
扉が開き、三人だった彼女達は五人へ増え、現実へと舞い戻った。
「ウィルさん! 終わりまし……た?」
オルキスの喜々とした表情は一変する。
言葉の通り既に終わっていた。
立っていたのは緋眼のナルガと真紅のエファンジュリア、セラだけだった。
「そうだ。終わったんだよ」
ナルガの顔は心底満足そうに卑下た笑みを浮かべ膝を付くウィルを見下ろしていた。