110話 願い
どうして、どうして来ないの?
このままじゃ姉様が……。
子どもということがキリングベアのいたぶりの対象となっていた。
ヨネアの服は切り裂かれ、傷が増えていく。
本気を出せば一撃でその柔らかな肉は切り裂くことも容易にも関わらず、背後のティアに見せつけるようにヨネアをおもちゃのようにいたぶっていく。
助けはこない。
希望などない。
このまま自分を投げ出して食われてしまいたい。
そうすればこんな地獄を見せられずに済むのだから。
そうだ、諦めよう。
姉様より私が食われればいいんだ。
周囲の闇が狭まってきていた。
闇に飲み込もうともう終わりだと。
ティアは一歩踏み出す。後ろ向きな一歩を。
そこでようやくキリングベアは器用にひっかけたヨネアの服を体ごと持ち上げていたがティアを見据えると乱暴にヨネアを落とした。
キリングベアがティアに向かおうとする前に、ぼろぼろになった体にも関わらずよろよろとティアの前で両手を広げる。
「いいよ、もう姉様。全部夢だったんだよ。私がこれからも生きていたことは全部」
ティアはヨネアを押しのけようとするがヨネアはどこにそんな力が残っているのか頑なに動こうとしなかった。
「それがあなたの選択なの?」
「え?」
「本当にそれでいいならここで終わりにしましょう」
およそ当時のヨネアからは聞き難い口調だった。
そしてヨネアは力なく倒れる。
もうティアを止める者はいない。
後は自分の選択だけだった。
ティアはヨネアの前にでる。
「もう休もう。こんな世界なんて」
無駄だ。
風がそよぐ。
キリングベアは魔物に似つかわしくない表情を浮かべる。
興が削がれたと。
何も守れない自分なんて不要だ。生き残っても無駄だ。どうせ、失うなら失う前に自分が消えてしまおう。
うん、それでいい、それがいい。
ティアは身を差し出す。
完全な闇の空間でヨネアとティアとキリングベアだけが残る。
「本当にそれがあなたの願いなの?」
ヨネアでもティアの声でもない。透き通った声と共に水滴が闇に落ちる音が聞こえ、その光の波紋は世界に光を灯す。
その間にもキリングベアはゆっくりと尖った爪を振りかぶっていた。
「誰……?」
聞き覚えのない優しい声、母のような包み込む声、だが母ではなく少女のような高く美しい声だった。
「あなたの願いは死ぬこと? 死んで楽になるの? 何も守れずに終わっちゃうよ?」
波紋が広がる。
その波紋にここではないどこかの風景が投影されている。
誰か戦っている。
必死に、どう見ても負けが見えていた。
それでも蒼を纏う少年と仲間は緋を纏う者に立ち向かっていた。
はじき返されても、剣が届かなくても、なお諦めず戦いを挑んでいた。
「ウィル……さん」
唐突に名前が口にでる。
はっきりとは思い出せないが、一緒にいた記憶がある。
この時じゃなくもっと先で。
「そう、彼らは戦っている。なんでだろうね」
更なる波紋が映像を切り替える。
ティアは目を見開く。
「姉様?」
誰かを介抱している。
子どもの姉ではなく成長した姉がミディエラーとして治療に当たっている。
「皆、無事に帰ってきて……ティア」
ヨネアは願うように両手を組み願う。
「私は、私は終わってなんかない……?」
そうだ。私はここで終わってなんかない。この先も一緒に姉様がいた。皆と出会った。
私は自分の意志でここに来たんだ。
アドルさんを助け、皆を助けるために!
時間が元に戻る。
キリングベアの振りかぶった爪は振り下ろされ、ティアを捉えようとした瞬間、何かに弾かれキリングベアは驚きと恐怖を感じ一歩下がる。
「ティア……?」
倒れ込むヨネアはティアを仰ぎ見る。
「大丈夫。私が守りますから」
「おっきくなったね」
ヨネアは微笑み眠りにつく。
その後ろには母と父が優しくその背中を見守っていた。
「さあ、退いてもらいますよ!」
大きく成長した背中を家族に向けキリングベアに薙刀を振るい、受け止めることもできずキリングベアは切り裂かれた。
その瞬間、キリングベアが光と共に四散し闇だった世界は光に包まれる。
光が収まった頃、湖面を風が撫でる音が聞こえた。
また湖の側にティアは立っていた。
キリングベアがいた場所は砂浜に変わって、そこに丸い器に閉じられた深い青色の液体が沈んでいた。
ティアはそれを手に取る。
世界が光に包まれ崩れていく。
「ティア、えらいえらい」
消えゆく世界で母と父の温もりが頭を撫でた気がした。
「ありがとう。行ってきます」
ティアは光に佇む扉に向かっていく。
皆の元へ帰るために。
ーーーー
ダーナスには意味が分からなかった。
今自分が置かれている状況に理解が追いつかない。
「異端者を生かすな。粛正しろ。ダーナス。これは実地研修だ」
新たに所属したミュトスの上司、ガーライルが冷酷に告げる。
逃げ惑う人を追いかけ、同期が剣を振り、命を奪っていく。
女、子どもも容赦なく。血が砂漠の町を赤く染めていく。
「こ、こんなことできるわけがありません!」
ダーナスはガーライルに声を上げ命令の撤回を申し出る。
「ダーナス。聞こえているのか……行け」
ガーライルが再び命令を下すとびくりとダーナスは肩を震わせ意志に反して剣を抜く。
嫌だ嫌だ嫌だ。こんなのがミュトスの仕事など聞いていない。
結界を維持し人を脅威から守ることが仕事だったはずだ。
エヴィヒカイトに異を唱える人間の粛正。
それがダーナス達に与えられた任務かつ最後の研修だった。
お節介で結構です。
たぶんあの子は大丈夫かな。
落ちるところまで落ちれば後は見上げるだけ
けどつらいのは幸福を振り切ること。
幸せな夢はきっと覚めない。