晏子、来たる
時は群雄割拠の世。
天下を巡って戦を繰り広げる七の大国の一、楚。
その首都たる郢に厳かに建つ宮殿で、楚王は晏子入都の報せを聞いた。
長江が遥か北、山東半島に存する斉の宰相ーーそれが晏子だ。
報せを運んできた急使に下がるように告げ、
静寂を取り戻した執務室で楚王は満足げに笑みを浮かべた。
「随分と早く来やったな」
あらかた目を通し終わった書類を卓の端に寄せ、頬杖をつく。
その視線は部屋の隅で空気と化している近衛へと向いていた。
「相手が天下の楚王とあらば、誰もが飛んできましょうに」
相変わらず口の回る奴だ、と楚王は満更でもなく笑いをこぼす。
扉へと戻した視界に急使の姿はもう無い。
「しかし、遣いが晏子とは斉は面白いことをしてくれる」
「諸侯がその叡智を論破せんと挑んでやまない斉の名宰相ですか……」
楚王が首肯する。
「正しくそれだ。ちょうど俺も挑んでみようと思っていたが、これは良い機会だ」
「……今、なんとおっしゃりました?」
楚王の言葉に、一拍置いてから近衛が声を上げた。
表情を窺えば、なんて剽軽なことを口にしているんだ、と如実に心の声が書かれている。
「晏子を論破しようと言っているんだが、なんだ……何か文句でもあるのか?」
「文句も何も……私は無謀だと申し上げたいのです」
「何故、無謀と言い切る? やってみなければ分からんだろう」
「ですが……」
それとも俺が虚けであると言いたいのか、と言外に問いが向けられる。
近衛はただ口ごもるしか無かった。それを見てくくく、と楚王が笑う。
「何も俺一人で挑むつもりは毛唐もありはせん。そこでだ、お前や他の者達の知恵を借りたいと思うのだが……どうだ?」
「良案だとは思いますが……」
あの明哲と名高い晏子を敗することは出来ないだろう。そう、近衛が言葉を濁した。
しかし、楚王は当然だ、と笑いを返す。
「誰もが及び難しとするからこそ、負かす意義があるということだ。故に、お前の案はどうだ?」
「武官である私ごときの案など知れたことでしょう。文に通じた侍臣に問うのが道理というもの……」
「早に申せ」
依然として、一歩下がった物言いの側近に痺れを切らした楚王が胡牀から身を起こす。
一歩詰め寄っただけでも大柄な体軀は充分な威圧感を与える。
こうなると側近も口を割らずにはいられなかった。
仕方無し、と溜息を吐いて、こう語った。
「晏子が来たらば部下の一人を捕縛し、陛下の御前を通る……というのは如何でしょう?」
ゆっくりと、楚王は満更でもないように笑みを浮かべた。