6 終末。結末。結論。
とか言いながらまだ終わりません
《夢どころか人間がみんな使い捨てだ。だから寿命がある。終わりがある》
by四谷真崎
《だからこそ恋が出来て、人を好きになれて、愛が生まれる》
by洋樹叶
俺は人を好きになったことがない。もっと明確にいうのならば、愛したことがない。
好きという感情は知っている。つもりだし理解しているつもりだ。
だけれど、愛がどういったモノなのか理解できていない。
母親にも父親にも、たぶん弟にも、愛されてはいたのだろう。俺の主観でしかないのだけれど、そこにはきっと愛情があったはずだ。父と母からは無条件の愛を、弟からは無情な愛を貰っていた。
弟は俺のことを嫌ってはいたけれど、憎んではいなかったはずだ。
嫌がりながらも、受け入れて、愛してくれてはいたのだろう。
じゃあ、家族はどうして俺を愛してくれたのだろうか?
子供だから? 兄だから? 家族だから? 愛さなければいけなかったから?
愛は強制なのか?
多分、そうではないのだろう。
俺は母のことが好きだし、父のことも何だかんだ言いつつも好きだ。
弟のことだって色々言ったけれど、とても可愛がるくらいには好きだった。
じゃあこれが愛なのか? これが愛情なのか?
結局、分からない。
けれど、分からないなりにそろそろ答えを出すべきなのだろう。
洋樹が、叶が死ぬかも分からない今だけど、出すべきだ。
エレベーターから鈴の電子音が鳴る。一階に着いたことを知らせる鈴の音だ。
さて、どこで洋樹を待とうかな……。
「こんな危ない場所にはいられないし、どこにしようか……」
そんなことを呟きながら、出口へと足を進めていると――
地震が起きた。建物全体が震えた。地震ではなかった。頭上から破壊音が落ちてくる。
破壊音はそのまま俺の真後ろへ墜落する。足元がその衝撃によって砕け、捲れる。立っていられないほどの揺れのせいで倒れるしかない。
律動していた心臓が激しく脈打ち、不規則に、出鱈目に、激しく動く。
急いで起き上がり、落ちてきたものを確認する。
そこにいたのは――
―――○○○―――
四谷真崎がエレベーターに乗り、降りていったのを音だけで確認した彩栄椋は床を蹴る。
目の前で構えもせず、棒立ちをしている洋樹叶に再度攻撃を試みることにした。
先ほどの、悪魔憑き(彩栄自身はこれを黒曜石みたいな鎧と呼んでいて、本人もダサいと自覚している)とサイコキネシスと超速再生による身体のリミッター外しを重複させた状態からさらに、重力と空気抵抗を操る能力を追加し、人間ならば掠めただけで消し炭になるような威力の殴打を放った。
「ッ!」
亜音速で放たれた拳はもはや人間が反応できる速度ではない。洋樹叶は爆発するように跳ねた彩栄椋をその目で捉えることはできず、また、その拳を避けることも出来ない。
(確実に入ったな。――けど)
彩栄椋の思考はそこで一度停止する。
気づけば彩栄椋の頭の上半分ほどが消し炭になっており、床に倒れ伏していた。目の前に立つ洋樹に傷はない。特に何かをした様子は見受けられない。ただただ見下していた。
物理攻撃はやはり効かない。今一度それを確かめた彩栄椋は次の攻撃に移る。
水分を操る能力。温度を操る能力。電気を操る能力。成長を促進させる能力。それぞれを洋樹叶に向けて使う。
海を自由自在に操ることも可能で、夏の日本を氷点下の気温に変えることも可能で、落雷を落とすことも可能で、世界中の苗木や赤ん坊を大樹や老人にすることも可能なそれらの能力を、彩栄椋はわざわざそんな大仰には使わない。
周りにある水を使ってそれらで攻撃するよりも、相手の体内にある水を操った方が火を見るよりも明らかで、そのほうが早い話、楽で強い。
温度を操れるのなら、大気を変化させるよりも、身体の一部分の温度を変えるだけでいい。それだけで人間はあっさりと死ぬ。
電気を操れるのなら、人間は電気信号で動いているのだし、直接相手の電気の流れを変えてしまえばよいのだ、それだけで人は考えることも動くこともままならなくなる。
成長を促進させる、早い話が細胞の活性化であり、傷の治りを早くすることも可能だけれど、過ぎた薬は毒となる。成長を早めるということはそれだけ死に近づくということだ。
人間は簡単に死ぬ。これらの能力をわざわざ見た目のためだけに大袈裟に放つのは馬鹿らしい。
彩栄椋はそう考え、彼を狙う人間を効率的に殺している。
触れるまでもなく、念じるだけで、思うだけで殺せる。
本来ならば、今まで行ってきた手を汚すようなことをせずとも簡単に殺せる。
手を煩わせるまでもなく、彼は思うだけで人を殺せる。
それをつまらないと感じ、やや行動的に人を殺しているのは、彼がまだ少年だからなのだろう。
(やっぱり、これもダメか……)
体全体の水分が皮膚を破るように噴射し、心臓が氷結して動きを止め、何かを考えようとしても思考が掻き乱され、指先から体が崩れていく。
意識が途切れるが、すぐに回復する。壊れた体も何事もなかったかのように元通りになる。
彩栄椋はその間にも、何度かサイコキネシスで洋樹叶の心臓を潰しているのだけれど、潰れるのは一向に彩栄椋の心臓だけである。吐き出される血もすぐに霧散する。もしも彼の血が蒸発しなかった場合、すでに休憩室の床はどす黒い赤で埋め尽くされていただろう。
その状況を傍から見れば、洋樹叶が多彩な異常を使って彩栄椋を苦しめているようにも見える。
実際は逆で、多彩な能力を使っているにも拘らず洋樹叶には傷一つ付けられないというのが彩栄椋の現状である。
とはいえ、彩栄椋は一方的に殺され続けているわけではない。すでに、洋樹叶の能力に対して大体の見当をつけていた。
(おそらく、十中八九、彼女の能力は反射か、それに類する力だろうなぁ。物理攻撃や音はまだいいとしても、サイコキネシスや経年変化とか温度変化とかの現象まで跳ね返せるとか、チートじゃあないのかなぁ……)
洋樹叶もまた、彩栄椋の異常についての大方の考察を終えていた。
(私を除く殺戮鬼のみんなの異常に加えて、そのほかにも色々な異常のオンパレード。不死身の体だからって反撃を恐れる必要もなく使いたい放題。これは他のみんなが殺されたのも頷けるなぁ……。私の異常についてもそろそろあたりをつけているはずだし。非常にやっかいだ……)
その時点では二人はほとんど動いておらず、殺し合いとしてはとても地味な、見栄えしない図が完成していた。
((でも……))
そこで偶然にも二人の思考が一致する。
((殺せないわけではない))
お互いがお互いに、殺せることを確信していた。
(彼女の反射だけど、おそらくはほとんどが自動反射のはずだ。認識できない攻撃に反応できるのはそれが理由のはずだろう。けれど、逆に認識できるのなら、自分でも意図的に反射のオンオフや場所を変更できるのだろう。それなら、むしろそこを突けば――認識できる、意図して跳ね返そうと思えるような攻撃を仕掛ければいいだけの話だもんな。指向性があるということは反射する際に一瞬でもそのエネルギーが留まるということで、その一瞬に留められない量の莫大なエネルギーを僕がぶつければいいだけの話だ。制御が出来るということが欠点になることだってある)
(たぶんこの子は私の異常を反射とかその辺の異常だと勘違いしているだろうし、それを考えたらその反射を圧倒する力技をするか、迂闊に攻撃してこなくなるはず。どちらだとしても、彼は不死身なわけじゃないのだから、殺し切ることができる)
少しの沈黙を打ち破るかのように、彩栄椋が洋樹叶に話しかける。
「今思いついたんですけれど洋樹さん、あなたってこちらから攻撃さえしなければ、無力なんじゃないですかね?」
案の定、彩栄椋は自分の力を反射だと考えたようだと、洋樹叶はそう判断し、会話に付き合う。
「さぁね、どうなんだろう。それより君さ、別に不死身ってわけじゃないでしょ? 世界から死ぬことを否定されているとか、神様に生き続けることを強制されているとか、そんなんじゃなくて、ただ純粋に、莫大な生命エネルギーが君の不死身の種だったりするんじゃない?」
彩栄椋はそれに笑顔で答える。
「さぁ? 僕だって知りませんよ」
その言葉を引き金として、先に動いたのは洋樹叶だった。愚直に、彩栄椋へと突っ込む。
一回殺しても死なないのなら、十回殺すだけ。十回殺しても死なないのなら。百回殺すまで。
それでも死なないのなら、千回殺して、万回殺して、億回殺して、兆回殺すだけだ。
洋樹叶の異常は反射ではない。攻撃されるのを待つ必要などなく、能動的に人を殺すことが出来る。また、たとえ洋樹叶の異常が反射だったとしても彼女は動いただろう。人なんて殴っても死ぬのだから。
洋樹叶よりも一歩遅れたにもかかわらず、彩栄椋は先んじて洋樹叶に拳を振るった。
反射されるのだとしたら、それをさらに上回る力で攻撃し続けるだけでいい。
そのうち限界が訪れて、簡単に絶命するだろう。
洋樹叶と彩栄椋の数瞬の攻防の後、決着は意外とすぐに着いた。
―――×××―――
そこには洋樹がいた。洋樹が仰向けで倒れていた。
洋樹叶が、腹部を彩栄少年の手によって貫かれている洋樹が、倒れていた。
「勝負は僕の勝ちですね」
彩栄少年がそう告げ、洋樹の腹から左手を引き抜く。
「がっ! っはぁ……」
鮮やかな赤色をした洋樹の血が辺りに飛び散る。
ぽっかりと空いてしまった洋樹の腹部から、血が溢れ出ている。
ただ眺めていることしか出来ない俺に彩栄少年は気づくと、洋樹を俺のところまで引きずってきた。
「殺し合いを少しだけ楽しませてくれたお礼です。どうしたって死ぬと思いますけど、博士に身体を弄られた異常者なんでしょうし、まぁあと五分ぐらいは持つんじゃないかと思います。最後ぐらい、好きな人と一緒にいたいでしょうし」
そう言って彩栄少年はエントランスホールに設置されているソファに寝転ぶ。
「さすがに、殺され過ぎました……。僕はここで寝ているので、終わったら適当に起こしてください。一応、朱鷺宮奈多を探しに行きましょう。それまではお別れの挨拶でも、なんなりと――」
目を閉じたかと思うとすぐに寝息をたてはじめた。
俺がどうすればいいのか分からず、とりあえず洋樹の血を止めようとしたら、
「――ごめん。ごめんね……、ごめんねマサぁ……。私……負けちゃったぁ……」
謝ってきた。
「喋るなよ、とりあえず病院行くぞ」
傷口がこれ以上開かないように慎重に抱きかかえる。
「無理だよ……。あの子も言っていたでしょ? それに自分の体だからね……。もうすぐ死ぬって、分かる。だから、動かさないで」
「……」
俺は洋樹を抱きしめたまま、その場に座る。
「あはっ……。私いま、マサくんにだっこされてる……。マサくんに抱きしめられてるー……。嬉しいなぁ、暖かいなぁ……」
洋樹の体は冷たい。温もりを感じられない。今も流れている血液と一緒に洋樹の体温が流れ出ている。
洋樹がそっと、俺の手を握る。
「マサってば……、本当に、すごくあたたかいね……」
そうなのだろうか、俺には、お前の手が冷たいだけにしか思えない。手は体よりもさらに冷たい。
綺麗だった洋樹の金色の髪は、床に広がる洋樹自身の血を吸って赤くなっている。
透き通るような碧い目は、焦点が合わないのか、ぼやけている。
白かった肌は、さらに白さを増し、生気を感じられない。
「悔しいなぁ……。やってられないなぁ……。せっかくさ、頑張って、告白したのに……」
ぼろぼろと、堰を切ったように洋樹の目には涙が溜まり、溢れ、頬を伝って流れる。
「叶……」
「みんなに協力してもらって、外堀を埋めてもらって、マサが逃げられないようにして、同棲生活まで漕ぎ着けたのに……」
「……………」
「初めて真崎を見たときさ……、とても、とっても冷たい人なんだろうなぁって思ったんだ……。周りにも、自分自身にも。冷めているんじゃなくて、冷たい。そんな人なんだなって思ったんだ……。そんな君なら、こんな私のことも、同じように……、周りと同じように扱ってくれるんじゃないかなぁって、周りと同じように、普通の女の子みたいに……。普通の女の子として、接してくれるんじゃないかなぁって、そんな幻想を抱いた……。だから私、真崎の周りでちょくちょく行動を起こしていたんだけどさ、真崎ってば、私のこと全然見てくれないの……。そのときわかったの、真崎ってさ、もう、見放しちゃってるんだよね。自分のことも、世界のことも、諦めちゃってる……。そしたらさ、なおさら、私の境遇のことなんか気にしないんじゃないかと思ってさ……。一人で舞い上がって、ますます好きになっちゃってさ。ごめんね……、ごめんね……。分かったように思って、勝手に好きになって、こんなことに君を巻き込んじゃって……」
「感謝するようなことではないけれど、謝る必要はねぇよ。謝らなくても、いいよ」
「ん……。じゃあ、あやまんない。えへぇー……」
力なくほほ笑む。
俺の手を握る左手とは別に、右手で俺の頬をなぞる。ゆっくりと、優しく、慈しむように、愛おしむように、惜しむように。
「真崎ぃー」
「呼び捨てか」
「マサくぅーん……」
「馴れ馴れしいな」
「あなたー」
「お前と結婚した覚えはねーよ」
「いけずぅ……」
頬をつねられる。けれど痛くない。力が足りなくて、つねるというよりも、つまむ感じだ。
さて、流れる血は止まらない。このままなら、洋樹は死ぬ。
俺は無力だ。どうしようもないほどに、どうにもならないほどに。けれど、それを悔やんだりはしない。悔やむようなことではない。人間なんて元から無力だ。そんなこと、言わずもがな理解している。
大事なのは、大切なのは、それをいかに受け止めて、受け入れることだ。
無力なことを後悔したことはない。
「なぁ、叶」
「んー?」
俺は、誰かが死んだことに後悔なんて絶対にしない。
「お前さ、俺のこと、今でも好きなのか?」
「―――うん」
それよりも、言えなかったことに、聞いてやれなかったことに後悔した。死んだっていいんだ。それは逃げじゃない。負けたわけでもない。それでも、俺がそれに関わらなかったことに、関われなかったことに、後悔した。
もう、そんな後悔はうんざりだ。心残りなんてあってたまるか。
伝えたいことは、伝える。
「俺さ、未だにお前のことが好きなのかどうか分かってなくて」
「――うん、知ってる」
「けどさ、とりあえず、叶のことが嫌いなわけでもない」
「……うん」
「分からないことだからって、怖気づいてちゃいけないんだよ。
――だからさ、俺は洋樹叶のことを好きになってみようと思うんだ」
俺のことを好きだと言ってくれた君のことを、あくまでも普通な俺のことを好きになってくれた異常な君のことを、死んでしまう君のことを。
「うん」
俺が出した結論はあまりにも抜けていて、自分でも可笑しいと思えてしまう。
でも、洋樹はそれを笑わずに聞き届けようとしている。
「あなたのことをきっと好きになるから、俺と付き合ってください」
初めての告白だった。
俺の告白を受けて、洋樹はまた笑う。痛くて苦しくて辛いはずなのに、それでも彼女は笑う。
「喜んで」
断られるとは思っていなかったけれど、それでも、その言葉が聞けて、彼女の微笑みが見れて、安堵してしまった。そんな俺の安堵が伝わってしまったのか、洋樹はくすくすとまた笑う。
「……なんだよ」
「だってマサ、それはもう、私のことを好きだって言っているようなものだよ……」
彼女の目にはもう涙はない。穏やかな顔だった。死を受け入れている、死ぬことへの覚悟が出来ている、そんな表情だ。
「そう……なのか?」
「うん、そうだよ。そうとしかありえないね。そうだと断言させてもらいます」
「そうなのか」
死にそうだというのに、あまりにも自信満々な洋樹の態度におされて、納得させられる。
すると、
「んっ」
洋樹は両腕を広げた。
「抱き締めて。もう一生離さないってぐらい、強く、優しく。彼氏にはその義務がある」
言われたとおりに抱き締める。強く、強く。一緒になってしまうのではないかと思えるぐらいに、強く。空いてしまった彼女のお腹から流れ出る血が服に染み込んでくる。彼女の命が、そうやって彼女から抜け出ていく。世界へと霧散していく。
「――マサくん」
耳元で囁かれる。
「なんだ?」
「世界で一番、あなたを愛してる」
「……そっか」
「そうだ」
終わりは必ず存在する。拒んでもやってくる。無慈悲に、無情に、無神経にも、順当に、たまに唐突に、当然のように、終わってしまう。洋樹は、もうすぐ終わる。
「あの子は勘違いしたまま私を殺したっぽいんだ。でもね、私は負けちゃった。だから、私にはもう可能性が少しもない。
「でもね、マサくんは違う。私はここで死んじゃうけれど、君は生きていく。
だから、君には呪いをかける」
抱き締めたままなので、彼女の顔は見えない。今、彼女はどんな顔をして喋っているのだろうか。
「まじない……?」
「ふふっ。のろいとまじないは同じなんだよ。だからこれは呪い、そして呪いでもある。私が生きていたことを、君のことを心から愛していたことを、君を好きになれて幸せなことを、そして、君のこれからの人生に幸があらんこと。それら全部を内包した、呪い。
「私は君のことが大好きで、君のことを愛していて、君のことが大好きなまま死ねる。大好きな君の腕の中で、君に告白されて、君に好きになると言われて、私は死ぬ」
「叶――」
「幸せだよ。ありがとう」
身体の支えを失ったかのように、俺に全身を預けてくる洋樹。俺はほとんど抵抗できず、洋樹を抱きしめたまま後ろに寝転ぶように倒れる。
洋樹は動かない。
抱き締めた彼女の体から生気を感じられない。
声を掛けようとした瞬間、
「っ――」
視界が揺れる。世界が揺れる。頭になにかが流れ込む。得体の知れない何かが体中をのたうち回るように駆け巡る。目の前がぼやける。吐き気を催すような気持ち悪さとはまた違う、体が拒絶反応を起こしているような感覚。
動かなくなった洋樹を抱きかかえたまま、為す術もなく揺れる世界を眺める。
それもすぐに収まり、視界は正常になる。
が、すぐに視界がぼやけだす。すでに体に自由は戻っている。意識も正常だ。じゃあ、どうして目の前がこんなにも滲むのだろうか――。
「あ……」
すぐに理解が出来る。
――悲しいのだ。叶が死んで、好きになろうとした人が死んで、好きになってくれた人が死んで、俺はいま涙を流している。これが悲しいということなのか、死んだ人に対して抱くべき感情、身近な人間が死んだときに当然のように抱いてしまう感情。故人を思うなんて、意味のないことなのに、意味のないことだと分かっているにもかかわらず、抱いてしまう激情。
ではない。
これは喜びの涙だ。好きな人が自分のことを好きになると告げ、好きな人に抱き締められ、最期まで好きな人に想われながら、好きな人を愛したまま、死ねることへの悦びだ。
この歓びの涙は、洋樹叶の死ぬ間際のモノだ。俺はそれを――
「押し付けられた……」
言い得て妙なことを言う。俺が洋樹にされた、彼女の言うところの 『呪い』 というのを、的確に言い表す。結局、俺は洋樹が死ぬまで彼女の異常を知ることが出来なかった。それなのに、俺は彼女が俺に掛けた呪いを断定できるほどに理解していた。
そうなのか。
彼女の異常はこれか。
だから、無垢さんは彼女を破綻していると称したのか。
だから、奈多さんは俺と彼女は近いと、似ていると評したのか。
なるほど、俺が溜め込む系統の人間だとしたなら、確かに俺と洋樹は似ていた。
洋樹は至った存在で、傷んだことのない存在で、痛みを知らなくて、悼みを知らない。
普通の俺と異常な彼女。
隔たれた境界線を向かい合うように立っていた彼女。
「さて」
洋樹の死体は消えていた。気付いたら消えていた。他の殺戮鬼の面々同様、跡形もなく消えていた。ただそれでも、彼女の肉体が消えたとしても、彼女がこの世に存在していた痕跡は残っている。俺の服に染みついた彼女の血がそうであり、彼女と過ごした日々の記憶がそうであり、なによりも彼女に押し付けられたモノがそれを肯定する。
「よいしょっと」
立ち上がる。
腕の中に彼女はもういない。彼女の重みを感じることはもうない。思い出すことしか出来ないのだ。
重くならない足取りで、俺はエントランスホールから出る。
自動ドアを抜けると、世界は橙色で満ちていた。傾いた陽が照らす全てを黄昏色に染め上げる。
トワイライト――黄昏時、またの意味を終末期。
太陽が沈み、街を闇が包むその直前。世界が終わってしまうかのような、そんな気持ちになる。とはいえ別に、俺はこの瞬間が好きでも嫌いでもない。……理由は特にないけれど。というか、無いのが理由だ。
終末期。医療などで使われる言葉。主に、末期癌や不治の病にかかった患者などが数週間後か数か月後には死ぬ時期を示す。
世界が黄昏時に包まれる。トワイライト。世界の終末期。もう少しで終わる世界。
世界の終わりとは、なんなのだろう。
それは、世界の死を意味するのだろうか。
本当の無なんて、ありえるのだろうか。
言ってしまえば、実際に無くなるということは有り得ない。
だって、世界が終わっても、そこには、終わった世界が存在するのだろうから。
それをはたして、本当の終わりだと言えるのだろうか?
わからない。まぁ、こんな考え自体、答えのない問答だ。そもそも、黄昏と終末期とでは意味が少しばかり違う。終末期とはもはや先の無い状態だ。先の見えた、終わりの見えた、終末だ。それは、その個人の生命活動に限って言えば、終わるのだ。終わりであり、無だ。もうその先は何もない。
黄昏はそのうち宵闇に変わる。けれど、その闇は時間が経てば明けるのだ。それは必ずと言っていい。そして、それが終わる日はあるのかどうかすらも分からない。だから、本当の意味で言えば、終末期と黄昏は違う。同じ言葉でも、本質は違う。それは人だって同じなのだ。
「いや、そんなくだらないことを考えている場合じゃないか」
ポケットから携帯電話を取り出し、電話帳に登録されている番号にかける。相手は電話がかかってくることを予測していたのか、ワンコールで応答した。
『はいはーい! みんな大好き奈多お姉ちゃんだよー! どうしたんだい弟くん!』
耳に響くほど大きな声を出され、反射的に耳から携帯電話を遠ざける。
「テンション高いねお姉ちゃん」
『いやー、弟くんからの電話とかテンションが上がらないわけがないからね!』
「そうですかー……」
『そうだぜー!』
「お姉ちゃんや」
『なんだい?』
「どこにいるのかは知んないけれど、面倒だから早く出てきてくれない?し」
『………あれ、バレてる?』
「バレバレだよ。というか、わざとらしい。監視カメラを動かしたりとか、エレベーターに乗ったりとか足跡残しまくりなのにさ」
『いやん、弟くんってば鋭いなー』
「いや、あれに気付けないのは鈍いだけでしょう」
「『それもそうだねぇ』」
肯定の言葉は携帯電話と後ろから聞こえた。振り向くと、奈多さんが澄まし顔で佇んでいた。いつのまに後ろに回り込んでいたのだろうか……。
「まったくさー、彩栄椋には困ったものだよ。希少価値が高くて絶対数の少ない異常者をバンバン殺しちゃってくれて……。それに、あんなに質の高い異常者を七人も揃えるのは本当に幸運だったとしか言いようがないんだぜ? やってらんなーい。本当にやってらんない」
奈多さんが愚痴る。
そもそも、あんたたちは彩栄椋を殺そうとしているんだから、何をされても文句が言えるような立場じゃないんじゃないですか? とか野暮なツッコミはしない。この調子なら、恐らく俺の真意に気付いていて、賛同してくれているのだろう。なら、わざわざそんな無粋なことは口にしない。彼女にも彼女なりの考えがあって、俺の考えに乗ってくれている。十中八九自己保身のためだろうけれど、別にいいのだ、手伝ってくれるというのならばどんな理由でも。
「さ、行こうか弟くん。世間知らずのガキに大人の汚さというものを教えてあげようぜ」
奈多さんは綺麗な宝石のはめ込まれたチョーカーを巻き付けながら、彩栄少年が休憩しているエントランスホールへと足を向けた。
残る殺戮鬼はただ一人。
朱鷺宮奈多。
最後に残ったのは殺戮鬼の中で唯一の常人。
異常者なんかに比べれば、脆くて。儚くて、薄い。そんなただの人間。
でも、それゆえに、彼女はただの人間であるがゆえに、彼女は強い。
誰よりも姑息に、誰よりも汚く、誰よりも卑怯に、誰よりも強い。
………らしい。
―――×××―――
「いやはや、最後の一人が自ら出向いてくれるあたり、親切な世の中になったものですよねー」
すでに起きていた彩栄少年が、入ってきた俺と奈多さんを見て嬉しそうに言う。
「世の中そんな便利じゃぁないよ。いいことがあったら悪いことがあると思いなさい」
人生山あり谷ありみたいなものだろうか。
山は登るの大変だ、下手したら命を落とす。谷は結構危険だ、落ちたら死ぬ。……どっちも最悪死ぬじゃん。なにそれ人生って生きているだけで辛いの? 苦行なの? 死ぬしかないの?
「けどですね、正直言って僕はあなたを殺す必要はないと思うんですよ。今まで殺した人たちみたいな能力をあなたは持っていないんでしょう? なら、僕にとっての脅威にはならなそうですし……。なにより、わざわざ人を殺したいと思うほど僕は殺人狂じゃない」
無益な殺生はしない。そんな感じだろう。
「君はそうだとしても、私はそうじゃないんだよ。ここ数年順調に進めてきた仕事がこれのせいで全部おじゃんだ。まったく、泣けてくるよ。とはいえさ、私ひとりじゃ君の眼なんかどうしたって取れそうにない。それぐらいは誰だってわかることだ。それに、私は死にたくない」
「それならちょうどいいじゃないですか。ここで僕を諦めて退散してくれれば、それでみんな幸せです」
「はっはっは、大人なめんなよクソガキ。大人の恨みは深いんだ。今駄目だとしても、君の眼を狙う人間は腐るほどいる。そして私は君の情報を他の奴らよりも先んじている。今ここで君を殺すのを諦めるのはいいけれど、近い将来、君を殺す」
彩栄少年を挑発するように、負け惜しみのようなことを言う。いや、事実これは負け惜しみだろう。実際に殺戮鬼はすでに壊滅状態だ。これは負けでしかない。殺戮する鬼を名乗りながら、たった一人の少年に殺戮されるあたり、滑稽だと笑われてもおかしくない。
そして、殺すと宣言されたからには、当然のように彩栄少年は牙を剥く。
「そう言われたからには、今ここで殺すしかないですねぇ」
彩栄少年の手が悪魔憑きで覆われる。飄々としているが、今すぐにでも殺せるということを如実に表している。
「やる気満々だなー………」 ぼそりと呟く。
だが、奈多さんは殺意を振り撒く彩栄少年の出鼻を挫く。
「彩栄椋くん。君は急いで帰った方がいいよ」
奈多さんが右手にあるPDAを眺めながらそんなことを言う。なに言ってんだこいつ。
「何言っているんですか?」
俺と彩栄少年から訝しげな視線を送られながらも、奈多さんはなんてことの無いように、
「君の住んでいるマンション、すごい勢いで燃え始めてるから。あと三十分も持たないんじゃないかな?」
とんでもないことを言った。
「……は?」
微妙な反応しか返せない彩栄少年に奈多さんは言葉を続ける。
「君は危機管理能力が低すぎるんだよ。危険性がないってことを直感で判断が出来るのだとしても、自分にとって害になる人間を家に招くなんてありえない。それに、君は自分のことをぺらぺらぺらぺらと話し過ぎだよ。話を信じすぎだし、真に受け過ぎだ。嘘かどうかも疑わないなんて、どうかと思うよ」
「なにを――」
「可愛い子だよね。君が弟くんに頑なに名前を教えようとしなかった女の子」
「――え?」
「無用心だよね。一番大事な人を、植物人間状態で他人の力を借りなきゃ動くことの出来ないような、生殺与奪の権利を完全に放棄している幼気な少女を、わざわざ自分の暮らしている場所に、そのまま放置してくるんだからさぁ」
「っ、あんたっ⁉ あの子になにを――」
「私が首に付けているこのチョーカーだけど、これは私の体温と脈拍と発汗を五分ごとに感知している」
さっき首に着けていた奴か。けっこう似合う。
「もしも、それらを一つでも感知しなかったり何かしらの異状があったりした場合、私が少女の首に装着しておいた鋭利な刃物とワンセットになっている機械はどうなると思う?」
奈多さんの懇切丁寧な説明を聞いて、彩栄少年の顔に焦りが浮かぶ。どんな異常を持った殺戮鬼と対峙しようが慌てることのなかった彩栄少年が、初めて見せた不安な表情。
「そんなこと、一体いつ――」
「君はさ、その年にしては殺すことに長けすぎなんだよ。逆に、殺すことにしか長けていない。あまりにも強すぎるから、強力すぎるから、それだけで十分だった。リスクリターンとか自己保身とか、そういうのがまったくなっちゃいない。自分の力を過信しすぎて、守るべき存在というのがなによりの弱点であることをちゃんちゃら理解できていない。まだまだ甘いんだよ、クソガキ」
奈多さんは笑みを浮かべる。大人特有の卑屈なあの笑みだ。人生の酸いも苦いも辛いも味わいつくした大人が浮かべることが出来る嫌らしい笑みだ。
「汚ぇ……」
「弟くん、君は後でお仕置きだ」
酷いや……。
思ったことをそのまま言っただけなのに……。これが大人か。これが社会か。思いのままに喋ってはいけないとか、嘘だらけの社会になってしまうじゃないですか。……もう手遅れか。
「嘘である可能性だってありますよね」
彩栄少年は希望的観測を言う。けれど、本人もそれが希望でしかないと分かっているはずだ。
「それが本当だったときの可能性を考えた方が堅実的だよ」
余裕綽々な奈多さん。まぁ、そりゃそうだ。嘘にしろ本当にしろ彩栄少年はそれをここで確認するすべがない。ならば、俺らに構っている場合ではなく、急いで向かうしかないのだ。
「ですよねぇ……」
「ほらほら急がなくていいの? 私たちなんかに構っている場合があったら、いや、私に構っていなくても、女の子が死んじゃうよ?」
自分の圧倒的な優位性を確信してる奈多さんに、俺は申し訳程度に横槍を入れる。
「あの、お姉ちゃん……、これは普通にマズいんじゃないの?」
「ん、 どうしてかな?」
どうやってったって状況的には詰んでいるのだ。将棋風に言うのなら王手で、チェス風に言うのならチェックメイトで、推理小説風に言うのなら『こんなところにいられるか! 俺は一人でいる!』みたいな。
それは誰が? 俺でもなく、奈多さんでもなく、彩栄少年でもなく、名も分からないあの少女だ。
「いや、だって、ここから彩栄少年のマンションまで高速道路を使ってどんなに急いでも最低一時間以上は掛かるんだけど……。それってつまりさ、どうしたってあの女の子は死ぬんじゃないの?」
あの少女が死んでしまうということは――そこから導き出される結論では、奈多さんの優位性の崩壊なのでは?
だが、そんな俺の心配は奈多さんではなく彩栄少年が杞憂にする。
「そうでもないですよ真崎さん、僕がやろうとすれば、ここから自宅まで一分もかけずに帰ることが出来ます」
「あ、そ……」
規格外過ぎる……。――あれ? つまりは、それって、
「――あぁ、そうか」
俺が思いついたことを彩栄少年も思いついたようだ。
「初めての事態で気が少しばかり動転しましたけど、全然大丈夫だ。なんだ、簡単じゃないか。今ここであなたを殺して、その機械があなたの死を感知する前に、あの子に付けられた機械を壊せば済む話」
彩栄少年は安堵し、再び奈多さんに殺意を向ける。それでも、それを奈多さんは何処吹く風だとでもいうように涼しい顔して受け流す。
「そんなのは分かり切っていることだよ。私がそんなことの対策をしていないとでも? こうして手動で機械を作動させるスイッチだって――」
ポケットから取り出したスイッチを見せようとしたとき、奈多さんの言葉が急に途切れた。というか、彩栄少年の手によって止められた。五メートルはあった距離を音もなく風もたてずに一瞬で移動し、奈多さんの首を掴み、スイッチをその手から取り上げていた。
「余裕こいてんじゃねぇですよ。僕はあなたを触れるまでもなく殺せるし、あなたが死んだと知覚する前に肉塊にすることも出来るんです。殺すことに長けているだとか、殺すことにしか長けていないとか、散々に言ってくれていますが、今まではそれで十分だったし、これからもそれで十二分なんですよ」
みしりと、奈多さんの首を握る手に力が入る。
「がっ――、っ――」
気管を強く握りしめられ、生命の危機というものをそれなりに感じているだろうにもかかわらず、彼女の表情に焦りは見られない。今まさに彼女の命を奪おうとしている彩栄少年なんかには目もくれずに、俺を見て、嗤った。彩栄少年がここで勝ちを確信したように、奈多さんも確信したのだろう。自分が殺されないことを。
ズガン
と、鼓膜を劈くような破裂音が響いた。
その音と同時に彩栄少年の頭は弾け飛び、奈多さんを掴んでいた手はその力を失った。
「げほっ、げほっ……。あー……」
十数秒だったとはいえ、首を握りしめられていたのは辛かったのだろう。奈多さんは咳き込みながらそのまま後ろに座り込む。だが、頭が吹き飛んだ彩栄少年はその比ではない。受け身も取らずに鈍い音を立てて床に倒れ込む。
だが、この程度で逃げられると思うなよと、地面へと倒れ伏した彩栄少年の躰は即座に回復を試み、頭を再生させる。――それより早く、今度は上半身が吹き飛んだ。上半身が弾け飛ぶと同時に両腕と両脚も千切れ飛ぶ。
俺は音の正体である、部屋の四隅から生えだした鉄の塊を見た。
「………銃?」
ミリタリー関係に弱い俺は、見て思ったままのことを呟いてしまった。
「特製の自動重機関銃だよ。わかりやすく言えば自分で勝手に動いて自分で勝手に獲物を撃ってくれる便利な子」
再生を続ける彩栄少年を一方的に撃ち続け、完全再生を許さず、その身体を破壊し続けるごつい鉄の塊を見ながら奈多さんは解説をしてくれた。
「この子は言ってしまえば馬鹿すぎるんだよ。自分の弱点というものを簡単に晒し過ぎだ。弱点というのはあの女の子だけじゃなく自身の弱点もだ。自分の能力が殺戮鬼の上位互換であり、だからこそ弱点を知り尽くしているつもりだったんだろうけれど、すごく、すごーく簡単なことを忘れているんだよ」
頭と四肢を12.7x99mm NATO弾――とりあえずデカくてヤバい弾(by朱鷺宮奈多)――に貫かれ続け、破裂させられ続け、辺りにその肉をばら撒く彩栄少年を見て、へらへらと奈多さんは笑う。
「上位互換ということは本質が同じってことで、殺戮鬼の弱点がそのまま君の弱点になるんだよ――って、まぁ、その状態じゃあ私の声は届いていないだろうし、届いたとしても文字通り手も足も頭も出ないんだけどね」
亀かよ。
「殺戮鬼が結局は人間であるように、君もまた人間だ。人間の子供が、人間の大人に勝てると思いあがっている時点で、お察しだよ」
大人汚い。超汚い。
「たかが常人を超えた程度の力を持っているだけで調子に乗るな。人間なんてそもそもちっぽけな存在で、そんな人間が主観的とはいえ自らを生態系の頂点として名乗らせている要員こそが知恵であり技術だ。君がその程度の力で胡坐をかいていちゃ、人類を倒すことなんて当分無理だね。その程度で、人間に勝てると思うなよ、侮るなよ。お前はちっぽけでか弱い存在だ。ただのクソガキに過ぎないということを、自覚しな」
相手が聞こえない、反論できないのをいいことに言いたい放題の奈多さんだった。
「君が不死身なら殺し続ければいい。殺されることに慣れているのなら、その慣れを払拭するぐらいに殺し続けて精神を殺す。生きることを嘆くようになるまで、生きてしまっていることを恨むようになるまで、延々に、延々と、永遠に、殺し続けてあげる」
彼女の声が終わると同時にさらに自動重機関銃が四丁増えた。
「……お姉ちゃん、なんでこのビルにこんなの仕込んであるのさ?」
ずがん、ずがん、ずががん、ずがずがずがん。と小気味よく彩栄少年を打ち殺す自動重機関銃を余所に俺は奈多さんにツッコミを入れる。
「殺戮鬼の奴らが裏切ったとき用でね、威力と弾速のおかげでかなちゃん以外の殺戮鬼のメンバーは無力化ないし殺すことが出来る特別性」
「仲間じゃないのかよ……」
「裏切らなければ大事な仲間だったよ。裏切るのなら、殺られる前に殺っていたのだけど」
「さいですか」
上半身と下半身を交互に破裂させている彩栄少年を見ながら、俺は口角をひくつかせた。
「んー、けどこの子さ、どれだけ殺せば死に切るのかも不明だし、もしも重機関銃に充填されている弾を全てを撃ち尽くしても死ななかったりしたら、私がまたピンチになっちゃうんだよねぇ」
やれやれだよ、と嘆息しているが、全然困ったようには見えない。
「というわけで弟くん、後は頼んだ」
ぽん、と俺の肩を叩いたかと思うと、彼女は外へ出ようとしていた。
「ここに来ての人任せですか」
「印象が悪くなる言い方をするねぇ、これは引継ぎだよ。むしろお膳立てかな? 弟くんはこの子に言いたいことやしたいことがあったんでしょ? それの為の場の整理だよ」
奈多さんはそう言って微笑むと、軽い足取りで出入り口へと向かい、外へ一歩を踏み出したところで振り向き、手を大きく振った。
「それじゃ、私は適当にトンズラこくとしますかー。重機関銃の弾もあと三分ぐらいで尽くだろうし、事が終わったら連絡してねー。拾いに行くから」
手を振り返そうかと思って、忘れていたことを思い出す。
「姉さん、その前に首のチョーカーはもう止めちゃってください。今からは必要のない物なので」
「んー、もうこれの出番はなさそうかなー?」
「えぇ、お姉ちゃんが首絞められたから異状を検知しちゃっていると思うので、データが送られる前に電源を切って下さい」
「これの製作費高かったんだけどなー」
と、ぶつくさ言いながらもチョーカーに手を回し、宝石を何度か回転させた後、首から外した。
それを大事そうにポケットにしまって、
「健闘を祈るぜー」
そう言い、また大きく手を振って、奈多さんは出ていった。
―――×××―――
それから、三分間。自動重機関銃は奈多さんの言う通り彩栄少年のことを殺し続けた。
床は何千発もの銃弾によって大分抉られていたが、その上に倒れる彩栄少年は無傷だった。どうやら奈多さん特性の異常者殺しでもこの少年を殺しきることは出来なかったようだ。とはいえ、流石に殺され過ぎたのか、肉体が回復し、服もついでのように修復されたのに彩栄少年が立ち上がる気配はなかった。
試しに近づき、その顔を覗き込んでみると、気絶しているようだった。
「こういうのも、弱点に分類されるんだろうなぁ」
そう呟きながら、俺は彩栄少年を揺すり、起こそうと試みる。一分ほど揺らすと、彩栄少年は気付き、目を覚ました。そして、奈多さんがもうこの場にはいないということを理解した。
立ち上がり、奈多さんを追いかけようとする彩栄少年の前へと立ちふさがる。
――行かせはしない。
俺には彩栄少年への恨みがある。
最愛の人(予定)が殺されたのだ、恨まない方がおかしい。
「彩栄くん」
今までの俺は見ていることしか出来なかった。諦観者を自称していたし、傍観者に憧れていた。それでいいと思っていたし、それで困ることはなかった。
「なんですか真崎さん、邪魔しないでください。あの人を殺せば、僕の当分の安寧は確約されるんです。ただの人間で、どんなに急いだところでそう遠くへは逃げられないのだから、今からこの周囲を探し回れば簡単に見つけられるはずなんです」
そうは言いながらも俺との会話に時間を割き、すぐに俺を殺さないあたりが君のダメなところなのだろう。結局はただの人間で、自分を殺すすべを持たくて、何もすることが出来ない弱い存在。そうやって決めつけて、バカにされたことや脅されたことに怒るあたり、やっぱり君は子供だ。未熟なガキと言われても仕方がない。
そんなことをつい口に出しそうになるが、言わない。
彩栄少年の頭に手を乗せる。人の頭を撫でるときのように。
「?」
俺に一切の脅威がないと分かっているから、危害なんて俺には皆無だと確信しているから、俺のその動作には疑問しか抱かない。警戒心を持てていない。うん、バカだ。奈多さんが死なないことを確信できるわけである。
眉を寄せることしかしない彩栄少年に、俺はにっこりと微笑む。
大丈夫だ。使い方は心得ている。失敗なんてしない。失敗する筈がないし、失敗出来る筈がない。
この慣れ親しんだ感覚も、この落ち着きも、この自分の一部を抜き取るような感触も、全部が全部、押し付けられているのだから。
このイベントは消化試合だ。
彩栄可想博士によって生み出された異常者を全て殺され、残るは二人となってしまった殺戮鬼の完全敗北はすでに決している。本来ならこんなことをする必要がない。だから、あえてその理由を挙げるとしたなら、奈多さんと俺のごくごく個人的な恨みだ言えるだろう。
俺が手を放すと同時に、彩栄少年に異変が起きる。
「がぁ⁉」
瞳孔が開き、苦悶の表情を浮かべて俯くと同時に吐いた。
「あぁあああぁあぁぁああ――! がぁあああああああっぁぁあああ‼」
俺に振る舞われたのと同じ料理が胃液とともに床に飛び散る。びちゃびちゃと消化途中の食べ物が彩栄少年の口から溢れ出てくる。
「――――~~~~っっっ! ぁぁああーーーーー‼ ぅあああああああああ⁉」
既に胃袋の中身は出し尽くしているのか、口から流れ出るのは胃液だけになっている。胃液だけになっても、それでも吐くことを止めない。
「おっと」
吐瀉物が付着するのが嫌なので、少し距離を置く。吐くのが辛いというのはとても理解できるので、背中をさすってあげようかと思うが、まぁ、いいかと断念する。少しでも苦しむべきだと思ったからだ。
さきほどよりは治まったとはいえ、未だに吐き続けている彩栄少年を俺は眺める。
「ぉえ……、ぐぅ……、はぁ……」
それから一分ほど吐き、話が出来る程度には落ち着いてきたっぽい彩栄少年が俺を睨む。
吐くというのはかなりキツい。周りが見えなくなるなんてザラなのだが、近くには未だに俺がいたことは把握していたようだ。
「真崎さん……、僕に、なにをしたんですか⁉」
その朱く濁った眼に涙を溜め、怒鳴るように俺に質問をぶつけてくる。まぁ、聞かれたことは答えようじゃないか。人生の先輩としての役目だ。
「彩栄くん、君はさ、彼女――洋樹叶の能力を反射だと思っているよね」
「それが、いったい……」
「実際のところ、彼女の異常は細かく分けると五つあるんだよ。変換、圧縮、蓄積、解凍、放出。まぁ、これらは一連に扱わないと使うことが出来ないから、一括して一つの異常として彼女は使っていた。便利な異常だよ。いや、彩栄くんに合わせるなら能力かな? どっちでもいいか。――ともかく、これはとても使い勝手が良くて、効率が良すぎて、制御が簡単で、無垢さんの言っていた通り人間を相手取るなら人類を滅ぼすことだって可能だ」
「それが、どうしたって言うんですか……。というか、真崎さん、あなた、洋樹叶の能力は知らないって」
「うん、知らなかったよ。彩栄くんに教えたときには俺は知らなかったんだ。嘘は言っていない。いや、真実をありのままに述べていたよ。――さてさて、そんな彼女の能力だけどさ。これが一番危ないのは、それらが物理法則以外にも適用されるということなんだよ。これが示すところはつまり……あぁ、いや、これは説明する必要がないか。彩栄くんは反射だと仮定していたとはいえ、それについては分かっていたんだよね」
彩栄くんが、彼女の能力を勘違いしたまま彼女を殺したことも押し付けられているので知っている。
「彼女の異常はそれらを全てにおいて適用させる。現象にだって彼女の異常は割り込める」
だから、存在そのもに作用する言霊にすら対応することが出来た。
「彼女の敗因は簡単だ。純然たる力の差。彩栄くんのバカ力に彼女の蓄積が耐えられなかっただけ」
そう。それだけだ。真正面から馬鹿正直に突っ込んでしまった彼女が悪い。
「それが、洋樹叶の能力がそれだったとしても、それがどうしたというのですか! もう洋樹叶は死んでいます。死んだ人の能力を今更教えられたって――‼」
「じゃあ彩栄くん、君はどうして、今俺を殺していないのかな?」
彩栄少年はすでに吐き気が治まっているのか、口を手で押さえることもせずに俺を睨んでいる。もう動けるはずなのに、もう俺を殺せるはずなのに、俺に何かしらのことをされて吐いたと理解しているのに、俺は殺すべきだと判断できているはずなのに、俺は無傷だ。
「っ……」
震えている。寒さに耐えるとか、武者震いとかではなく、何かに怯えるかのように、彩栄少年は肩を抱いて、背中を丸めて、震えている。
「彼女の能力はさ、言ってしまえば他人に押し付ける能力なんだよ。反射ではなく、押し付ける。外傷も心的外傷も言葉も感動も感情も感傷も幸福も疲労も苦悩も怒りも悲しみも何もかもを、その能力すらをも、他に押し付けることが出来る」
無垢さんが言っていた他とは壊れ方が違う。という意味が分かった。殺戮鬼の面々は、人を殺すことを自覚して、普通とはズレて、壊れたのだろう。でも、彼女は違う。彼女は人を殺すことを自覚する前に溜め込んだのだ。だから、彼女には善とか悪とかそういった以前に、人を殺すことへの自覚が足りていない。壊れずに、純粋無垢に、人を殺していた。それが一番壊れていることだとすら自覚できずに。
「じゃあ真崎さん、あなたは洋樹叶の能力を――」
「そうだよ。別に隠し立てするようなことじゃないしね。俺は彼女が死ぬ間際にこれを押し付けられた。だから、今こうして君に仕返しをしている」
これで晴れて俺も異常者の仲間入りだ。さてさて、これはこれで面白いことだ。なにせ人工的に誘発させた異常をただの人間に移したというのだから、今は亡き彩栄可想博士からしたら絶好の研究材料になっただろう。
けれど、そんなことを考えるのはここでは俺ぐらいで、彩栄少年はというと。
「だとしても真崎さん、じゃあ、あなたは何をしたんですか⁉ あなたは僕になにを押し付けたというんですか! どうしてあなたを殺そうすると、こんな、こんなにも体が震えるんですか⁉」
自分の身に起きている理解不能の現象を必死に知ろうとしている。今まで味わったことのない得体の知れない何かをどうすればいいのか分からずに狼狽えている。
「第一にね、君たちは物騒すぎるんだよ。口を開けば殺す。手を振りかざせば殺す。指を向ければ殺す。まったく、君たちはどういう世界の住人なんだと苦言を呈したいね。俺たちは人間なんだよ。弱くて弱くて弱い人間だ。殺すまでもなく、何かをするまでもなく弱いんだからさ、もっと平和的に行こうよ」
「なにを――」
「俺は君たちと違って、君なんかと違って。人を殺したことがない。人を殺してしまいたいと思ったことがない。そら冗談で、本当は思ってもいないような軽々しさで言ったこともあるし、考えたことだってある。今となっては、俺は殺戮鬼で言うところの異常者で、君の言う能力者だ。それでここ数日のことを踏まえれば、俺と君たちのことを区別することが出来るのは殺人の経験があるかどうかだけなんだろうね」
なんていうことはない。俺は簡単に境界線を踏み外した。踏み外した先には、すでに彼女はいない。
彼女がいた場所に立ってみると、なんてことはない、特に何も変わらない。
人はそう簡単に変わらない。
立ち位置が変わっても、価値観は変わらない。人生観が変わっても、人格は変わらない。
「どうして、そんなに――」
「そんな、人を殺したことのない俺だけどさ、人が死ぬのを見たことはたくさんあるんだ。人の死体って、見ていて気持ち悪いよね? 俺は気持ち悪かった」
自身が生き物であると認識していた物体の中身を晒され、血液などの体液によって濡れた生々しい肉や骨や内臓を見せられたら、常人なら普通ではいられない。そんなものを突き付けられた日には、精神が不安定になる。
「それでも俺は溜め込むタイプの人間だったから、無理して受け入れて、無茶して飲み込んで、無駄に自分を抑えた。まぁ、これについては無垢さんに言われるまで自分でも気づかなかったことで、実際に今こうしてみてやっと実感が出来たことなんだ」
「だからどうしたっていうんですか」
彩栄少年は吐き捨てるように俺の言葉を無下にする。いやいや、人の話は最後まで聞こうよ。吐き捨てるのは胃の中のモノだけにしておきなさい。
「俺は君たちみたいに特別じゃないからね。人格も環境も普通だ。どうしたって普通になってしまう。普通万歳とか言ってみたりする」
「目の前で何人も殺されて、恋人を殺されて、その恋人に変なモノ押し付けられて、そしてその恋人を殺した僕の前で平然と喋っているあなたのどこが普通なんですか。十分に、立派に、異常ですよ」
「そんなことはないよ。俺は今でも普通だし、これから先もたぶん普通だ」
こんな異常な能力を押し付けられた程度で、洋樹叶の感情のおまけで押し付けられた程度の異常で俺は変わらない。
「そんなわけないでしょう。こんな経験をした人間が、この先、普通でなんていられない」
普通じゃないくせに、知ったようなことを言うんだな。……まぁ、実際に知れたことか。
だから、俺は言ってやる。
なんてことのないように、罪悪感など微塵も出さずに、当然のように、必然であるように。
「うん。だから君に押し付けた。俺が殺戮鬼に会ってから感じた、人が人を殺す気持ち悪さと、人があっさりと死ぬ吐き気と、それを当然のように受け入れる君たちの醜悪さ。その他諸々、常人である俺が抱いた人の死にかかわる全ての醜い気持ちを、全部、あますとこなく、君にあげた」
彩栄少年は俺が何を言っているのか理解できていなかったらしく、一時停止ボタンでも押したかのように硬直し、
「………………―――――っ‼」
すぐに理解した。うむうむ、理解が早いのはいいことだ。
「いや、でもそれならっ、真崎さんの気持ちを押し付けられたのだとしても、それが真崎さんの感情なのだとしたら、こんな、こんなにも、これが――人の死が、人を殺すことが気持ち悪いはずがない! だって、あなたは平然としていたじゃないですか⁉ 目の前で人が死んでも、目の前で人がどんなふうに殺されても動じなかったあなたが、こんなにも人の死に対して敏感な筈がない!」
異議を申し立てる彩栄少年。それにしても、酷いことを言うな。傷つくぜ。
「それは俺が鈍感だっただけだよ。俺が溜め込むタイプの人間で、なによりも自分に対してとても無自覚だったからそう見えただけさ。だから、俺が平気そうに見えたのは俺がそういう人間であっただけで、実際にはとても気持ち悪いと思っていたし、とてもじゃないがこれ以上は関わりたくないと思っていたんだよ。これはいわば彼女の能力の一部みたいなものかな。感情を押し込めて、溜め込む。何事もなかったかのように振る舞う。まぁ、こんなのは異常でもなければ特殊でもない、君の言うところの能力なんかじゃなくて、俺という一個人が持つ習性――人間性みたいなものだよ」
まぁ、今の彩栄少年からしてみればそれはどうでもいいことか。それよりも、
「どうだい彩栄くん、人が死ぬって、人を殺すって、どんな気持ち?」
俺はもう分からない。それがなんなのかを思い出せない。気持ち悪いと記憶してはいるが、もう、それはただの情報だ。思い出ではなく知識。溜まった経験はもうすべて彩栄少年にあげたから、俺の中には知識しかない。気持ち悪くて悪すぎて吐きたくなるような感覚だったとしか記憶にない。
「最悪だ。こんなの知りたくなかった」
「それはよかった」
苦虫を噛み潰したような顔をする彩栄少年に俺は満足する。――そういえば、苦虫ってなんなのだろうか?この言葉は有名だからよく聞くけれど、苦虫という虫については聞いたことがない。イメージ的にゴキブリさんがぴったりだけれど、いやいやいや、ゴキブリを噛み潰すとか想像するだけで駄目だ。というか、虫は全部苦そうなイメージがあるよな。
「なに現状に似合わないようなことくっちゃべってるんですか、知るかよ苦虫のことなんて」
「……君たちはナチュラルに人の心を読むよね」
ジト目で批難する。だが、彩栄少年は心外そうな顔をする。
「読んでいませんよ。いや、読むことは出来ますけど、読むまでもなく真崎さん口に出しているじゃないですか」
どうやら、考えていたことが漏れてしまっていたようだ。
「それは失礼したね。ごめんごめん」
「簡単に謝らないで下さいよ。こんなものを押し付けたのに、そんな軽く謝るとかどういう神経しているんですか。そんなあなたは、一体何がしたかったんですか?」
別に、人死にに対する嫌悪感を押し付けたことを謝ったわけではないのだが。
「なんだい彩栄くん、分かりきったような質問をしちゃって。君は本当に訊ねるのが好きだねぇ。これがあれか、今流行りの質問系男子ってやつかな? まぁ、そんなの決まっているじゃないか」
愛するはずだった、好きになるはずだった、大好きになるはずだった女の子を殺されて、
それでも俺には君を殺す手段なんかなくて、
そもそも俺には君を殺すつもりなんかなくて、
そんな俺は普通の人間だから、
普通に君を恨んで、普通に君に嫌がらせをしたくて、普通に君に罰を与えようと思っただけ。
別に、彩栄少年が何かの罪を犯したわけではない。いや、殺人が重罪な日本社会では、彼女を殺したことは十分に罪として扱われるけれど、法が通じるような存在じゃない。
だから、これは俺が個人的に送る罰だ。彩栄少年へと贈る罰。
「人を殺せないっていうのは、殺そうと思えないってのは、殺すことが出来ないというのは、君みたいな人間からすればとっても辛いことでしょ?」
それも、今まで人を当然のように殺していたのなら、
人を殺すことに罪悪感を抱くことがなかったのなら、
「人が殺される気持ち悪さを知ったのなら、今まで人を殺していた君は、俺なんかよりももっと、それを噛み締めることが出来る筈なんだから」
「思い知っていますよ、実感しています」
俺は彩栄少年のその言葉を聞けて、そのますます濁った眼を見ることが出来て、
「そっか」
とても満足した。その言葉が聞ければそれで十分だったので、それで確証を得ることが出来たので、
「じゃあ、早く帰ったら? あの女の子燃えちゃうよ?」
彩栄少年に帰宅を促す。
さすがの俺も、大切な人が死ぬ思いをさせたいわけじゃあない。
だから、彩栄少年にとって大事な少女が死ぬことを推奨はしない。
「俺たちなんかに構ってないでさ」
「言われるまでもなくそうしますよ」
もう吐き気は治まっているのか、ゆっくりとだがふらつくことなく立ち上がり、確かな足取りで出入り口へと歩いていく。俺はそれをのんびりと眺める。
橙色をした明るい空の彼方に黒が侵食し始めていた。
明けない夜が無いように、暗まない昼は無い。
――実際には極夜とか白夜があるけれど、まぁそんなのは例外だし、最終的には明けるし、暗む。
黒が強くなり始め、橙色の光が弱まった世界の前に彩栄少年は立つ。
外へと一歩を踏み出す。そして、こちらを振り向き、
「苦しみやがれ、バーカ」
子供のような悪態をついて、彩栄少年は消えた。
こうして殺戮鬼と彩栄椋の物語は呆気なく、簡単に、尻切れ気味に、あっさりと終幕した。
結果として言えば、殺戮鬼はほとんどの異常者を殺され、彩栄椋は人を殺すことが出来なくなり、朱鷺宮奈多は築き上げた業界での地位を失い、俺は最愛の人が殺された挙句に異常を押し付けられた。
散々だ。なんというか、もう、散々だ。
結果的には誰もが何かを失い、何かを得ることも出来ずに傷付いた。
まぁ、人生なんてそんなものだ。
何かを得ては失う。
どんなに掴んでも、せき止めても、手の中を零れ落ちていく。
最期には、すべてを失う。何もかもを失う。