(エッセイ)ぼくがはじめて女の人と手をつないだときの記憶
ぼくが最初に手をつないだ女の人は視覚不自由の人でした。
大学の講義が終わって帰り道、バイトが始まる時間がもうすぐで、ぼくは非常に焦っていました。自分では気が付かなかったけれど、きっとぼくの乗った自転車はすごいスピードが出ていたと思います。ぼくは人と車の脇をすり抜けるように自転車を飛ばしていたのです。
-あの角を曲がればバイト先のガソリンスタンドだ
その時その角の手前の小さな四つ角の右手の方から女の人がふらりと出てきました。
-やばい!
女の人はぼくの真正面。焦ったぼくは急ブレーキ。そしてハンドルを切ったんだけれど、よけきれず、女の人とぶつかってしまったのです。その人は歩道に倒れ、ぼくは道路の方に転がりました。痛い、とかより
―どうしよう
そう思って女の人の方を振り返りました。彼女はオロオロと歩道を手で探っていました。「すみません!大丈夫ですか?」と駆け寄った時、ぼくははじめてその人が目の見えない人だと気が付いたのです。
幸い彼女にケガはなく彼女は立ち上がることが出来ました。
歳はぼくと同じ二十歳くらい。髪が長く、少しぽっちゃりとした肌の色の白い方で、目は少しだけ開いて、その中に白く濁った瞳がありました。
ぼくはなんということをしてしまったんだろうと必死で謝りました。「これからどこへ行くつもりでしたか?」と尋ねると、彼女は近くにあったJRの駅に行くつもりだったということだったので、ぼくは「そこまで送らせて下さい」と頼み込んで、ぼくは自転車をその場に置いて、彼女の手を引いたのです。
実はこの時がぼくが初めて女の人と手をつないだ瞬間でした。
実は中学生の頃からぼくは皮膚を病んでいて、ぼくの手のひらの皮がボロボロと剥離する状態だったのです。
だからいつも手には病院でもらったオロナインのような薬が塗りたくってあって、その上から包帯をしていたんですが、そのべたつくし、臭いの強い薬が包帯から滲み出ていて、そういうことが強烈なコンプレックスでぼくはいままで誰とも手が握れなかったんです。
中学校のころのフォークダンスの時、みんなから手を握ることを拒否されたことがぼくの中で強烈なトラウマとして残っていました。
だからあの時どうしてあんなふうにすっと手を差し出せたのかわかりません。彼女が障害を持っていたからだったのか、ぼく自身彼女と衝突事故をしてしまったことでそんなコンプレックスを感じているどころではないと思ったのか。とにかくそうしてしまったんです。ぼくはその女の人と手をつないだ瞬間、
-しまった。
と思いました。
ぼくは握った瞬間その手をその場でぱっと放そうとしたんだけど、彼女にとってはぼくの手が道しるべになるわけで、しっかりと握ってきていたんですよね。そして離さないんです。ぼくが引っ張ると彼女は不思議そうな顔をする。ぼくはそれを見たらなんだかかわいくて抱きしめたくて胸がいっぱいになったんです。
彼女は隣の駅にある図書館に行く予定なんですと教えてくれました。
ぼくが「本を読むんですか?」と不思議に思って聞くと「わたしでも読める本があるんです」といって、読書テープのことを教えてくれました。芥川龍之介や夏目漱石の本が音声テープになっていて、その図書館には置いてあると。ぼくは文学部の学生だったので、彼女から彼女が今から借りる予定の読書テープの話を興味津々で聞きながら、駅まで手をつないで歩いていきました。
ほんのわずかな時間なのに恋人が出来たような気持ちでした。
彼女の右手は相変わらずしっかりとぼくの左手を握っていて、こんな感じなんかいいなって思っていました。
改札についてお別れをしたとき、何とも言えない寂しさがありました。ぼくは別れたくないような、別れたらもう永久に会えないような気持ちになっていました。でも引き留めておくわけにもいかないからぼくは「さよなら」といいました。彼女は笑顔で「さよなら。ありがとうございました」といって、ぼくに丁寧にお辞儀をしました。そして再び白い杖をついてホームのほうにゆっくりゆっくりと歩いて行ったんです。
その時ね、どうしてか心に春の風が吹いたようなすうっとした気持ちがしました。爽やかで心地の良い風が。
ぼくはいま食品工場で働いています。単純な仕事ですが、かけがえのない仲間に囲まれた仕事です。でもいつかこの仕事がひと段落したら、障害者福祉の仕事に就きたいなと思っているんです。それはあの時の彼女がぼくに与えてくれたもので、ぼくの中に残っている温かいものが、ぼくの人生をこっちだよ、こっちだよって、呼んでくれてる気がするんです。
それがぼくがはじめて女の人と手をつないだ時の記憶。
もう10年以上前の話です。