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殺戮鬼  作者: 海山優
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2 次なる導入は非日常との日常というのも定石

《何かを成し遂げたいと思った。何も成し遂げられないのだと知った》

by四谷真崎


 目が覚めると、目の前には見知らぬ天井が広がっていた。

 おいおいマジかよ、とうとう俺も見知らぬ天井なんて言葉を使っちまうような年齢になっちまったのか……、なんて感慨深く現実逃避をしているが、さすがにこの状況は色々とおかしい。

 ちょっとまて、寝起きだからだろうか、頭がぐわんぐわんしていて上手く理解できない。

 とりあえず起き上がろうと思い、上体起こしの要領で身体を起こそうとすると、ぐっ、と、右腕が何かに引っ掛かった。

 そして、右腕がある方からは、

「ん………」

 なんて呻き声が聞こえた。――夏とはいえ、クーラーが効いていて涼しい部屋なのに、冷や汗が出た。聞こえていなかったことにしたい……。けど、現実逃避なんかしてはいられない。現実なんて逃げられるものではない。現実なんてのはむしろ、自らが蹂躙し、変革し、調整し、調教していくものだと思う。

すいません、格好いいこと言いたかっただけです。そんなこと思ったこともありません。現実からは逃げてばっかりです。逃げ切れたことは一度もありません。

 そして、意を決して(現実と向き合うことに)、そちらの方向に、ぎぎぎ…… と、5・56でも注した方がいいんじゃねぇの? とか言われてもおかしくないレベルで首を軋ませながら回すと、そこには――

 可愛い可愛い女の子が寝ていました。

 よし、具体的に説明しよう。

 肌が白く、透き通るような長い金髪。整った顔立ちをしており、眠っているので目の色は不明。横たわっているのであくまでも目測でしかないけれど、背丈は160ぐらい(目測)。スタイルは毛布をかぶっているのでよく分からない。けれど、着ているジャージから覗く乳房はなかなか大きいです。

「わー、テンプレ過ぎるぜこんちくしょー」

 と、意味不明なことを、隣ですやすやと可愛い寝息をたてている女の子を起こさないように考慮しながら口走った。美少女の寝顔ってステキ。

 ていうか、本当にどういう状況だよこれ。こういうのはアニメとかラノベとかエロゲの中だけにしてくれよ……。俺は、そういうのは第三者視点でニヤニヤしながら、傍観者を気取りながら見るのが好きなんです。いや、確かに当事者になりたいとは常々思っていますけれど……、そういうのはあくまでも物語の中での話なんです。現実でそんなことが起きても無理です。迷惑です。困ります。

 ――いや待て四谷真崎、お前はこの程度で慌てるような男だったか?

 不測の事態? 不慮の事故? 突発的な出来事? 

 そんなの別に、取り乱すようなことではないよな。慌てる理由が無い。狼狽する必要が無い。

 二度ほど深呼吸をすると、落ち着くことができた。自分の身体を見たら裸じゃなかったし。

 俺の順応力高い。とか自分で自分を褒めてやりたい気分になった。

「よし、まずは状況の確認が先だ――」

 なんて、キリッとした顔で呟いた直後、俺の右腕から唐突に重みが消え、軽くなった。

 嫌な予感しかしなかった。

「あー、おはよーマサぁー」

 横を見ると、そんな声とともに女の子は眠たそうな碧色の目を擦り、俺に飛びついてきた。

 女の子のフライングボディプレス!

 四谷真崎はノーダメージだ!

 ――むしろ、ふくよかな胸が当たって危うく元気になるところだった。どこが? とか言及するな。

 女の子は「いやん、いやん、いやん♪」とかハイテンションで呟きながら、ひたすら俺の胸板に頭をぐりぐりと擦り付けてくる。ちょ、やめろ、くすぐったいわー。

 ――まぁ、とりあえず。どうしてこうなったのかを思い出すためにも、少しばかり、過去を振り返ろうと思う。俺は過去を振り返り、過去に執着して、過去に固執する人間だ。

 一部には、過去を振り返らないことが格好いいことだと勘違いしている頭の悪い人達がいるらしいけれど、そんなのは愚行でしかないのだ。

 過去とはつまるところ、今までの、生きてきたことへの積み重ねだ。

 失敗も成功も挫折も勝利も敗北も後悔も全てが全て、過去になる。俺らはそういった過去を積み重ねて、積み上げて、自身の人間性を高めていく。言ってしまえば、過去とは経験値みたいなものだ。その経験値によって学習した、あるいは体感したことを俺らは上手く利用して、今を生きていくための糧にする。

 それほどまでに重要なモノを、まるで足枷のように扱い、格好つける為だけに切り捨てて、成功も失敗も何もかもを振り返らない生き方なんて、愚拙でしかないのだ。

 だから、過去を振り返る生き方をする俺は――過去を忘れない生き方をする俺は、逆説的に尊く、誉められるべき人間だ。

 具体的なことを言えば、俺は幼稚園の時に大切おもちゃを壊したケイスケくんのことも、小学生の時に不可抗力な事故とはいえ俺が全治二カ月の怪我を負わされた山口の浅はかな行動も、中学の時に体育祭の朝の練習に行かなかっただけでぶん殴ってきた市川のことも決して忘れていない。

許さない……絶対にだ。

 ていうかそれ、ただ単に俺が粘着質で陰湿なだけですよね、てへ。


―――×××―――


 最初に思い出したことは、昨日のバイト帰りのことだった。

「美少女でも降ってこねーかなー……」

 そんな独り言をぽつりと真っ暗な空に向かって吐き出す。当然のごとく、俺のそんな願いともとれないような益体のない呟きなどが神様に受理されるはずもなく、言葉は霧散して空間に吸い込まれていく。

 周りには誰もいない。そりゃそうだ。そうでなければ独り言など呟かない。

 まだこれが東京などの都市ならば、こんな深夜であろうが歩き回っている人間だって大勢いるのだろう。けどまぁ、残念なことにここは都市か田舎かと聞かれれば、それらを足して二で割ったような場所だ。

 つまりは、中途半端な場所。便利かどうかと聞かれれば、ど田舎に比べれば断然文明的であるが、都市部に比べれば未開発もいいような、そんな言われ方をされる場所だ。実際に、俺の周りはみんなそう言っている。

 人によっては、その中途半端さが心地よくて暮らしやすいだとか、逆に中途半端過ぎて吐き気がする。とか言う奴がいる。

 俺自身はどちらでもなく、とくに何とも思っていない。

 というか、大半の奴がそう思うのだろうと勝手に考えている。

 だって、俺はここで生まれて、ここで育って、今の今までここで過ごしているのだ。

 俺にとってはここが当然で、普通。基準でしかない。良いも悪いもなく、プラスもマイナスも無く、この町はこの町でしかない。そして、その町が俺の世界の全てだったりする。

 この町から出れば、そこは違う場所で、違う土地で、違う世界だ。

 まぁ、違う世界だといって、それに対して恐れを抱くでもなく、憧憬を抱くでもなく、興味を抱くわけでもない。ただ、違う世界なだけだ。それだけに過ぎない。

 そのうち、高校を卒業でもすれば、俺はきっとこの町を出ていくのだろうと思う。

 東京の大学にでも通うことにして、一般的な男子高校生が憧れるような一人暮らしをするようになるのだろう。今だって一人暮らしなんだけれどね。

 とまぁ、そんなことを淡々と、とくに意味があるわけでもないが――意義すらないが、考えていた。

「ケセラセラとでも言うべきかねぇ………」

 なるようになるさ。といった、言ってしまえば究極の責任転嫁――いや、責任はどこにも移してはいない、責任を失くしただけ。いわゆる責任消失。流されるままに生きて、流されるままに死ぬのだろう。

 と、俺はその時、本気でそう考えていた。

 その考え自体に間違いはなかったのだと思う。大半どころか、ほとんどの人たちは、俺と同じように生きて、大きな決まりきった流れに身を任せて、そうやって一生を終わらせる。

 でも、一つ、俺が最初から、前提から省いてしまっていたことがある。俺はそれを「ありえない」の一言で済ませて、除外して、俺の考えの確率から削除した、そのごくわずかな、ほんの少しの可能性というものに、俺は当たってしまったのだ。

 確率的に言えば、それは宝くじを当てるのと同じくらいに起こり難い確率だったのだと思う。

「一目惚れでした! 結婚してください!」

 突然目の前に現れた金髪碧眼の少女が、その白い顔を真っ赤にしながら、そんなことを言ってきた。


―――×××―――


 よしいい調子だ。いい感じで思い出してきたぞ……。ていうか現在進行形で俺に抱きついてきている。(おっぱいがお腹に当たって色々とヤバい)この美少女はあれか、俺にいきなり求婚をしてきたのか……、求婚なんて耳にしたのは小学校のときにチューリップを育てて以来だぞ、って違うか、そっちは球根ですよね、はい。


―――×××―――


 少女の特徴を端的に述べていこう。

 中途半端な田舎ということで街灯がちらほらと存在しているとはいえ、それでも肉眼で色彩を捉えるにはいささかの困難があるはずなのだが、彼女の金色の髪はそんな物理法則を無視したような輝きを放ち、俺の網膜に強烈な印象を与える。そして、金髪だけならば染めただけと――いや、この綺麗な色を出すのには染色剤なんかでは不可能だと勝手に断じてみる――判断するのだが、それを天然であると強調するように彼女の大きく開かれた目から覗く瞳は透き通るような碧色をしている。背は男子高校生の平均を少し上回る俺よりも低く、大衆が抱くような一般的な女性の身長といった感じで、太っているわけでも、痩せすぎているわけでもない。だが、彼女の身体のある一部分は先ほどから自己主張をしている。決して激しい自己主張ではないのだが、それでも日本人女性の平均と比べればそれは明らかに斜め上を行く大きさだった。

 髪型も長い綺麗な金髪を後ろにまとめて簡素なポニーテールにしているだけで、格好だって明らかに着飾るつもりがない――というかできない、上は赤色の長袖ジャージで、そのなかに『羅刹』という文字が明朝体でデカデカとプリントされているTシャツを着ており、下が黒色の長ズボン。履いているのはそこら辺のコンビニにでも行こうとしていたのかと勘違いされてもおかしくない適当なサンダル。一応オシャレを意識しているのか明らかに本来の用途からは逸脱していると思えるごついヘッドホンを首に下げている。――とはいえ、素材が良いのかそんな出不精がしそうな格好でも意外と可愛い。

 以上。

「絶対に幸せにしますから!働きたくないならヒモでもかまいません!けれど愛は注いでください!身体だけの関係とかは嫌です!けれどプラトニックも嫌ですから、一緒に淫らな毎日を送りましょう!マサくんと私なら絶対に幸せな家庭を築けるはずです―――!」

 と、女の子は重いストレート(求婚)によって怯んだ俺に反撃(返事)を与える隙もなく怒涛のラッシュ(決意表明)をたたみかけてくる。

 どうしよう、なんかすごく変な人に絡まれてしまった。俺はこの後、無事でいられるのだろうか……。不安だ。

「えーとですね……、ちょっと頭を冷やしましょうか?」

 とりあえず、最低限人間らしい会話をするために、今もなお通販番組の社長もビックリのマシンガントークで喋り続ける女の子の口を手で塞ぐ。

「………っ! ……‼ …⁉ ……………!」

 何か言っているが、当然のごとく分からない。それから30秒ほどそのままでいると、相手も落ち着いてきたのか、喋るのを止め、俺の顔を凝視していた。――あ、ちょ、手のひらを舐められた⁉ なんだこいつ、やっぱヤバいぞ……。今もひたすら俺の手のひらを必死に舐めている。手のひらを這うような舌使いが無駄にエロい。そしてどうしてか先ほどよりも顔が赤くなっている。そして手にかかる鼻息が荒い。

 興奮してる…………。

 他人の手のひらを舐めて興奮していることに若干どころか凄くどん引きしながらも、一応落ち着いてきた女の子にコンタクトを取ることにした。

「落ち着いたか?」

 こくり、と頷く。その際の上目づかいが凄く可愛かったりするのに、頷きながらも同時進行で舐めることを止めないので色々と台無しだった……。

 まぁ、少女は落ち着いたらしいので、俺は彼女の口から手を離すと、

「あっ………」

 なんて名残惜しそうな声ともつかない可愛い声。俺の手のひらは案の定ベトベト。そして、彼女の舌から俺の手のひらの間には栄光の逆アーチが建造されていた。

 俺は、この瞬間を警察に見られたら弁解の余地なしで現行犯逮捕される自信があった。そんな自信はいらないです……。まぁ、運がいいことにこの周辺は治安が大変よく、そういった類の事件も起きていないので警察が見回りをすることも、自治体のパトロールもないことが救いだった。

 ――あれー? 目の前に変質者っつーか変態がいるような気がするよ? 治安、最悪じゃね?

 もっとちゃんと働けよ警察! 誰がてめぇらの給料払ってやってると思ってんだ(少なくとも俺は払っていないけれど)。などなど八つ当たり気味に心の中で警察を罵倒しながら(よい子も悪い子も真似しちゃダメだよ)、彼女との会話を試みる。

「えーと、初めまして。だよね? 少なくとも、俺は君に見覚えが無いんだけど……」

 と俺が問うと、少女はこくこくと何度も首を縦に振る。赤べこ人形?

「ほら、常識的に考えていきなり見ず知らずの他人に結婚を申し込むのはおかしいと思うんだよね」

 と、俺が適切な一般論を持ち出し、まず初めに求婚を断るところから始めようとすると、

「常識に囚われるようでは本当の恋はできない、おなごは恋に生きる化け物じゃ。それが一目惚れであれなんであれ、もしもお前に本当に好きな人が出来たら、そのときは常識も倫理も理性も捨ててひたすら己の欲望に従えと常にお祖母ちゃんに言われています!」

「ちょっとそのクソババア連れてこい、ぶん殴ってやる」

「なんなら無理矢理襲って、貞操を奪った責任を取らせるのもアリじゃな。とも言われました」

「アンタの祖父さんが心配になってきたぞ俺……」

 やべぇ……、何がやばいってこの人の育ってきた環境がヤバそうだ。

 ていうか、どうして俺はこんな見ず知らずの女の子にプロポーズされて、その子のお祖父ちゃんの心配とかしなきゃいけないのだろう……。

 頭を抱える俺を余所に、きょとんと首を傾げる女の子。

「まぁ、あれだよ。まず君はそのお祖母ちゃんから頂いたありがたくないお言葉をいったん忘れよう。いや、いったんどころか金輪際思い出さなくていい。オーケー?」

 と、確認すると、素直にこくこくと頷く。

「そしてまず最初の確認、一目惚れとは誰に?」

 ずびしっ! と俺を指差す。ちょ、人を指差すのはやめなさい。なんか犯人にされた気分になっちゃうでしょうが。俺は無実です。むしろ被害者なんです刑事さん!

「次に、君は誰に結婚を申し込んだのかな?」

 もう一度俺のことを指差すので、俺はその人差し指を掴み、上に捻った。ぐきり、と嫌な音がする。

「―――――ッ⁉ ――――っ‼ ―――――――ッッ‼」

 少女は声にならない声を上げて、指を抑えて地面を転げまわった。

 しばし放置すること一分、痛みが治まってきたのか、その目に涙を浮かべて女の子は俺に詰め寄る。

「いきなり指を折ろうとするとかどういった了見ですか⁉ 私の指の可動範囲は常人並ですよ!」

「いやほら、君の指なら或いは……、と思って」

「あなたが私の指の何を知っているんですか⁉」

 指どころか全体的に何も知らないんですけど。と言いたいところだったが、面倒なのでやめる。

「えと、すいませんでした」

 とりあえず謝っておくことにしといた。とりあえずって大事だよね。人間の行動原理の基本中の基本だし。

 あと、謝罪も効果は絶大だ。最近ではむしろ謝られている側の方が悪いことをした気分にさせられることが多かったりするとどっかの本に書いてあった。――あれ、おかしいな……、中学で「どーげーざっ! どーげーざっ!」と俺に対して熱烈なシュプレヒコールが帰りの会の時に起こり、俺がみんなの前で土下座しながら謝らされた時、みんな申し訳なさそうな顔に見えなかったな……、むしろ俺のことをニヤニヤしながら嘲笑っていたような……。

 と、俺が謝罪ひとつで過去の出来事を思い出しているところ、目の前の少女はというと、

「いや……、まぁ……そんな素直に謝られると、こっちもちょっと性急過ぎたのかなと、ちょっと、反省してみたり……」

 おお、すげぇなどっかの本、本当に相手に罪悪感を植え付けることができたぞ。

 ………というか、色々とやっていて気付いたのだが、これ……、俺はこの子とわざわざ向き合う必要が無いのではないだろうか? いや、なんかいつもの癖で絡まれたらとりあえず絡み返すという律儀というか難儀な性格をいかんなく発揮していたが……、そうだ、そもそも無視してもいいんだよなこの手の人間は。

 ――ていうか、無視した方がいいんだよな……。よし、

「じゃ、俺は帰って寝るから。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんによろしく」

 シュタッ。という効果音が出てもおかしくないような迅速かつ丁寧な『さよなら』のジェスチャーをしながら、俺は全速力で彼女から逃げるように走り出した。

 灯りが無ければ目の前もまともに見るとこが出来ないような夜の町だが、そこは地元住民、勝手知ったるなんとやらで走るスピードを落とさずに俺はすいすいと狭い路地を通り抜けていく。

「いやいやいや! そんなこと言わずにもっとお話ししましょうよ!」

 と、そんな俺の真横にぴったりとついてくる女の子。

 おいおい、今時のストーカーだってそこまで露骨に追いかけてこねぇよ。ていうか何この子? なんで男の全力疾走(しかも暗闇)に当然のようについてきて、なおかつそんな余裕あり気に話しかけられるの?

「ぜぇ……、はぁ……」

 俺、返答の余裕なし、当然だ。全力で走っている最中に話す余裕などあるはずがない。

「大丈夫ですか……? とっても辛そうですけど」

 そりゃ、全力で走ったら誰だって辛いでしょうが! と大声で叫んでやりたいところだが生憎、今の俺にそんなことを叫ぶような余裕はない。――ていうか、なんでこの子は走っているのにそんな気楽に話していられるんだ⁉ 体力は並みの男子高校生クラスである俺には余裕がないというのに、俺なんかより小さい女の子が余裕綽々と、なんてことのないように走っていられるのかが疑問でしかない……。

 はっ……!

 そうか………、これが噂に聞く、女子にしかできないという幻のラマーズ法呼吸による走法なのか!

(※違います)

 とまぁ、一向に離れる気配のない女の子からどうにかして逃げようと、必死になって走り続けているうちに、酸欠によって思考が変な方向にトリップしたあたりで、俺の意識は途絶えた。


―――×××―――


「…………………」

 頭を抱えていた。 誰がと問われれば、もちろん俺だ。考える人だと答えようかと思ったけど、そんな余裕は存在していなかった。――自分的に、あれは考えるよりも悩むが適切だと思っていたりする。

「きゃー! きゃー!」

 女の子改め、変態ストーカーにして無尽蔵の体力を持つ女の子は、寝起きだというのにハイテンションで俺におっぱいを押し付けてくる。やめて、寝起き(特に朝)の男の子にそんな刺激的なことしないで……。というツッコミすらできないほどに、俺は深刻だった。

 どんなに思い出そうとしても、俺の記憶はそこから先を思い出してくれない。

 つまり、あれだ。俺は、走っているのに夢中になるあまりに、酸欠になっても立ち止まらなかったから、そのまま意識を失い。目が覚めるとこの状況に陥っていたということになる。

 死にたい………、そんな変な理由で意識を失ったとか死にたい………。

 たぶん、その前の連続十一時間労働のせいで体力と思考力を大幅に持っていかれていたのも原因ではあるのだろう。けれど、それでも恥ずかしすぎて、もうこのまま死んじゃおっかなー……。とか本気で考えてしまった。

 だが、そんな一時の感情に身を任せても良いことがないというのを俺は知っている。だから、心を落ち着かせて、深呼吸をする。

 息を限界まで吐き出す。喉を通って、身体中の空気を抜いていく。全力で、目一杯まで、ギリギリまで、これでもかと、吐き出す。

 思考が/ブツブ/ツと/途切/れる/脳が/動き/を/止め………、

 意識が途絶える直前に、息を可能な限り吸い込む。再び喉を通って、空気が肺に侵入し、そのまま血液中へと溶け、身体中へと、新鮮な空気を、酸素を、送り込む。一度はギリギリまで停止しかかった脳が、目まぐるしい速度で再起動する。

「よし、大丈夫……。これで大丈夫」

 そして、自身への思い込ませる言葉。自己暗示。

「何が大丈夫なの? どこか具合でも悪いのマサ?」

 そして、俺のことを心から本当に心配しているような素振りを見せる女の子。

「………………」

 俺は、この状況を作ったであろう、すべての元凶をジト目で見る。見下すように、見下げるように。

「え、ちょ、私ってばMだから、そんな目で見られたら興奮しちゃう!」

 てれてれ、という効果音を出しながら、本当に顔を赤らませ、鼻息を荒くする女の子。

「………………………」

「いや、ちょ、さすがに無言はやめようよマサくん! なんか怖いよ‼ それは人を殺せる目だよ⁉」

 俺の目が笑っていないことに気付いてくれたのだろう。慌て始めた。

「え、えーとぉ………。ほら! そういえばあれだよね! おはようのチューしなきゃね!」

 冷房が効いていて涼しいのに、汗をダラダラと流し始める女の子。

「……………………………………………………………」

「え、ええとねぇ、これはあれかな? 私、なんか怒られるようなことでもしたかな? かな?」

「――とりあえず、正座」

「はっ、はい‼」

 素直に言うことを聞き、ベッドから降りてフローリングの上に正座する。その動作には淀みがなく、一連の 動作は流れるように行われ、彼女が正座のプロであることが分かった。

「聞きたいことがあるから答えろ。それ以外のことを言ったら右手の小指から一本ずつ折っていくからな?分かったか?」

「やることが常人とは思えないぐらいえげつないっ⁉」

「あ?」

「りょ、了解しました‼」

 目の端に涙を浮かべながら、こくこくと頷く。よし。

 本当は、さらに髪の毛を一掴み分ずつ引き千切るとか、爪を叩き割っていくとか考えたけど、さすがにそれは可哀想だろうと思い、やめることにする。

「まず第一に、お前、なんで俺の名前知ってんの?」

 と聞くと、少女は嬉々として近くに置いてあった俺の財布を開き、その中にある学生証を見せてくる。

「それはこれ! マサくんの学生証を拝借して見せてもらいました‼」

 俺は今まで、アニメやドラマやエロゲやラノベや小説などを読んだり見たりして常々感じていたのだが、理不尽に女の子に手を上げるような男(その逆もまたしかり)が、かなり嫌いだったりする。あのように、すぐさま他人に暴力を振るうという行為があまりにも野蛮で、嫌いだった。

 けどまぁ、俺は過去を振り返らない主義の男なのでそんなことは全力で忘れて、女の子に対して本気でアイアンクローを極めました。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ‼」

 まったく誰だよ……、過去が大事とか言った奴。よくもまぁそんな綺麗事を言えたものだ。過去なんていちいち振り返っていたら面倒なんだから、忘れた方がいいに決まってんだろうが。

「アンタさぁ………、他人様の所有物を勝手にポケットから取り出した挙句、その中身を拝見するとか何やっちゃってんの? バカなの? 死ぬの? これ、アレだからな? もしも一円でもお金が減ってたら盲目にするからな? 一生目が見えなくなるようにするからな? オーケー?」

 コクコクコクと、昨日から何度目かになるか分からない彼女の赤べこのような首振り(涙目)を見て、俺は嘆息する。そして、彼女の頭から手を離す。

「い……、痛いぃ~………」

 先ほどまでしっかりと握り潰されていた自分の頭を大事そうに抱え、痛みを抑えようと必死にさする女の子。

「まぁ、見たところ、財布からお金が消えているようには見えないし、いいとしよう」

 都合がよいことに、カードの類はアパートの方に置いてきていたので、そちらは確認する必要が無い。だから、一応、彼女の無実が証明された。

 とはいえ、無実が証明されたのは数ある疑惑のうちの一つだ。まだまだ、疑いはある。俺の貞操とか、俺の貞操とか、俺の貞操とかだ。

「――そういえばお前、名前はなんていうの?」

 他に聞きたいことを頭の中で整頓していると、名前を聞いていなかったことに思い至る。変態とはいえ、勝手にマサくんとか固有の呼び方をしているとはいえ、それでも、彼女は俺のことをキチンと名前で呼んでいるのだ。それならば人として、俺も彼女の名前ぐらいは知らなければならないだろう。

 そう考え、名前を聞いたのだ。だから、そこに他意はない。俺の律儀な思考の結果に過ぎない。

「あ、そういえばまだ私の名前は言ってなかったもんね! 私はね、洋樹(ようき)(かなえ)って言うんだ! 太平洋の洋に、樹木の樹で名字の洋樹! 名前は叶えるを叶って読むんだ!」

 名前を聞かれたのが嬉しいのか、両手で自分のことを指してこれでもかと自己主張をする女の子。

 ――洋樹叶。

「へぇ……」

 こいつ、金髪碧眼のくせになんでそんな日本人日本人してる名前なんだろう……。とまぁ、十人中十人が抱くであろう疑問を口には出さず――というか、話の腰を折りたくないので出さない。

「で、おい洋樹――」

「そんな名字なんてつれない呼び方しないで、か・な・えって、名前で呼んでくれたら嬉しいな!」

「おい女」

「親しさランクがグレードダウン⁉」

 ぎゃあぎゃあと喚いているが、この女――洋樹叶とやらのペースに合わせていると、いつまでたっても話が進まないと直感的に悟った俺は、自分のペースで話を進めることにする。

 その碧い目に涙を浮かべながら、日本人としか思えない流暢な日本語で女呼ばわりされたことに対する今の悲しい感情とやらをマシンガンのごとく俺に叩きつけてくれる洋樹の言葉を無視し、

「じゃあ次の質問――」

 現状把握のための質問をさらに行おうとした矢先に、首筋に衝撃が走った。


―――×××―――

 

 ぺちぺちぺちと、頬を何度も軽くはたかれるような感触を覚え、意識が戻っていく。

「ん……」

 気絶からの回復の所為なのか、寝起きとはまた違った感じに世界が混濁している。

 視界は狭く、方向感覚は曖昧で、前後の区別すらつかず、色は混ざり合い、身体は鉛のように重く、脳みそはチンパンジー並みの回転しかしてくれない。……チンパンジーの頭の良さとか知らんけど。

 少しばかり何もせずにじっと待っていると、徐々に身体は人間としての機能を取戻していく。そして、視界も鮮明となり、方向感覚を取り戻したことにより、今の自分が仰向けで寝ていることを十二分なまでに理解し、そして、雑音しか拾わなかった聴覚が肉声を拾い始めた。

「よお、起きたかい?」

 目の前には、寝ている俺の顔を覗き込むような体勢で――つまりは上から覆いかぶさる姿勢で、茶髪の爽やかな好青年が、その鍛え抜かれて六つに割れている腹筋を惜しげもなく晒すように、上半身裸で俺に話しかけてきた。

「…………最悪の目覚めです」

 と、今の心境をこれでもかと的確に表している言葉を言うと、

「そうかい、元気そうで何よりだ」

 と、俺の皮肉に対してなんの嫌味も感じ取ることができなかったのか、かはは、と明朗快活に笑う。豪快だが、それでいて嫌味が無く、自然とこちらまで笑ってしまいそうな笑い方だった。今の俺が浮かべられるのは苦笑いだけどな。

「よいしょっと…」

 そんな必要性が皆無な掛け声とともに俺の上から退いた好青年は、そのまま一直線に部屋の中央に設置されている微妙に高級そうな赤いソファに王者の風格で座った。

 僕は視界の大半を占領していた好青年がいなくなったことで、現在自分が居る場所をやっとこさ把握できるようになった。まずは真っ先に周囲を確認すると――ここは部屋だったというのが分かる。窓から覗く景色を見る限り、ここはどこか高層マンションなどの類の一室であることが理解できる。

 そして部屋の中には、八人の人間がいた。

 俺から見て右側にある赤いソファに一人で陣取っているのは、先ほど俺に最悪の目覚めを演出してくれた上半身裸で茶髪の爽やかな好青年。

 その青年とテーブルを挟んで向かい合っているのは、若干ロリな可愛らしい茶髪女の子。ランドセルとか背負ったらとても似合いそう。

 俺の対面にテーブルを挟んで座るのは、瓜二つ……とまではいかないが、なかなかに似通った外見をした、二人の中学生ぐらいの男の子が座っていた。似ているのは外見だけで、きっと中身は正反対でも真反対でもなく鏡合わせでもなく点対称でもなく線対称でもなく普通に違う人間なのだろうと勝手に予測して、勝手に推測して、勝手に結論を出した。

 テーブルから少し離れたところに設置されている大型の液晶テレビの前に座っているのに、テレビなんかには目もくれず、俺に好機と期待と母性と愛情とかそういうのが色々と混じったであろう――つまるところかなり好意的な感じに――その目を向けて輝かせているのは、見た目大学生ぐらいの、手入れが行き届いている黒髪を肩程度まで伸ばしている綺麗なお姉さんだった。いえーい、おっきなおっぱい最高。

 さて、そんな好意的なお姉さんの隣にいるのは、特に興味があるわけでもなくて、そういった流れだから仕方なくと俺の方にどうでもいいような視線を投げ掛けているのは金目金髪ロングの巨乳で眼鏡をかけていて、黒を基調としたメイド服を着ている一部どころかほぼすべての男から好評が得られそうなべっぴんさんやった。

 なんで最後の部分が関西弁になったのだろうか。

 そして、この部屋にいる人物は俺を除けば残すところあと二人になった。すでに十二分なまでに見た目からして強烈な人たちだったが、残りの二人は俺のすぐ近くにいるというのに、俺が思わず目を逸らすような人物だった。

 まず、俺の目の前、いや、正確に言うのならば俺の目の前にあるテーブルの下で土下座をしているビジネススーツをビシッと着こなしている白髪の若い女の人。俺が現状把握の為に見回している間に一度たりともその顔を上げていないので、その全貌は全然分からないが、目が覚めた人の目の前でいきなり土下座をしている人間なんてのにまともな人間は存在しない。という俺の持論のもと、無視することにした。

 そして、最後の一人であり、俺の隣に当然のように座り、今か今かと手に持ったクラッカーを鳴らそうとうずうずしている、俺が唯一名前を知っている女――洋樹叶に目を向けて一言

「で、なにこれ」

 洋樹はそんな俺の問いかけをガンスルーし、その手に持つクラッカーを俺の耳元で鳴らしやがった。

 洋樹が鳴らすと同時に、他の面子もそれぞれが持っていたクラッカーを俺に向けて一斉に発射する。

「「「「「「「殺戮鬼へようこそー!」」」」」」」」

 全員がそれぞれのテンションで俺を歓迎してくれた。

 青年は騒ぐのが好きなのか、百連クラッカーという、もはやそれは音の兵器だよ? とツッコミを入れたくなるような物を盛大に鳴らす(うるさい)。

 ロリっ娘はキラキラデコデコした小さな女の子が好きそうな可愛いクラッカーを鳴らして満面の笑み。すごく微笑ましい。

 双子(?)はお互いにクラッカーを向けあい発射、そこから持っている全てのクラッカーをお互いの顔面にぶつけ合い、最後にはキレて殴り合いに発展。意味がわからない。分かりたくない。

 黒髪のお姉さんは鳴らしたクラッカーをキチンとゴミ袋に入れている。偉いね。

 金髪メイドは、形はこなしたのだから後はいいだろうといった感じで、イチゴ牛乳を飲んでいる。

 土下座白髪は器用にも土下座したままクラッカーを鳴らし、そのまま固まった。

 俺は無意識というか、条件反射というか、脊髄が勝手に反応して「ありがとー!」とか言いだしそうになったところを危うく止まり、正常な意識を取り戻す。

 ――だからさぁ、なにこれ。


―――×××―――


 その後、特に説明も自己紹介も王様ゲームもやらず、みんなでジュースを飲んでお酒を飲んで騒ぎまくり――この間、一応とはいえ俺の歓迎会らしいのに、当の俺は空気と化していた。いや、ちゃんと言うと、空気ではない。というか、空気の方が良かった……。

 青年に笑顔で 「飲めるよね?」 とテキーラをほぼ無理やり飲まされ、結果、頭ぐわんぐわん、胃の中はしっちゃかめっちゃか、体液は逆流、再び失われた方向感覚と思考能力。そして、倒れる俺。

 結果、俺が酒に弱いという事実が発覚しました。いや、グラスに並々と注がれたテキーラを飲めば誰だって気は失うよな。酒には強い方だと自負していたんだけどさすがにアレは無理。

「いやー、まさか下戸だったなんて知らなくてさー。ゆるしてけろー」

 そうして現在、再び目が覚めたときには部屋から他の人たちは消え、青年が一人で俺の看病をしてくれていた。なんでよりによって男なのだろうか。メイドとか居たじゃんか……。

「なんですかそれ、『下戸』と『けろ』でカエルにでもかけてるんですか。全然上手くないですよ……」

 青年が差し出した二日酔いの薬を水の入ったコップと一緒に受け取りながら、俺は評価を下す。

「おーう、辛口評価だねぇー」

 かはは、と笑う。

「どちらかといえば甘党なんですけどねぇ」

 カレーとか、甘口以外は食べられないです。ほら、甘口の方がカレー本来の風味が楽しめるしさ。

「うん? そうなのか? 僕はどっちかってーと辛い方が好きだけどねー」

 青年のそういった大人っぽい対応を見て、俺はすかさずその意見に対しての論を唱える。

「いやいや、だってあれじゃないですか、青年さんは味覚の種類を言えますよね」

「えーと、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味だったっけな? ……ていうか、青年さんってなんだよ青年さんって! 僕の名前は散楽坂(さんがくざか)無垢(むく)だよー。 きっちりと覚えてくれよな真崎ぃー」

 さらりと自己紹介をされた。ふむ、散楽坂無垢。変な名前だな……、とりあえず、覚えた。

「ていうか、しっかりと俺の名前は割れてるんですね……。まぁそれはそれとして、そうです。その五つで正解です。それが基本味とされているのですけれど、さて、それを聞いて――というか言って、違和感はありませんか」

「ん? あー、そういや、辛味がないな……」

「辛味とかどうとか言ってますけど、要はあれ、刺激ですからねぇ。辛いというのは舌を痛めつけているだけなんですよ。痛覚を刺激されているだけなんですから、そんなものは味覚と呼べません」

「ほー」

 と、無垢さんに感心したという表情で見られる。……まさか、本当に知らなかったのだろうか。五基本味を知っているからてっきり知っているモノだろうと思っていたのだけれど。だとしたら、こんな知識のひけらかしのような行為を行っている自分が途端に矮小な人間に思えてきた。知らない人間に対して、自分は知っていると優越感に浸るなんて、そんな惨めな人間の真似はしたくない、なりたくない。だから、俺はさっさと言いたかったことを言うために結論を出す。

「つまりですね、そんな痛覚を刺激されてヒイヒイ言って、それに対して俺はこれが良いんだ! とか嘯いている奴は自身の舌を痛めつけて悦に浸っているだけのマゾ野郎だということです」

「えーマジでー? だとしたら何、僕もマゾってことなの?」

「そういうことになりますね」

「そっかー、確かに女の子にリードされたい願望とかあるけどさー。えー、僕マゾだったのかー……」

 さらりと願望を吐露してきた無垢さんは、自分の性癖を受け入れられないのか、少しばかり落ち込むように顔を下げたかと思うと、すぐに顔をあげ、一言。

「まぁ、それはそれでいいか。そっか、マゾだったのか」

 受け入れるの早ぇ……。

 と、少しばかり呆れながらも――呆れてばかりでは話が進まないと思い、話を――物語を進めるためにも、修正を入れよう。本題に戻そう。

「それで、ここはどこですかね」

「とあるマンションの一室だよ」

「住所は」

「××県、××市、××××」

「どうして上着を着ないんですか」

「秘密」

 俺が質問することがあらかじめ分かっていたかのごとく、淀みなく、すらすらと質問に答える無垢さん。

「××市ですか、それなら電車を乗り継いでいけば簡単に帰れるな……」

 都道府県は同じだしなーと、俺がしっかりと保身のための思考を働かせていると、

「うーん、まぁ、帰れればねぇー」

 なんて、中途半端に意味深なことを無垢さんは言ってくる。

「どういうことですかね」

 朗らかに笑い続けている無垢さんに、訝しがりながら尋ねる。

「お、聞いちゃう? それを聞いちゃうのかー……」

「その深い意味がありそうな無駄な間を止めてくださいよ」

 不快だ。もしくは不愉快だ。不可解でもいい。

「別に意味はないさ。意味なんてのはとうの昔に捨ててきたからね」

「意味はなくても理由があるでしょ。理由すらないのに無駄なことは――嫌いですから」

「おや、嫌われたかな?」

「少なくとも好きではないことが確かですね」

「じゃあ是非とも好感度を上げなくちゃね。クリスマスの予定は空けといてくれよ? 伝説の木の下の予約はしておくから」

「お友達でお願いします」

「じゃあお友達ってことでよろしく」

「…………」

 不毛なやり取りだった。まさしく何も実らないし、何も生まれない。いや、生まれたものはあるか、無垢さんとの間に友情が生まれてしまった。

「不満なら弟分でもいいさ」

「兄よりも姉が欲しいので」

 本音だ。できれば義理で。あと巨乳。

「これでも女装は得意だよ?」

「出直して来い」

「世直しは得意だよ?」

「現代で世直しができるのは政治家かテロリストだけですよ。あなたはどちらですかね」

「三つ目を忘れているよ。僕は地球外生命体、つまりはエイリアンさ」

「三点」

 十点満点中ではなく、百点満点中の三点。

「低いなー……」

 いや、上手いこと言えていないからな? 会心の出来みたいな顔していたけど、上手くないよ?

「――さて、それじゃあそろそろ本題に入らしてくれますか?」

「いいよいいよー」

「軽いなー」

「軽いでしょー」

 あっはっはと、お互いに笑い合い、俺は二回ほどお世話になったソファに再び座り、無垢さんは指定席なのか、またあの赤いソファに座る。

 俺は二日酔いの影響で未だに警鐘を鳴らしている頭を治めるために無垢さんから頂いた薬を口に含み、コップの水を飲んで空の胃袋に流し込む。何度かお世話になっていた薬であり、良く効くということを知っていたからなのか、一分もしないうちに頭痛が和らいでいく。飲んですぐ効くほど即効性があるわけではないのだけれど、まぁ、プラシーボ効果と言うやつだ。

 これで、しっかりと話す準備はできた。一度大きく息を吐きだし、吸い込む。水をもう一度飲み、舌を湿らせる。その間に、洋樹との会話に聞こうとしていたことを思いだし、今から聞くべきことを考えた。

「無垢さんは、あの女――洋樹と知り合いみたいな感じなんですよね」

 聞くべきことが多すぎて、何から聞けばいいのか分からないが。まぁ、この出だしは間違いではないだろう。

「そうだね、僕以外の七人も、そうだよ」

 七人というのは、歓迎会にいたあの個性的な面子か。

「そういえば、洋樹含め他の人たちは何処に行っているんですか」

 昨日あれだけ騒々しく騒いでいた連中は、立つ鳥跡を濁さずという言葉を真正面から対抗するような状況を部屋に作り出していなくなっていた。端的に言えば汚い。

「みんな、今日は予定が入っているからね。僕はたまたま非番だったから、ここで君の面倒を見ることにしたんだ」

 まるで、気分で俺の看病をしていたような言い方だ。俺をダウンさせた張本人であるくせに、気分次第では俺を放ってどこかに出掛けていたとでも言うのだろうか。

「じゃあ次の質問なんですけど、無垢さんは、俺のことをどれだけ知っていますか」

「本名、四谷真崎。性別、男。年齢は十七歳。××高校二年生。生年月日は――。住所は――――」

 大正解。俺の個人情報は一部の隙もなく漏れていた。

「そして、叶ちゃんの片恋相手」

 俺を指差して、キザったらしく、少しばかり格好つけて、大仰に不敵に笑う。

「………………」

 素敵やん、とか嘘吐きの関西人みたいな言葉は出なかった。

 どちらかといえば、不適切なほうの不適だ。

「まぁ、それはいいです。次の質問です。俺がここに至るまでの過程を話すことってできますか」

 これは別に、答えてもらわなくてもいい。答えられなくてもいい。聞こうとすれば、それこそ当事者である洋樹叶に聞けばいいだけだ。ただ、どうしてこうなったのかを一刻も早く知りたいという、俺のせっかちな性格が表れているだけの質問だ。

「いいよー」

 どうやら、ある程度は把握しているらしい。

「どのあたりからどのあたりまでを洋樹から聞いていますか」

「んー、最初からかなー」

「へぇ」

 それは好都合だ。

「ずっと見ていたからねー。叶ちゃんの告白から野外プレイ、そして朝チュン」

「…………………」

 俺には個人情報の保護どころか、プライバシーまで失われていたらしい。というか、野外プレイってなんだよ、野外プレイって。そんなのをした覚えはない。

「まぁいいです、それについては後で問い詰めるので、詳細を教えてください……」

 俺は二日酔いとはまた別の頭痛に頭を抱えながら、無垢さんに説明を促した。

「はいはーい、それじゃあ、真崎が気を失ってからを話そうかなー」

「あー、それじゃあそこからで……」

 黒歴史認定の基準を見事なまでにクリアしてしまった出来事を真っ先に掘り返され、俺の心は少しだけへこんだ。


―――×××―――


 走って気を失った後、そんな俺を介護するために洋樹叶は、無垢さんに手伝ってもらって俺を自室へと運んだ。そして、単なる酸欠による気絶だと分かり、洋樹叶は一安心し、そのまま俺が寝かされていた自身のベッドに潜り込み就寝。

 二人の邪魔をしてはいけないと無垢さんは気を利かせて (そんな気は利かせなくていい) 部屋を後にする。そして、翌日に洋樹の部屋に入ってみれば俺と洋樹すでに目を覚ましていて、今起きられると色々と厄介だと思い、俺を気絶させる(犯人はお前かよ)。

 そして、歓迎会の準備が整ったので夕方には俺を起こし、今度はテキーラによって撃沈。そして夜が明ける。

「というのが、まぁ、今までの経緯かなー」

 俺が気を失っていた時間は総じて短く、そこまで時間が経過していないということが分かった。

「三回の気絶のうち二回の原因がなんと無垢さんなんですけど」

 この驚きどうしてくれる。

「まぁ、そんな些細なことは置いといて」

 横にずらすんじゃねぇよ。

「じゃあ捨てといて」

 ゴミ箱に放るな……って。

「………今、さらっと心を読みませんでしたか」

「何言ってんだか、僕に読めるのは女心だけだよ」

 俺の前で常に上半身裸の人間が女心とか何言ってるんだよ。女心を知る前に親心を知りなさい。親が泣くぞ。『そんな変質者に育てた覚えはない!』とか言ってさ。

「突然ですが、女心クーイズ」

 とりあえず、本当に女心が分かっているのか試させてもらおう。

「よっしゃこいやー」

 ノリがいいなこの人。

「……………そもそも俺自身が女心とかよく分かってなかったのでナシの方向で」

 数少ない女性の知り合いであるところの店長 (自称ぴっちぴちの女の子☆) につい先日、女心が分かっていないと説教されたばっかりだったりするのだー。

 それに対する無垢さんのコメントは一言。

「なんだ、ただの童貞か」

「今の一言は確実に俺の心を砕いた………」

「ふむ、次はすり潰すのかな?」

「怖いこと言うな」

 表現が人間味を帯びていない。心をすり潰すとかどういった発想を持ってすれば思いつくのだろうか。

「……話を戻しますけど、あなた達は、洋樹と――全員と、どういった間柄なんですか」

「ん? いきなりそれを聞いちゃうの? 真崎はあれだね、せっかちなのかな?」

「そんなことはないですよ。我が身かわいさで、早く自身を安心させてやりたいんです。こんなよくわからない場所によくわからない人たちと一緒にいるのは心臓に悪いんです」

 とはいえ、せっかちというのも、大体当て嵌まるだろう。俺は怠惰に暮らしたいと日ごろから明言しているくせに、色々と、つまらないことに急ぐ癖がある。今はもう居ない弟には――兄貴は死に急いでるよね。嫌なくせに、恐いくせに――と冷めた目で評価を下された思い出がある。見下すのが好きな弟だった。兄である俺を表面上でも内面下でも敬うことは一度としてしなかったし、だからといって、蔑むこともしなかった。ただアイツは、純粋に見下していた。人間を客観視して、傍観して、『人間』を評価していた。差別せずに、区別せずに、分別していた。そう、分別が正しい表現だ。あいつは、『人間』をゴミと同等に扱って、見ていた。見下げていた。

 まぁ俺自身は、死に急いでいたのではなく、生き急いだ結果だったと自分なりに自己評価をしていたのだが、それを言ったら鼻で笑われたし。結局のところ、そんなことを言ってきた弟はもう居ないので、真実というか、真相というか、深層というか、俺の深層心理を的確に評価してくれる人間はもう消えたのだ。

 少しばかり話が逸れたが、だから、だから、俺は彼らについてを聞こうとした。真っ先に聞くべきことはそれだったのに、臆病にも躊躇って、少しばかり迂回して、回りくどくなったが、彼らの実態を訊く。

 無垢さんはそんな俺に対して――聞くのを躊躇った俺に対して、躊躇う素振りなんか見せずに、迷う素振りなんか匂わせずに、堂々と、呆気なく、少しは遠慮しろよと言いたくなるくらいにするりと、彼らのことを教えてくれた。

「昨日言っただろうけれど僕たちは、《殺戮鬼》って言うんだ。趣味嗜好による同士の類とかではなく、そういったコミュニティとかではなく、一種の会社みたいなものかな。会社なら仕事があるよね、そして僕たちの仕事は言わずもがな、依頼された仕事をただこなすだけだよ――殺すことでね」

「…………」

 まぁ、予想通りというか、想像通りというか……、この集団に所属している人間たちの異質性とかを鑑みて、殺戮鬼というあまりにもそれなネーミングセンス。外見や性別、国籍や性格などになんの共通点も接点も見られない彼ら。――昨日の歓迎パーティ時の、個性がありすぎるだけのはっちゃけた人たちにしか見えないという点を除けば、それは十分にあり得る可能性だった。

 とはいえ、本当に殺し屋の類だったとは思っていなかったな………。まぁ、実はそんな殺し屋とか仕事とかはこの人が俺をからかいたくて、脅したくて、出鱈目な妄言を口から出まかせで話しているだけの可能性もあるのだけれど。というか、そちらの可能性の方が大いにありえる。

「動じないんだね」

「はぁ」

 無垢さんが、思考することにリソースを割きすぎているせいでそれ以外のアクションをなんも起こせない俺を興味深そうに見ていた。

「いや、僕自身そういった世界に身を置いているからこそ、殺しとかのそう言った言葉に感情が動くことはないけれど、普通、君たちのいる世界では、そういったことは日常的ではないのだろう?」

 人が死ぬとか、殺すとか、殺されるとかは。――なんて不思議そうに無垢さんは言う。

「違いますよ、こちらの若者なんて、日常的に死ねとか殺すとか殺してやるとか騒いじゃっている奴らが多いんです。そーいう風に、本来はとても重い言葉を、普段の会話に当然のように軽い気持ちで使っているせいで、物騒な言葉に対する重みがもう存在していないんです。だから、別に人殺しだとか、殺人鬼だとか、殺し屋だとか言われても、特に動じることはないんですよ」

 そもそも、あなたの言っていることが真実なのかも分かっていなんですからね。――俺は、人を信じにくい人間だから、言葉だけで人を信じられるほど、純粋ではない。まぁ、信じにくいってだけで、信じない人間ではないのだ。信頼における人物の言葉なら、いとも容易く信用するし、この目で見れば、大体のことは信じる。それくらいには、人間不信をしていない。

「ふーん、物騒な世の中になったもんだねぇ」

 無垢さんの話が本当ならば、物騒代表はあなた達なんですけどね。というツッコミは飲み込んでおく。

「むしろ良いことなんじゃないでしょうかねぇ、そういった本来は軽々しく使えないような言葉をつかえるということは、そういったモノの危険性を実感していないという証拠なのだから」

 ――ひいては、平和であるということの証明なのだから。

「けど、君の目を見る限り、一番の理由はというのは、僕の言っていることが本当かどうか疑わしいということじゃないかな?」

 見透かしたようなことを言うな……。まぁ、事実見透かされていたけれど。

「えぇ、ぶっちゃけるとそうですね。介抱にかこつけた誘拐をする人たちの――二度も気絶の要因となった人の言うことを信じるほど、俺はお人好しじゃないんですよ」

「へぇ、ふうん、そうかい……」

 と、無垢さんは俺の言葉に対してなにか意味深な頷きを返した後、ポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。

「会話の途中で携帯電話をいじるとか、マナーがなっちゃいないですね」

 別に理由などないけれど、なんとなくいちゃもんをつけてみることにした。

「これぐらいは勘弁してほしいなぁ……っと、よし、これなら大丈夫かな」

 苦笑しながらでも操作を止めることせず、そして目的が達成されたのか一度頷くとスマートフォンをポケットにしまった。

 無垢さんは満足げな顔で意気揚々と近くに設置されているタンスから自動車の鍵らしきものを取り出し、それをポケットに突っ込む。そしてそのまま隣の部屋に向かう、なにかを取り出す音が聞こえる。

 目的が分かっている無垢さんはいいが、俺はというとその状況に置いてきぼりだ。さて、どうすればいいのやら。とりあえず何か哲学的な思考でもすればいいのだろうか。命題はなににしようか……、そうだな、『どうして男は少年の時、気になる娘や好きな娘についつい意地悪をしてしまうのだろうか』 よし、これで行こう。―――これが果たして哲学にどう繋がるのかどうかは置いといて、思考を始めよう。

「よし、準備はこんなものかな」

 ――大体、どうして彼らは気になる女の子に対していじわるというアプローチの方法を選択するのか、それに対しての理解がまず必要だろう。そもそもからして、女の子に好かれたいのならばむしろ、好意を素直に示し、優しく接すればいいだけだと思う。あの年齢の人間なら相手の裏をかくとか、腹の内を探るようなことはできないのだから、それだけでだいぶ心は開かれ、距離は縮まるはずだ――

「待たせて悪かったね真崎くん、それじゃあ行こうか!」

 ――まぁ、ここで彼らが意地悪をする一番の理由は照れ隠しが殆どであるというのは目に見えて明らかなのだ。それぐらいは俺にだって理解できる。けれど、意地悪をしてしまえば相手には機嫌を損なわれる一方だというのを理解できているのかが微妙だ。あの年代の人間は、自己顕示欲――というよりも、自己中心を前提として生きていることが多い。つまるところ、相手に自分という存在を認めてもらえればそれで満足という、あまりにも独善的すぎる考えのもと動いているのだ。嫌われるよりも、好かれるよりも、自分を見てもらいたい。自信を認識してもらいたい。結局のところ、彼らは恋に恋することすらできていない、他人に自分を見てもらいたいだけの、他愛のない子供だったというだけなのだ――

「あれ? 黙り込んじゃってどうしたの? おーい、真崎ぃ?」

 ――そう、まさしく他愛のない、他を愛していない、自己愛しか知らない子供だったという――

「てい」

「あいだだだだだだだだ」

 上手いこと言ったなー、とか満足感に支配されてしばしば悦に浸っていたら、急激に意識を内面から外面へと強制的に吊り上げられた。主に頬の痛覚を刺激されたことによって。

「お、反応した」

 無垢さんはそう言うと、頬から手を離し、にこやかに微笑む――上半身裸で。

「……いきなり何するんですか」

 かなり痛む頬を押さえ、痛みを和らげるために擦りながら無垢さんに非難の視線を向ける。

「まぁまぁ、そのことは置いといてさ、そろそろ行こうじゃないか」

 暴行を加えたことに対して何の罪悪感も抱いていないのか、俺の頬を抓ったことなどどうでもいいように話題から無理矢理外し――傷害罪で訴えてやろうか――ポケットから車の鍵を取り出す。

 というか……、

「行くって、どこにですか」

 ていうか、その服装で行くのだろうか。服装と呼んだけど、服装と呼んでいいのかどうかすら不安になるような格好である。

 そんな俺の内心の疑問は当然のごとくスルーされ――当然だ。スルーされなかったら俺はこの人を殺し屋ではなく超能力者としてこれから見ることになる――声に出した質問に答えてくれた。

「ちょっと、―――人を殺しに」


―――×××―――


「それで四谷真崎くん、君はスプラッタ映画とか大丈夫な方かな?」

 運転席に座り、ラジオから流れている今流行の音楽に適当にリズムを併せながら、無垢さんは口を開いた。――いや、口は開きっぱなしだった。ただ、ついさっきまでの会話は本編には一切関係ないような話だったから、聞き流させてもらった。

「さぁ、どうなんでしょうね。ほとんど見たことがありませんし……」

「ん? なんだいあれか? 真崎は映画を見ない人かな? もしくはテレビを見ない人?」

 無垢さんは珍しい人でも見るように(実際に、このご時世でテレビを見ない人間というのは珍しいのだろうけれど)俺を見る。けど、別に見ないといったわけではないのだ。――この人は早合点が多いよな。まだ知り合って少しの人だけれど、それでもこれまでの会話からそういう人物であるというのが簡単に理解できる。

「違いますよ。テレビはあんまり見ないだけで、一応は見ます。主にAVとか」

 アニマルの方だけどね。オススメはアニマルプラネットとダーウィンが来た。ベタだけどあれがいいんだよねぇ。

「へー、うん、僕も好きだよ」

 と、無垢さんが笑顔で肯定してきた。

「大自然には癒されるよねー」

 それが当然であるかのようにアニマルの方で話が進んでしまった……!

「……えぇ、つまらないバラエティとか、フィクションだらけのドキュメンタリーや演技の下手な陳腐なドラマを見るよりも、弱肉強食で、自然の摂理で、人間の干渉しない世界を眺めるのは楽しいです」

 眺めるだけという行為は、自分の小さくて矮小で卑劣な自尊心を満たしてくれる。干渉する必要のない世界が目の前で繰り広げられている。自分はただ見ているだけ。観ているだけ。みているだけ。まるで全知全能の神――とはいかないまでも、神に準ずる何かにでもなったような気分になる。あくまでも気分になるだけである、ここ重要――になったような気分で、生命の触れ合いを見て、生命の殺し合いを見て、生命の軽さを知ったように悟って、楽しむ。

「そっかそっか、でもさ、そういうのってやっぱり動物の番組であるわけだし、捕食とかのシーンが普通に流れさているし、意外とスプラッタとか大丈夫じゃないの?」

 ふーん……、この人は動物と人間を同等に扱える人なのだろうか。――そう思わされた。

「まぁ、確かにどちらも死んじゃえば同じ肉の塊ですもんね」

 生きているときは同じではないのだけれどね。――それに、肉の塊と言っても分類が同じなだけだ。元が違うし、成分も違う。そこに込められている感情も違う。あと、ついでに味も違う。人肉って、酸っぱいらしいよ。俺は食べたことも、これから食べる予定も、調理する予定もないからとくに気に留めたこともないけれどさ。

「それにしても、結構普通だねー」

 会話を続ける気が無かったのか、何の脈絡もなく話の路線を変更する。正面衝突の危険性とかをこの人は考えないのだろうか。まぁ、会話に物理法則が働けばの話だが。

「なにがですか」

 疑問口調ではあるけれど、疑問符は打たない。この質問は分かりきっていたことだしね。まさしく予定調和だ。路線は変更したけれど、予定に変更はなし。狂いなく物語は進む。おーるぐりーん。

「いや、人を殺しに行くって言ったのに、特になんの質問もされずに普通についてきたからさ」

 ほら、やっぱり。

「これでも僕はね、人殺しではあるけれど、殺し屋ではあるけれど、それでも殺戮鬼の中では一番常識的な考えが出来る人間なんだよ」

 常識的な考えが出来る……ねぇ?

 ちなみに、無垢さんは上半身裸で外をうろつくのはさすがに不味いと理解しているのか、外に出る直前で当然のように上着を着ていた。

「それって、常識的な考え方が出来るだけで、実際にその考えに基づいて行動をするというわけではないんでしょ」

「いやー、どうだろうねー。まぁけど実際に僕たちの中で一番常識人なのは叶ちゃんと奈多ちゃんだからねぇー。だからこそ、叶ちゃんは僕たちのリーダーになっているわけだし」

 無垢さんは言葉を濁しながら新しい名前を登場させた。ふむ、新規キャラクターだろうか。

「ん? あぁ、奈多ちゃんってのはねぇ、昨日の歓迎パーティで叶ちゃんに負けず劣らずの熱い視線を君に送っていた女性だよ。そして、まぁ叶ちゃんの補佐的なポジションにいる人物だよ」

 簡単に言っちゃえば副リーダーだねー。と無垢さんはまた無害そうに笑う。

 そして俺は、『あぁ、あの黒髪のお姉さんか……』と記憶のサルベージに成功していた。ついでに記憶障害を予防するために昨日の晩ご飯でも思い出そうとしたが、思い出せなかった。――実際は食べていないだけなのだけれど。まぁ、それとは別に洋樹がこの人たちの中で一番上の立場であることに多少なりとも驚いていたりするのだが、いちいち驚いていても埒が明かないのでそのまま受け止めることにした。

 俺が一頻りの考察――頭の整理を終えた辺りで無垢さんは話を続ける。

「とりあえず、閑話休題。さて、そんな一般人と同じような思考回路を持つことができる僕なんだけれど……、どうにも君の態度には腑が落ちない。――どうして君は、人を殺しに行くと言われてそんなに冷静に、平静を保っていられるんだい?」

「人殺しであると信じていないだけですよ」

 あらかじめ用意しておいた回答を噛んだりせずに吐き出す。

「だとしても、その可能性を捨て切れてはいないはずだろ? たとえそれが1%だったとしても、その一%は、重いよ?」

 確かに、信じているわけではないけれど、疑っているわけでもない。確たる証拠がないし、確たる虚偽もない。つまり、判断材料の不足による未判定状態ということだ。

「そのときは、そのときでいいんです。――大丈夫ですよ、人の死には慣れていませんけれど、人の死体には一回で慣れましたから」

 とは言うが、その一回以降、特に死体を見たわけではないのだけれど。まぁ、一回でも死体を見ている方が稀だし、だから、本当に慣れているのかは、不明だったりするのだ。

 けど、その一回は回数としては、数としては一であるけれど、重みで言えば、それなりの重さを含んでいるだろう。――なんて、それらしく言ってみたりするけれど、実際のところはある日不仲の弟が家の前で潰れていただけという話で、全然、山もなければ落ちもない、そのくせに意味はあるのかどうかすら不明な事柄だったりなんだけれど。

「ふーん……。信用されていないだけというのが本当であると思っていいのかなぁ?」

「どうぞ、ご自由に」

 弟の死体は今でもしっかりと思い出せる。頭の半分が砕け、その隙間からはみ出す肉片も、体液も、血液も、肉体から飛び出ていた骨の位置もほとんど、寸分の狂いもなく、明確に覚えている。網膜があの一瞬を俺の頭の中に切り取ってしまったのだ。けれど、それを始めて見たときでも、脳裏にカビのようにしつこくこびり付いて連続再生される頭の中での弟の死体でも、俺には感情を抱かせてくれなかった。

 衝撃的なはずだったのだ。仲が良いとは言えないとはいえ、それでも、そいつは俺の弟だったのだ。母は泣き崩れていた。父は冷静に対応していたが、夜になると蹲ってひっそりと泣いていた。俺は泣かなかった。泣けなかった。どうして泣けるのか分からなかった。どうして泣けないのか分からなかった。  

 まぁ、理由はそれだけなのだが。――それを理由として俺は、人の死体に対してなにも感情を抱けないのだろうと無意味に確信した。確証を得た。

「そっか、それなら、それでいいんだ。そっちがそういう対応をしてくれるなら、こっちも楽でいいや」

 無垢さんはそこを会話の区切りとしたのか、納得したような顔をして、道路交通法を無視するなんてとんでもないといった姿勢、つまりはしっかりと前を向いた状態――まぁ、当然ではあるのだが――を維持し、また鼻唄をハミングし始めた。

 これで会話も終わりかと思い、特に何の考えもなく風景を楽しもうかなと助手席から窓を覗き込んでみると、そこは知らない景色に変わっていた。

 辺り一面に広がる、生きることに余念がない草たちはもはや自身のアイデンティティーであるところの色である緑をど忘れしたかのようにケバケバしいまでの青に染まり、それらの青い草原の合間にぽつぽつと並ぶ建築物は見ただけでは到底言葉にできないような奇異なスタイルをしていた。

 なんてのはもちろん嘘なのだけれどね。ライトノベルでよくあるような異世界ファンタジーものに急遽テコ入れをして変更しようかと思ったけれど、数行考えただけで俺の脳のキャパシティがオーバーヒートであることを伝えてきた。どうやら俺の脳はそういったことを考えるのは苦手だったようだ。まぁ当然のごとく知っていたのだけれど。久々だから少しは変化を起こしているかもしれないと思ったが、そんなことはなかったようだ。

 ――まぁ助かる点と言えば、この後に待ち構えている展開が本当の殺人鬼たちとの邂逅か、嘘つきとの出会いを怠惰に描写するような内容しかありえないので、現実的な思考しかできないというのも、悪くはないのだろう。実はこの集団が異能の能力の持ち主たちで、今から俺が連れて行かれるのは異世界だったのだー、なんて展開だったら最悪だけど、まぁ無垢さんを見る限り、殺し屋というのが嘘か本当かは置いといて、堅実的ではないとはいえ、現実的な人であって良かった。

 そんな安心を胸に抱き、視界のSFフィルターを除き、現実風景に目を奪ってもらうことにした。

 眼前に広がるのは、高速道路から見下ろしているからなのだろう、中々の速度で俺の視界を横切っていく家家家家スーパーコンビニ家家郵便局家薬局家家家家家家家コンビニ家専門店家家家家だった。

 ありきたりな光景だった。ありきたりなはずの光景なんだろうけれど、普段から地元ラブであり、両親とは別居中であり(単なる一人暮らしとも言う)、滅多なことでは街を出ないような俺は高速道路を利用するどころか車に乗る機会すら少ない。だから、こういうのを眺めるのも、まだ飽きてはいない。

「あーそうそう、真崎に言っておきたいこと、伝えておきたいことがあったんだった」

 俺が、「家という漢字は屋根の下に人をたくさん無理やり詰め込んだように見えるよなー」なんて流れていく家を見ながら家という漢字について考察をしていたら、無垢さんがまた話し掛けてきた。

「なんですか」

「あーけど、それは後にしようかな、うん、今はいいかもしれないから、後で話そうか」

「露骨な行数稼ぎはやめてくださいよ。無垢さんはあれですか、作文とかの口調は必ずですます調にする人ですか」

 たった数文字の文字数稼ぎの為に。

「そうだね、基本的に丁寧な人柄をしているから、それが文章にも滲んじゃってたよ。いやー、あの時の僕はまだまだ子供だったなー」

「朗らかに過去を思い出してんじゃねぇよ……」

 この人は言葉の裏を分かっているのに、あえて読まない人間なのだろう。

 なんというか、性格の根本的な黒さが滲み出ている。

「まぁ、ちゃんと帰り道で話すからさ、安心してよ、僕は嘘を吐かない人間だからさ」

「その言葉が何よりも嘘くさいのですけど。なんで後回しにするんですか、今言ってくれればいいのに」

「いや、だってさ――」

 いつのまに高速から降りていたのか、俺が乗る車は停車していた。

「依頼の標的がいる場所に、着いちゃったし。―――それでは、ようこそ」


 ――このとき俺は、この言葉を適当に受け流していた。

 言葉の意味を特に確かめもせずに、言葉に込められた意思も確認せずに、

 まるでそれを嘘吐きの言葉のように聞いていた。正直者の言葉を聴いていなかった。

 後悔すべきだったのかもしれない。懺悔すべきだったのかもしれない。

 けど、後悔したからといって、懺悔したからといって、それは果たして許されるのだろうか。

 たとえ俺が彼の言葉を信じていたとしても、結局のところ、俺にはどうすることもできなかったのだ。


 俺はこの後、人が死ぬ瞬間を、人が人に殺されるのを、初めて目撃することになった。


―――×××―――


 バイト帰りに告白されて逃げて倒れて看護されて、なんとなくで無垢さんの後に付いていった。そして、気づいたら都市部の方に来ていた。

 無垢さんが標的のいる場所だと言ったのは、近くから最上階を見ようとしたら首を痛めそうなほどに高い、高層マンションだった。

 周辺にもその高層マンションに負けず劣らずのビルなどが立ち並んでいる。なんかいかにも都市といった感じだった。普段の生活からはかけ離れたそれらの光景は、少しばかり歪みを形成し、俺の価値観に違和感を与えていた。

 無垢さんは車を降りると当然のようにマンションの中に入っていき、持っていたカードキーを使って第一関門である最初の扉を突破し、エレベーターのボタンを押した。しばし待つと、音もなくエレベーターが俺たちの前に降り立ってきた。このエレベーターには暗殺者の才能でもあるのだろうか……、とかそんなくだらないことを考えながら無垢さんに続いて乗り込む。

「真崎くん。君は、自分の目で見たモノは受け入れる人間かい?」

 エレベーターで五十八階(高い……)まで上る間に、無垢さんがそんなことを訊ねてきた。

「えぇ、まぁ、大体のものはそうだと思いますけれど……」

 いまいち質問の趣旨が分からず、無難な返事をする。――けど、実際のところ俺は、自分の目で見たモノでも信じるかどうかは、疑うかどうかは別として、受け入れてきた方だと思う。

 俺は超能力や魔法の類を信じていない。それらはまずありえないものだと思っている。人間には隠された力なんて存在しないし、呪術的なことを行使するようなことはできない。それこそがこの世の真理であり、事実だ。

 苦節――なんてことはなかった人生――十七年を過ごしてきた俺の結論は、そんなものだった。

 そういった力に対する憧れは存在する。存在していたらどれだけ嬉しいかと考えている。でも、この世界はそれらの存在を否定する。そんなのは、知恵がついていけば自ずとわかることだったのだ。

 だから、俺はそういった紛い物で生きていく人間も死んでいく人間も嫌いだった。

 占いとかで身を滅ぼす人には憐憫を抱く前に殺意を覚えるし、神を信じる人たちは、何を持って神を崇めているのかを聞きたいぐらいに、理解が不能だった。

 俺だって本当は存在してほしいと思っている。あって欲しいと願っている。

 でもそんなのは存在しないんだよ。気づけよ、無いんだよ、そんなのは。

 だから、テレビなどで行われる超能力特集などは特に嫌いだった。占い師とか、超能力者とか、テレビに出て、見世物としてひけらかして、金を稼いでいる連中が、反吐が出るほど嫌いだった。

 あんなのは、結局のところ偽物だ。醜悪な偽物でしかないのだ。

 偽物だと思って、本物ではないと疑って、受け入れてきた。

「ふーん、そっか、なら大丈夫だと思う」

「何が大丈夫なのかが分からないんですけどー」

「ふっふっふ、悩め少年! 人は悩むことによって成長していくのだー」

「せんせー、俺は悩むよりも悩殺されたいです」

「悩殺だといろんな意味で階段すっ飛ばして成長しちゃいそうだから駄目だー」

 なんてやり取りをしていたら、音もなくドアが開き、目的の階に到着したことを教えてくれた。

「お、着いたねー」

 無垢さんはそう言って、さっさとエレベーターから出る。俺も挟まれないようにさっさと降り、無垢さんの隣を歩こうとすると、無垢さんはそんな俺を手で制し、自分の後ろへと回す。

「えーと……、これはなんですか」

 まるで、今から本当に危ない所に突入すようなその演技(?)に少しばかりたじろいだ俺は、無垢さんに話しかける

「いやー、ちょっとね。流石にここから先は前に行かれると色々と危ないからね。僕の後ろから出ちゃダメだよ。精々斜め後ろまで、横だと何かあったときに保障できないからさ」

無垢さんはその余裕の笑みを浮かべた相好は崩さないまま、それでもある程度の緊張感を俺に理解できるように滲ませた。

 俺はこの時、これから起こることを上手く想像できていなかったが、それでも無垢さんの警告でもある忠告を守りつつ、それの範囲内での限度である斜め後ろに立ち位置を決めることにした。

「うん、そこが一番いいかもしれないね。真崎には、これから起こることをしっかりと見て欲しいから」

 無垢さんはそんな俺の態度に満足したような表情をして(なんで?)、そんなことを言った。

 ――そして、俺はそこに立ったことを次の瞬間には後悔する。

 エレベーターを降り、左に少しばかり歩いたところにドアが一つだけあった。

「あれ?」

 少しばかりの違和感を覚え、辺りを見回してみたが、別におかしなところがあるわけでもない。ただ、俺の庶民的な――というか平凡的な感覚からくる違和感の理由はすぐに分かった。エレベーターからはこのドアに通じるまでのルートしか存在せず、尚且つその道中にドアが一つも見当たらないということだ。どうやらこのマンション、お金持ちたちが使用するような建築物だったらしく、ワンフロアすべてが部屋というブルジョアジーな造りになっていた。

 本当にこんなマンションがあるものなのか……、なんて知識の中でしか知らなかったことと照らし合わせ、目の前の現実をしっかりと脳に認識させ、知識と現実の整合性を取らせた。

「~、~~~、~~」

 無垢さんが鼻歌交じりにポケットから、先ほど玄関ドアを開けたのとはまた別のカードを取り出し、それを機械に通す。ぴぴという機械質な音とともにガチャンという金属的な音がし、ロックが外れたことが分かる。

「ここからは、絶対に僕より前には行かないでね」

 という念押しとともに、ドアノブに手を掛け、扉を引っ張る。簡単に開錠を許したドアは抵抗をすることもなく開き、俺たちの闖入を歓迎した。

 と、同時に、俺たちが来ることを予測していたのかのように、背が高く風貌の恐い男が、ドアの前で自動小銃を構えていた。「――――はい?」という言葉が俺の喉から発される前に、男の顔面は顔面としての形状を一瞬で失った。

 始めの変化は目からだった。目が内側から膨張するように顔面からはみ出し、中身を派手にぶちまけ、鼻からは体液と血液が混ざったような黄色と赤のコントラストという気味の悪い色鮮やかな演出をされた液体が噴き出す。口は口内の肉がそのまま顔面の外へと出しゃばり、破裂した。そこからは一連の流れで耳からも中身が飛び出し、顔中の皮が裂け、肉が弾け飛び、内側から何かに圧迫されているかのように骨が砕けて空気に晒される、男の角が無い顔にいくつもの鋭い突出物がはみ出る。そして最後には顔は原形を維持することができないまま破裂した。

 特に何も起きていない。男が持っている銃が暴発したわけではない。銃口は今も無垢さんに向けられている。頭部を失った身体はそのままバランスを失い、地面に受け身も取らずに崩れるように倒れた。

 無垢さんはそんな男には目もくれず、気軽な足取りでそれを跨ぎ、奥の方へと進んだ。――これは一体どういうことなのだろうか? 今目の前で起こったことは? そんな疑問が頭を過ぎったが、今無垢さんと離れることは本能が危険だと伝えるので、俺は罰当たりだとは分かっているが――思ってはいないということなのだけれど――死体を無垢さんのように跨ぎ、無垢さんの後を続く。

 その時、死体のことを少しばかりとはいえ直視してしまった、けど、弟の件があったのでそこまでの不快感は出なかったのは幸いだった。――それよりも、死体に違和感を覚えた。いや、正確に言うのならば、死体ではなく飛び散った頭が、おかしかった。頭が内部から膨張するように爆発するということ自体が殆ど類を見ないような現象であるのだが、それでも実際問題この男の頭は目の前でハリセンボンのように膨らみ、そのまま破裂した。俺はしっかりとその様を、肉片や体液が飛び散る瞬間を見た。

 けれど、なのに、肉片は一つたりとも、血液のブレンドされた体液は一滴も、俺と無垢さんに当たっていないのだ。内側から破裂し、真正面にいた無垢さんに飛んでいくのが見えたのにも拘らず、肉片が飛び散っているのは男の横や後ろだけなのだ。無垢さんの後ろではなく、斜め後ろという飛散したそれらが付着してもおかしくない俺にも、付いていないのだ。――これは一体、どういうことなんだ?

「無垢、さん……。これは……これは――」

 何を訊ねようとしているのかを、自分の中でもまとめることが出来ていないまま、無垢さんに声かけていた。

「んー? ごめんね、今はちょっとさ」

 人差し指を口に当てながら、無垢さんは俺に対して、まるで子供をあやすように――優しく言い聞かせるように、囁いた。無垢さんは自然な足取りで奥へと進んでいく。

 ――重かった。無垢さんの軽い足取りとは対照的に、俺の足は床に張り付けられているように動かない。一歩一歩、足を前に出すたびに、前に出すために上げるたびに、張り付けられている足を、縫い付けられている脚を、無理やり引き千切るように、引き剥がすように持ち上げるたびに、何かが重く圧し掛かる。足は重くない筈だ。これは、この足は、生まれてこのかた俺から離れたことがない。身体の一部であるこの足の重みは理解している。軽くはなくとも重くはないのだから、持ち上がらない方がおかしい。実際に足は持ち上がっている。けど、それが俺の精神を圧迫する。一歩一歩が俺の負担になる。そうだ、重いのは精神だ。身体は重くない。心が重い。重い重い重い重い重い重い重い重い重い重いよ重いよ重いよ重いよ重いよ何が重いの思いが重いの何が何が何が何が何が? 

 重くはないよ、思いは軽いから。――じゃあ何が重いんだよ。重いものは重いんだよ。

「――――――――」

 目の前で人が死ぬのを見たのが原因なのか、気が動転しているのか、思考がまとまらない。そんな俺を置いていくように、無垢さんは奥の部屋と辿り着く。俺は足を引きずるように無垢さんの斜め後ろに、そこが定位置だとでも言わんばかりに、無意識的に立つ。

 なんでそこに立つんだ? そこだと、また、見えるぞ?

 誰かが俺に檄を飛ばす。忠告ありがとう。感謝感激雨霰。

 部屋には、座っている老人とその老人を守るように男が二人立っていた。老人は袴が似合いそうな柔和な笑みを浮かべている。還暦などはすでに迎えているような見た目で、後ろに流している白髪は年季が入っていて、持っている木製の杖も、来ている着流しも、とてもよく似合っていた。

 その老人の傍で立つ男二人は、今すぐにでも懐で握っている物体を取り出し、無垢さんを射殺したいという気迫がこちらにも簡単に伝わってくるような、一般人では出すことも不可能な殺意を部屋中にばら撒くように、隠しもせずに佇んでいた。

 明らかに普通ではない。尋常ではない。平常でない。俺が住んでいた日常とは空気が違う。息を吸い込むたびに、体が拒絶反応を起こし、酸素を摂取する前に体から吐き出される。

 無垢さんは遠慮という言葉とは無縁の足取りで部屋へと一歩を踏み出す。俺もそれに続くように部屋へと入る。するといきなり、部屋の横で待機していたのか、無垢さんと俺からでは死角になっていた場所から、両手持ちで銃を無垢さんに向けて構え、今すぐにでも撃てるという体勢の男が飛び出してきて、発砲した。簡単に、発砲した。

 パン。という乾いた破裂音が部屋全体に響き、次の瞬間には顎から上が砕け散った。

 無垢さんの顔でなく、俺のでもなく、発砲した男の頭がだ。

 飛び出てきた男の顔面だった肉片や鮮やかな血液が、清潔感溢れていた部屋の白い壁へと飛び散り、生々しい修飾を施す。

 無垢さんはそちらに目を少しだけ向けた後、興味のなさそうな顔をしてすぐに目の前の老人へと目線をずらした。俺にはもう言葉が出せなかった。目の前で行われている殺人という行為に対して、思うところがあるといえば――――あぁ、やっぱり人間はそんな簡単に死ぬのか――――という感想が、上手く働かない思考とは別離している意識下で出されていた。が、それでも、起きている現象が理解できないこの状態でも、これを殺人と称してもいいのだろうかと疑問に思いながらも、人の死というのを、人が死ぬというのを、まさにその瞬間を目撃してしまったのは、精神に多大なダメージを与えたのだろう。

「―――――――――」

 無垢さんが口を開いて、何か言葉を紡ぎ出そうとしたが、その口からは何も言葉が出ていなかった。

「――――――、―――――――――――――――」

 だが、無垢さんの言葉になっていない言葉に呼応するように、白髪の老人は口を開閉させ、何かを理解したかのように懐から一通の封筒を取り出した。

「――、―――――」

 無垢さんは笑顔で頷く。

「――、――――?」

『あの、無垢さん?』 ――そう言ったはずだ。

 あまりにも滑稽なその光景に対して一言申してみようと思い、口を開いたのだが、俺の口からは何の音も出ていなかった。喉が震えているのに、言葉を発しているというのは分かるのに、その言葉は俺の耳には届いていない。

 だが周囲には俺の言葉が届いたのか、無垢さんは少しばかり申し訳なさそうに俺を見ながら、先ほどと同じように口元に指を当てて、何かを言った。

「―――――――――。―――――――、―――――――――――?」

 この時点で、俺は無垢さんが何を言っているのかを聞き取ることはできなかったが、『少し黙っていてね?』 というニュアンスのことを言われたのだと理解し、頷いた。

「―――――」

 俺が頷いたのを見ると、無垢さんはまた目線を前へと戻し、

「―――――――、――――――――――」

 そして老人に話しかけ始めた。

 もちろん音は聞こえない。無垢さんが放っているであろう軽い言葉も、老人が出しているであろうしわがれた、だが威厳の溢れるような声(想像だけど)も、無垢さんが体を揺らすたびに懐に仕舞っている得物を取り出そうとする男二人が出す衣擦れ音も、自分の唾を飲み込む音も、鼓動も、何もかもが、聞こえない聴こえないきこえないキコエナイ。

「―――、―――」

 老人が残念がるような仕草で肩を落とすと同時に、左右に立つ男が同時に懐から手を引き抜いた。

 俺から見て右に立っている男は、手を引き抜き、懐にしまってあった大口径の自動式拳銃をお披露目すると同時に、頭と胴体が分離していた。――とても簡単に言ってしまったが、実際はそんな簡単でもない。

 ブチブチブチィ――もしも自分の聴覚が平常であったなら、このような音がしていたのであろうと、頭の中で比較的やさしめのオノマトペを表示させる。そういった表現が似合うような描写だった。そのような音が易しい表現に思えてしまうような胴体と頭の永遠の別れだった。バイバイロミオ、君はジュリエットとは一緒にはいられないんだよ。――まぁ、ロミオとジュリエットとは幾分かマシかもしれないな。だって、頭も胴体も、一緒に死滅できるから。そう考えれば、幸福なのかなー。アハハ、そんなわけ、ないよ。

 頭全体を掴み、無理やりに胴体から引き千切るかのように、頭は首の部分からブチブチブチブチと皮が裂けて肉が見えて肉が抉れて骨が見えて骨が砕けて身体へと血液を送ろうと必死に頭と胴体を繋ぐ血管は糸を張りつめたようになったあと、呆気なく切れた。血がぴゅーって、綺麗に噴き出た。

 左に立つ男は右の男と違い、懐から取り出した回転式(かいてんしき)拳銃(けんじゅう)を両手で持ち、無垢さんに向けて構えた。構えることができた。――その時点では男の首は胴体と繋がっており、五体は満足であった。

 だが、男がそのリボルバーの引き鉄を引くことは叶わない。

 男が構えた瞬間にはすでにその両腕は両腕としての機能を失っていた。

 ――それどころかリボルバーも、原形を留めてはいなかった。

 一瞬だった。一瞬でリボルバーが先端から捻じれ始め、それはすぐに銃身から銃床に回り、捻じれすぎて耐久の限度を超えたことによって砕けた部品は辺りに飛び散り、捻じれは銃からそのまま男の手に伝染し、握っている銃把ごと指が第一関節から可動部位とは真逆の方向へと曲っていき、そのまま捻じれは男の腕へと侵食していく。

 その光景はあまりにも異常だった。本来の曲げ方をされなかった手や腕の皮膚は、その伸縮性を存分に発揮することができずに絞られ、裂けた皮からは極限まで伸ばされたことによって引き千切られてしまった血管から溢れ出る血液が一筋の線となって空気に晒される。

「――――――――――――ッ! ――――――――――‼」

 男は悲鳴を上げているのだろう。一瞬で捻じれてしまった腕から伝わってくる痛みに耐えられず、身を悶えようとするが、侵食する捻じれはそれを許さず、そのまま腕から肩へと伝わり――

「―――――――――――――」

 ――首が捻じれて、男の顔が三周したところで、とうとう頭が胴体との別れに成功する。

 地面に落ちた頭を直視はしない。捻じれは首で止まらずに男の顔も絞っていた。その捻じれには悪意でも宿っていたのだろうか……、男が首をツイストされて痛がっているときに、顔面に到達した捻じれはその回転を逆にし、男の苦痛をより一層加速させていたからだ。原形なんて、思い出せないくらいに。

 電気信号を送る脳が消失したことによって、動くことのできなくなった首から下は、直立不動していた。死してなお立ち続けるとは、あっぱれだ。――とか、決闘好きの人間ならそう評価を下してくれそうな威風堂々とした立ち姿だった。

 ……まぁ、今さっきまで頭と脳を繋ぐ大事なパイプとして機能していたであろう首からは折れた骨が飛び出し、今も体内に残された血液を噴水のように地面に散らしているその姿を、評価できるのは感性が常人とはかけ離れた芸術家か、皮肉の利いた噴水好きぐらいだろう。俺はどっちでもないので、無理。

「――、――――――」

『あぁ、そういうことか』

 自分の発した声すら聞き取ることができない状態ではあるけれど、俺はそう呟いた。

 どうして音が聞こえなくなったのかを理解した。

 言ってしまえば人間の自己防衛本能みたいなものだろう。人間というのには聴覚や視覚や嗅覚といったものがある。まぁ、聡明――であってもなくても誰だって五感は知っているだろうから説明は省くとしよう。

 先ほど言ったけれど、人が死ぬ場面というのを見るのは、人が殺される場面を視るというのは、常人にとってはいくら耐性があろうとも、それが及ぼす精神的なダメージは大きい。だから、俺の意思に関係なく、俺の身体が俺の心を守るために、聴覚を遮断したのだろう。

 音がもたらす情報というのは圧倒的だったらしく。聴覚を一時的に断たれている俺は、俺の精神は酷く、それは人間として酷いくらいに、安定していた。

 音が無くなった世界での出来事は、滑稽なものにしか見えなくなっていた。

 人の頭が内側から膨らんで破裂するのも、

 人の頭が木端微塵に吹き飛ぶのも、

 人の頭がもげるのも、

 人の頭が捻じれて千切れるのも、

 まるで現実味のない、陳腐な映像になっていた。成り下がっていた。

「――――」

 そして、無垢さんの口と手が動き、老人の手から封筒を受け取る。

 封筒を渡した後、老人はもうすべきことはしたという風に、取り乱すわけでもなく、慌てるでもなく、落ち着いた様子で目を瞑った。

 無垢さんは床に落ちている自動式拳銃を拾い、無抵抗の老人に向け、引き金を引いた。

 音は分からなかったけど、発砲による音が部屋を一瞬で駆け巡り、自分の肌を震わせた。

 その衝撃は、連続して俺の触覚を四度ほど刺激した。――鳥肌が立つかと思った。

 そして、頭部に二つの風穴を空け、心臓がありそうな場所からも赤い液体をとめどなく流し続ける老人は、そのまま動かなくなった。


 こうして、俺は《殺戮鬼》の仕事の一端を、その一部始終を、その慈悲無き活動を、目に焼き付けた。

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