111話 出来なかった選択
ダーナスはがむしゃらに走った。
短く切った髪が乾いた空気に軋む。
ガーライルから逃げるように、そして民家へ転がり込む。
血の臭いが幾分か緩和され、ようやく脳に酸素が回ってきて息を少しづつ整える。
カタ、と家の中で板が動く音が聞こえた。
隅に寄せられた燃料用の薪の奥で二人の黒髪の同じ顔の子どもが身を寄せ合い震えていた。
兄だろう子どもは気丈に妹を庇うように腕で包んで、守っていた。
自らの兄と重なったダーナスは、剣を鞘に入れ直し手を差し伸べる。
「大丈夫。私はひどいことしない。逃げよう」
なるべく不安がらせないように努め、ぎこちない笑顔を浮かべる。
男の子はダーナスに血がついていないこともあり、恐る恐るその手を伸ばす。
その瞬間、横の戸棚から男がダーナスに組みかかった。
「子どもに手を出すんじゃねえ! おまえ達早く逃げるんだ!」
「違う! 私は!」
ダーナスの否定など耳に入るわけもなく、男女の差はあるが厳しい環境に身を置く屈強な筋肉にダーナスは身動きが取れなくなり、暴れる最中、積み上がった薪が崩れる。男が持っていたナイフは滑っていった。
「ミュトスめ、俺たちはただ平和に過ごしたかっただけなのに……!」
首に腕が回り、締め上げられていく。
「がっ……ちが」
否定も虚しく次第に視界が黒く染まっていく。
ここで死ぬのか、いや、殺すよりもいいか。
「ダーナス!」
新たに家に入ってきた同期が組み付いている男を剣で切り裂く。
首を締める力から介抱されて床に手をつく。
「がはっ」
反射的にせき込み口から流れる液体がぽたぽたと落ちる。
「くそ、ユ……ア……ごめんな」
ダーナスが振り向いた時には既に男は息耐えていた。
「お前ーー!」
「なにやってんだ! 死にに来たのかよ!」
同じ白装束の男がダーナスの言葉を遮り、襟をつかみ上げる。
男の目には涙が浮かび充血していた。
よほどの地獄をここで味わったのだろう。
その両手からは血の臭いが漂っていた。
「俺たちがやらなきゃ、殺されるんだぞ! くそっ!」
悪態を付き、ダーナスを解放する。
「次行くぞ……」
薪に隠れた子どもに気づいていないようだった。
のろのろと立ち上がり家を出ようとする。
その時、薪の山から抜け出て男の子がナイフを握ってダーナスを突き飛ばし同期の男に突き立てる。
精神的に参っていたのもあったのか反応が遅れ、腹にそれを受け入れ壁に衝突する。
「がっーー」
それでも男の子はそのナイフを抜かず、押し込んでいく。
男は剣を持つ手の力を失い、落とす。
「よくも……父ちゃんを……死ね、死ね、死ね!」
抜いてはまた突き刺す。
血を吐き出す度に少年は返り血に染まっていく。
もう命が消えているのにも関わらず血塗られた双眸は憎しみに染まっていた。
「なんだ、これは」
扉が開き、忌々しそうに口元を歪ませるのはガーライルだった。
男の子の襟首を片手でつかみ家の外に投げ出す。
「ダーナス。どういうことだ? お前の不手際なら自分でけりを付けろ」
氷のような目線がダーナスに突き刺さる。
「あ、いや、これは……」
返答に迷っていると、ガーライルは剣を抜き男の子に向かい振りかぶる。
「やめっーー」
「やめてええええ!!」
ダーナスの制止の声は届かず、ダーナスの脇から飛び出し女の子が男の子に覆い被さる。
「なるほど、そういうことか。まだ中にいたのか。それでおびき寄せようとしたんだな。よくやったダーナス」
曲解。いやわざとだ。
含みを持たせた笑みを浮かべ顎で無言の指示を飛ばす。
乾燥した風がダーナスの唇の水分を奪っていく。
「わたしが……やれと?」
「言わずともわかるだろう。証明しろ。ミュトスの一員だと」
砂塵が舞う。
砂に汚れ、男と同僚の血に汚れ、ついには自らの手を汚せとなんの迷いも感傷もなくガーライルは命令する。
その声に逆らうことはできない。
いま裏切ればどうなるか目に見えている。即座に切り捨てられるのは自分、そして、子ども達も命を落とすのだろう。
結局の所、何も変わりはしない。
従えば少なくとも自分の命は救われる。命令だから自分に罪はない。
ダーナスは虚ろな瞳で感情すら消え失せ、剣を抜く。
剣は砂をすり抜け肌に突き刺さる太陽の光を反射する。
刀身の向きを変えると女の子の怯えた瞳がいっそう見開かれ大粒の涙が流れ落ちてはすぐに蒸発していった。
私はまた同じ道を辿っているんだろう。
追憶、この現実は目を背けてきた私の罰なのだ。
何もかも人のせいにし続け、意志すらないのが私なのだ。
「さあ、甘さを見せた兄のように閑職についていては上など上り詰めることなどできないのだ。甘さを捨てて覚悟を見せろ」
ダーナスは剣を突き刺すべく右肘を引く。
後は矢が弦から放たれるように突き出すだけだ。
諦めを通り越しその切っ先を女の子はただ見つめていた。
せめて一緒にと兄を抱きながら死を選んだ。
「許しは請わない」
つがえた矢が、剣が放たれる。
せめて苦しむことなく、逝ってくれと願う。
「お兄ちゃん……守れなかった」
妹が最後の涙を既にできあがった頬の道を伝い落ち、妹を捉え死は迫っていく。
妹の悔やみが剣に反射する。
垣間見えたその姿は、ダーナスそのものだった。
妹、兄、私は自分を殺すのか?
違う。
兄から離れたかったのか?
違う。違う。
殺して楽になろうとしたのか? 殺したかったのか? 自分を、兄を。
違う。違う。違う!!
私は! お兄ちゃんを助けに来たんだ!
私は……またお兄ちゃんと一緒に笑って生きていたかったんだ!
切っ先は女の子の目の前で止まっていた。
「それがお前の選択か?」
ある程度予想していたのだろう。
ガーライルの背後から降りかかる声には驚きはなく、ただ落胆が漏れていた。
「そうだ。いつまでも他人事じゃいられない。兄を助けるためなら殺す覚悟はある。だがそれはこの子達にじゃない」
男の子がダーナスを見上げていた。
その瞳は怒りも憎しみでもなく自らの力を持った人間に対する尊敬の眼差し。
「それは、お前だ。……ガーライル!!」
振り向き様にダーナスは弓を引く、肘を引き刃を本当の敵を貫くために。
時間を思い出した体は成長し、届かなかった剣が今なら届く。
ガーライルは突如の変化にも自らの剣で受け止めようとする。
切っ先がガーライルの剣の中心に突き刺さる。
それでも止まらない。
剣を砕き、驚愕の表情で胸に刺さっていく剣を見つめていた。
光が世界を覆っていく。
返り血が光となって昇華していき、世界が再構成されていく。
砂の景色は消え失せ、ダーナスは再びルイネエンデ城の中で立っていた。
夢でも見ていたのかと最初に立っていた場所に戻る。
ダーナスの目の前で幼きダーナスが見つめていた。
「過去を変えたいか? お前が願うなら叶えよう。この夢の世界をお前の現実にできる」
幼きダーナスは微笑み両手を伸ばす。自分でも驚くほどに柔和な笑顔、彼女ならそれも可能なのだろうとダーナスは思った。
「それはとても甘美な誘いだ……だがそれを受け入れはしない。今ここに立ってあの時とは違う選択ができたのは、その過去のおかげなんだから」
ダーナスは両手を伸ばしその手を握る。その誘いを受けるのではなく感謝するために。
柔らかな手に包まれた瞬間、記憶が完全に元に戻っていく。
「思い出した? あの子達は生きているよ。手をかけたのは見かねたガーライル。いつかあの兄妹に会えるかもね。ううん、もう会っているのかもしれない。よく過去と向き合い選択した」
ダーナスははあの時どちらも選べなかった。
迷っている内にガーライルが二人を切ったのだ。
命令に従わなかったダーナスがなぜ今までガーライルの元に仕えてこれたのかは本人にも分からない。
ただ抜け目のないガーライルが死体を確かめもせず翻した白装束から、揺らいだ瞳でダーナスを一瞥していた。それは等身大の人間らしく感じた。それ以降は一切の揺らぎは見せなかったのもあり完全に忘れていた。
「そうか、生きているんだな……いや、会っているとはどういうことだ!? お前達は記憶を見ていたはずだ、どうして私の知らないことまで知っている!?」
幼きダーナスは光の粒子となり世界を離れようとしていた。
突然、噴き出した疑問に少女は答えない。ただ笑顔を向けていた。
手に何かを持たせ世界と共に消えていく。
「知りたいのならばいずれまた会うだろう。姿は変わっても私達はここに、そこにいるのだから」
ダーナスは手を開き、上に乗った楕円形の透明な石を発見する。
そして顔を再び上げるが、すでに誰もおらず、光に満ちた世界が広がっていた。
「一体どういうことか、いや、今は早く戻ろう」
彼女の言った言葉をいくら考えても答えが出ない。そもそも排除機能とはほど遠いような気がした。
首を振り、今はただ仲間の元へと、石を握りしめ佇む扉に駆けていく。