109話 ティアの現実
ダーナスは姿が見えなくなった二人に戸惑ったものの気を取り直し、姿を現した世界を直視する。
「ルイネエンデ城?」
ダーナスの目の前にはかつて兄と相対しウィル達と共にミュトスと縁を切った城内にいた。
あの時の喧噪もなく日常の風景のように静かだった。
周りを歩く兵士や文官達にはそんなことがなかったかのように平然と仕事をこなしていた。
「おい、ダーナス!」
急に呼びかけられダーナスは振り向く。
そこにいたのはかつての上官だった。
「ライアン・L・ヴェルキス殿。なぜここに?」
ユーフェリアン・ガードのライアンだった。
だが、見た目がダーナスの記憶よりも幾分若く見えた。
「なにやってんだこんなところで」
どう答えようか迷っているとライアンはダーナスを素通りする。
ダーナスは横を通り過ぎるライアンを追う。
「いえ、別に」
ダーナスは代わりに返事をした少女に目を見張った。
その時、ダーナスはようやく思い出した。
ここはミュトスへの入隊式の日。
そして、あれはかつてのダーナスだと。
「なんだ、後悔してんのか? お前が決めたんだろ? そりゃ俺の元にいりゃユーフェリアン・ガードも夢じゃないほどの才能だったから、惜しいには惜しいが、自分で決めたことならダメになるまで貫き通せよ」
「後悔などしてません! まったく一応挨拶に来ようとしただけです!」
口を尖らせ不満をライアンに漏らす。
ライアンは困った顔を浮かべ所在なさげに頬を掻いた。
「おう、そりゃすまねえな。元気でな。研修が終わったら顔見せるんだぜ」
大きな右手がダーナスの頭を鷲掴みにして乱暴に撫でる。
「むむむっ」
ふくれっ面だった幼きダーナスは嫌では無いようで甘んじて受け入れていた。
「んじゃな」
「帰ってきたら勝負です」
「おうおう。期待しないで待ってるぜ」
大剣を背中に携えながらライアンはその場を後にした。
その背中を消えるまでダーナスは眺めていた。
「取り込まれないようにね」
ぐるりとそのダーナスは後ろのダーナスへと首を傾ける。
吸い込まれるような瞳は自分のものとは思えずぞくりと背中に悪寒が走った。
ーーーー
ティアは森の中にいた。
見覚えどころか懐かしさに溢れていた。
ヴェローナの森、薬草が多く採取できる近くの森だった。
どうにも視界が低いことが気になり近場の湖に立ち寄り湖面を覗き込むとティアの顔が写り込む。
「えっかわいい」
思わず口からかつての自分のかわいさを口に出してしまう。
湖面の自分は幼少期の自分だった。
「と、まあおふざけはここまでにして、どういうことでしょうか」
その質問に答えてくれる者はいなかった。
立ち尽くしていると湖面にもう一人の顔がのぞき込んだ。
「ティア、何遊んでるの?」
湖面がさざめき顔が消えると同時にティアは顔を向ける。
「ヨネア姉様?」
「まったくもうすぐ12歳だというのに相変わらず落ち着きがないんだから。早く薬草摘みに行きましょう。お母様もお父様も忙しいんだから」
ティアは思い出した。
同じことを過去に言われた記憶がある。
その記憶通りの世界が目の前に広がっていた。
そしてこの後、何が起きるか。
ただその先は思い出すことができなかった。
記憶の蓋がこじ開けられていく感覚にティアは決められたように自然とヨネアの後ろを追いかけるのだった。
場面が飛ぶ。
ただそれをティアが認識することはない。
彼女はただ薬草を積みながら母と父への合流を目指していただけだった。
「ティア! どこまで行ってたんだい!」
母がようやくティアを見つける。口調の厳しさとは裏腹にいつものことなのか呆れたように息を吐く。
母のかごには様々な植物が盛られていた。
「湖まで行ってたよ」
ヨネアはティアの代わりに答えた。
「そう、ありがとうね」
母は連れ戻したヨネアに優しく微笑み頭を撫でる。
嬉しそうにヨネアははにかんだ。
対してティアは面白くなさそうに頬を膨らませる。
「ずるい、姉様ばっかり!」
ヨネアだけが頭を撫でられていることが不満だった。
はいはいと母はティアを呼び寄せ同じく頭を撫でる。
「ちゃんと薬草摘んできたのね。えらいえらい」
「んふふ」
不満も吹っ飛びヨネアと同じようにはにかむ。
幸せだ。母の温もりが本当にそこにあるかのようだ。
いや、本当にあるのだ。
「さて、今度はお父さんを探しに行きましょうか。誰に似たんだかね」
母はヴェローナの使用人だった。
ここに来たのは屋敷の薬の在庫が少なくなってきたからだ。
母はミディエラーということもあり薬草は必須で町の人から頼りにされていた。
母は奥に進んでいく。
踏み固められた草木が父の行方を案内していた。
この先はティアも知っていた。
色とりどりの花が咲く開けた場所、職人だった父は器用な手つきでよく花飾りを作ってくれたことを思い出す。
ティアは待ちきれず母を追い越し森を抜ける。
ずっと先のほうでしゃがんでいる父を見つける。
「お父さーー」
「来るな!」
聞いたことのない怒声にティアは尻餅を突く。
森の境目に再び身を落とす。
後から追いかけてきた母は何故か声をかけない。
ヨネアと共にティアをかばうように前でかがんでいた。
「そんな……まだ冬眠から目覚めるわけが……」
狼狽えている母の震える目を追いかけ再び父へと目線を向ける。
父の影が飲み込まれるように更に大きな影が覆い被さっていた。
記憶があふれ出す。
キリングベア。
人の身長の二倍はあろうかという巨体の熊型の魔物。
様相が似ているだけで熊にちなんだ名前ではあるがキリングベアは動物ではない。
まだ冬眠の時期のはずだが、花の香りに誘われたか人の肉に誘われたか、いや明らかな後者だ。
冬眠で使い切った脂肪はよけいに筋肉を際立たせ、目の前の人間に食らいつこうと涎を垂れ流していた。
別の人間の気配を感じたキリングベアは鼻をひくつかせ見下ろしていた顔を上げようとする。
「逃げろ!」
父は魔物忌避用の臭い玉をキリングベアの鼻っ面に投げつける。
炸裂した臭い玉に、感じ取っていた臭いがかき消され身をよじる。
そして、怒りと空腹の対象は一人に絞られたのだ。
目の前の父に。
「あ、ああ……」
ティアは動けない。
そうだ。なんで忘れていたんだろう。いや忘れさせてくれていたんだ。皆は事故で亡くなったと口を合わせていたんだ。姉様も仕方ないことだって繰り返し言う内に、記憶を閉じこめたんだ。
私が、私が声をかけなければ、少しはどうにかなったのかな。ああ、だめだ。私のせいで母まで……
「母さん、子どもたちだけは頼むぞ……」
キリングベアの目の前で赤いものと同時に飛び散っていった。
放物線を描き、無情にも父は目の前に落ちた。
「お父さん……い、いやあああああ!!」
ティアの叫びに鼻ではなく視界に新たな獲物を捉え、物言わぬ肉塊となった父だった物を踏みつけ、迫ってくる。
「ーー行きなさい! ヨネア!」
間に合わないと判断した母はヨネアに叫ぶ。
ヨネアは弾かれるようにティアを無理矢理立たせ引っ張り込み、森を駆けていく。
顔にヨネアのだろう熱さが雨のように当たってくる。
「わっ!」
唐突にヨネアの背中にぶつかる。
もう少しで森を抜けるというのにヨネアは完全に動きを止めていた。
「姉様……?」
握られた手が震えていた。それでも離さまいとティアの手を掴んでいた。
おそるおそるヨネアの脇から覗く。
そこにはもう一体のキリングベアが待ちかまえていた。
つがいだったのだ。
「大丈夫。お姉ちゃんが守るからね」
ヨネアはそう言うと強ばった手を引きはがすようにこじ開けティアの手を離した。
そう大丈夫なのだ。
ここでディファルドの父、当時の領主、ディアスが寸でで助けに来てくれる。
ティアの希望に反応してではなく、この時はただ根拠のないヨネアの言葉を信じた。
姉が守ってくれるのだと。
ただ、記憶とは違い、その助けはいつまでも来る気配はなかった。
世界は残酷だ。
そんな世界なら消えたほうがあきらめたほうがましだ。
悩む必要はない、終わりにしよう。永遠に夢の中で閉じよう。