林檎・二
その一件からしばらくしたころ、わたしは一真くんの家に本を返しに行った。一真くんはそのとき林檎も持たせてくれた。一真くんは祖父みたいだ。やさしくしてくれて大きくて知性があって。最早、恋愛対象ではなかった。
でも、それはわたしの中でだけの話だった。
「……さん」
名前を呼ばれて手を引かれた。そのまま彼の胸に飛び込んで、しかと彼に抱きとめられる。わたしはかたなしになって、硬直してしまっていた。
嫌だ。嫌なんだ。わたしは初めてわかったのだった。わたしは味わったことのない恋の切なく甘い味に体と心が支配されるのが嫌なのだ。いつまでもへらへらと笑って恋の味などわからないあどけない少女のままでいたかったのだ。自分の中で異端に大きくなっていく気持ちと向き合うのが嫌なのだ。とにかく、病は全部追い出して、何も知らないままでいたかったのだ。
わたしは一真くんを突き飛ばした。祖父の農作業を手伝って重いものを持って運んだ経験が生きて、意外にも一真くんはかなりの距離吹っ飛んだ。都合よく畳んだ布団に向かって行ったため怪我はしなかったろうものの、突き飛ばした際に一緒に飛んで行った林檎がばらばらと一真くんの上に落ちた。
「林檎が空から降ってくる夢を見ると、それは失恋の知らせである」
神様は夢をみせるだけでは飽き足らずこんな偶然を仕掛けたのだろうか? 神様なんてきらいだ。