《人間=心×身体》→???
過去の危険は人間が奴隷になることだった。
未来の危険は人間がロボットになるかもしれないことだ。
――――エーリッヒ・フロム
◇ ◇ ◇
わたしの家には、箱がある。
「雅子、ずっと気になってたんだけど、あの箱って何?」
雅子はわたしの妻だ。長い付き合いを経て、二年前に結婚した。
わたし達の家の和室の隅には大きな箱がある。箱と言っても、小さなものではない。人ひとり入ってしまいそうな程の大きさだ。黒塗りで、とても堅牢そうだ。
目立つものなのだが、和室を今までロクに使っていなかったので特に意識することはなかった。しかし、わたしは最近自分の部屋というものが欲しくなり、自室候補を探していると、急にあの箱が気になったのだ。
「んー? あれは箱以外の何物でもないんじゃない?」
雅子はからかうように言う。彼女は時々こう言う物言いをする。
「そういうことじゃないよ。あの箱を何かに使っているのか、ということだよ」
「あれは捨てちゃ駄目よ。あの箱は、あたしの研究成果の証なのよ」
雅子は、それなりの規模の研究所で研究者として働いている。ちなみに、わたしは大企業で毎日やりがいのある仕事に従事している。
「研究成果かぁ。――君は具体的にどういう研究をしているんだ?」
考えてみると、わたしは妻の研究内容をまったく知らない。
「んー。何て言ったらいいかなぁ。――平たく言うと《人間の研究》よ」
《人間の研究》か。わたしは興味をそそられた。
わたしは元来、難しいことが好きだ。ゼノンのパラドックスや二律背反などを一介の会社員のクセに調べてみたりした。しかし、妻のように人生を賭けて研究するのは嫌だ。趣味程度、表面を掬う程度でいいのだ。
「《人間の研究》か。例えばどんな?」
「うーん。ねぇあなた、《機械の中の幽霊》って言葉、知ってる?」
「知らないな。SFか?」
「ううん。じゃあ、デカルトは知ってる?」
「当たり前だ。《我思う故に我在り》、《心身二元論》を説いた人だろう?」
「そうそう。でね、《機械の中の幽霊》ってのは、ギルバート・ライルっていう哲学者の言葉なの。デカルトは『思う』心は、物理法則の支配を受けた体とは別の次元にあるって考えた」
「それは知っているよ」
「でもこれを本当だと仮定すると、体という『機械』に『心』という『幽霊』が宿ったものが人間だ、ということになるのよ」
「それは............何だか気味が悪いな」
わたしがそう言うと、雅子はニヤリと笑って続けた。
「そう。それでライルは、『人間とはそんなものではないはずだ』とデカルトを批判したのよ。その時の言葉が『機械の中の幽霊』ってわけ」
「ふうん。それが君の研究に関わっているのかい?」
「ふふふ。まあね」
「じゃあ、いよいよ君の研究を教えてもらおうか」
そこで、雅子は少し間を置いて、言った。
「あたし達は、人工的に人間を造ったのよ」
なんだって?
息が詰まる。
「人間を、造った?」
「そうよ」
「それは、犯罪だろ。クローン人間の製造は、法律で禁止されているはずだ」
「大丈夫。犯罪にはならない。そういう方法にしたの。しかもクローン人間より高度なレベルの人間よ」
犯罪にならないだって? そういう問題なのだろうか? 倫理や道徳観的にはどうなのだ?
人間が、人間を造る。まるでロボットを造るように。
もう一つ、雅子の言葉に気になるものがあった。
「高度だって?」
「そう。普通、クローンはその元となった人間と同じ容姿で誕生する。でもそれだと、その人間は記憶を持っていない。おかしな話でしょう。姿は成人なのに、足し算すらできない人間。――そんな人間に意味はない。だから、あたし達が造った人間は記憶を持っている」
「記憶を?」
「そうよ。それに思考も元の人間と同じように持っている。元の人間と同じ思考と記憶を持っている」
「それじゃ、まるで............人間のコピーじゃないか?!」
全く同じ人間が二人いるということだ。
「そうとも言うわね」
そんなおかしなことが可能なのか?
「どうやって元の人間の記憶や思考をクローンに移植するんだよ?!」
「元の人間の過去の行動を全て調べあげて、ある事象に対してその人間はどのように行動したかを全て、超小型のAIチップにインプットさせる」
AI――人工知能だと?
「そのAIチップに対して、様々な事象のシュミレーションを行う。――何億通りのものね。AIはそのシュミレーションに対して、元の人間ならどんな判断をするかを学習していく。そのうちにAIは元の人間と同じ思考――つまり判断をして、行動をおこすようになる。最後に、そのクローンの脳にそのAIチップを移植し、そのチップが思考を司るようにする。そうすれば元の人間と同じ記憶を持ち、同じ思考と行動をするクローンが出来上がるってわけ。完成後、どんな状況に出くわしても、クローンは元の人間と同じ行動をとるわ。――って言っても、完成したのは本当に偶然と言っても間違いじゃないぐらいだったけどね」
「そんな......そんなの、ロボットと変わらないじゃないか?! そんなのは、人間とは呼ばない!!」
気味が悪い。頭にチップが埋め込まれたクローン人間が日常生活の中に紛れ込んでいるなんて――
「そうかしら? じゃあ訊くけど、あたしとそのクローンの違いは何?」
それは――、と言いかけて言葉が続かない。
何故答えられないのだ? こんな、結論がはっきりしている問いなのに。そねクローンと人間が同じ訳がない。
待て。わたしは混乱しているだけだ。落ち着け。
「............そのクローンは、思考しているのが機械じゃないか?!」
「なるほどね。じゃあ、また訊くけど、その何が悪いの? そのクローンは実在の人間よ。もし、記憶や思考をコピーしていない状態で、知り合いがそのクローンを見たら、どうなるかしらね」
「確かにそれは、混乱するだろう。だけど、それはクローンを造りさえしなければ、そんなことにはならない!!」
そこで、始めて雅子は苦しげな表情をする。
「......あなた、一つ訂正させて。そのクローンの元の人間は、もう死んでいるの」
「え?」
ということは、そのクローンが完全に元の人間として生きていることになる。
どちらにしろ、気味は悪い。いやそれ以上に異常なことだ。ロボットと変わらないクローンが我が物顔で元の人間として生きている。
「でも、その人間はまだ死んではいけなかった。詳しい情報は言えないけど、死んでしまったことの影響は大きかった。それに何より、その人間には配偶者がいたの」
「だからしょうがない、ということか?」
「そう。仕事の面でも家族という面でも、死んではいけなかった。だから、その人間は甦らせられたのよ。――当然、死んだという事実は記憶から消去したわ」
「でも、周囲は混乱するだろう。死んだ人間が甦ったんだぞ」
もしかしたら、わたしの周りにもそんな奴がいたりするのだろうか。――わたしが気付かないだけで。
「その人間の死は、その配偶者しか知らないわ」
「だったら、その配偶者が――」
「大丈夫よ」
「何でそんなことを君が言えるんだ?!」
「だって、その配偶者が、あたしだから」
ということは、わたしは――
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
「――そ、そ、そんなこと、嘘に決まってる!!」
「嘘じゃないわ。――だからこそ、犯罪にならない。だってあなたは依然として生きているんだから」
「君は狂っているんだ!! 狂った妄想にとりつかれているんだ!! わたしは人間だ! 人間だ!!」
「そうよ。あなたは人間よ」
「そうだ! いや、違う、わたしはクローン人間なんかじゃない!!」
《わたし》というこの意識は、造り物の、《幽霊》だというのか? そんな訳はない。あり得ない。
「あなた、そう思うように設定されているのよ」
「設定なんて言葉を使うな!! 証拠がないのに、でたらめを言うなあ!!」
「証拠はあるわ」
「............え?」
冗談だろう?
冗談に決まっている。雅子はわたしをからかっているだけなんだ。
「あなた、気になってたわよね。あの箱のこと。教えてあげるわ。その箱、黒くて大きな、箱。――あの中に、ホルマリン浸けのあなたが入ってるわ。発見される訳にはいかなかったから、あえて家に置いておいたの」
箱の中に、わたしが――?
見るものか。見たってそんなものが入っている筈がないのだ。だって、わたしはわたしなのだから。クローン人間なんかじゃない。頭にチップなどついていない。そんなことあり得ない。
視界が暗くなってくる。
わたしは人間なのか? それとも機械なのか?
底無し沼に沈んでいくような、感覚――
この感覚も造り物なのだろうか?
このわたしは、造り物なのだろうか?
「ねぇ、あなた?」
「――な、何だ?」
「一つだけ訊かせて。あなたを造ったあたしが訊くのもおかしな話だけど。
――あなたは何者なの?」
「わたしは――」
わたしは――
◇ ◇ ◇
《わたし》は、人間なのでしょうか? それとも、機械なのでしょうか?