1 始まりはいつだって日常から
《『世の中には二種類の人間がいる。~~と……だ』 というのをよく見かけるのだけれど、人間の種類は豊富なのだなと実感させられる》
by四谷真崎
時計の短針が十二を通り越し、一日を跨いだということを俺に知らせてくれる。
そんな中、俺はというと、特にやることがなくてぼーっとしている。
現在、労働基準法を年齢的にも基準的にも時間を無視して、高校二年生の俺は本屋でアルバイトをしている。ちなみに、さきほど俺の労働時間は連続十時間に達成した。
おい誰か早くこの本屋を訴えてくれ。いたいけな高校生を酷使していますよこの本屋の店長。
「すいません店長、そろそろ帰らして下さいよ。そもそも店長のシフトの組み間違いが原因なんですから、俺をそんなことに巻き込まないでください」
まぁ、そんなことをやってくれる人がいるわけもないので、自ら隣で呆けている店長に直談判することにした。
そして、隣で呆けている店長――二〇代後半の綺麗な女性。女性にしては高めの身長で、それに比例してかスタイルも中々によい。良いシャンプーを使っているのか、後ろで纏めているサラサラとした黒髪からはいい匂いが漂う。格好も、黄色のTシャツに年代物のダメージジーンズ、そこに店員の証であるエプロンを羽織っているだけというラフな出で立ちだが、そんな簡素な格好も結構似合ってしまう。さらに、独身。これだけ見れば、最高の存在――はというと、
「えー、でも四谷クン、どうせ夏休みで学校があるわけでもないし、暇でしょ?」
友達とか、趣味のこととか全然考慮しないんですね。
「ぐっ……、まぁ確かに暇っちゃあ暇ですが、だからと言って色々と法律的にヤバいでしょ? 高校生をこんな時間まで働かせるのって」
確かに暇ではあるのだ。いや、どちらかというと暇でしかない。すでに夏休みの課題は終わらせており、遊ぶような友人も現状はいない。特にやりたいことがあるわけでもないので、時間は腐るほどある。
まぁ、それとこれとは話が別問題であり、こんな一日の半分を労働に注ぎ込みたいわけではないのだ。
断じて、俺はワーカーホリックでもなんでもない。ただ、毎日を意味もなく怠惰に暮らしたいだけ。
それが俺の些細な願いだ。――まぁ、多少の刺激は欲しいけれど。……彼女とか?
「まぁ、そこら辺は大丈夫だよ」
と、のほほんと店長は心配なことなど一つもないような確信を持って言う。
「……えー、どうしてそんなに確信を持って言えるんですかね」
あまりのその落ち着いた態度にむしろ俺がたじろぎ、理由を聞いてしまった。
「んー…………、なんとなく?」
「雑っ⁉」
店長、確信も何もなかった。ただの直感だった。
「あっはっはっはー」
店長は気の抜けた笑い声をあげる。やばい、ぶん殴りたい。
でもさすがにここで手を上げたら、せっかくのバイト代がこの人の治療費で水泡に帰する可能性が高いので、ここは我慢だ。四谷真崎、我慢の子だ。
「でもほら、すでに労働時間は八時間を過ぎてますよね、それは法律で定められていることですし……」
俺は時計を指差しながら言う。
「えー、でもほら、もう日付変わったし、そう考えればリセットされるよね? つまりは、あと八時間は働けるってことにならない?」
「アンタは俺に過労で死ねと?」
なにその正論っぽい考え……。でもあれですから、その理論は根本から間違ってますからね……。
「それに、昨日の余分になっちゃった二時間は、ちゃんとその前のバイトの時間に割り振っておくから問題ないでしょ?」
さらりと言っているけれど、それって駄目だよね? 勤務時間詐称で訴えられるよね?
「店長、それはむしろ問題しかありません。詐称でしかないです。見つかったら捕まります、店長が」
「ふっふっふ、つまり、見つからなければ大丈夫ということさー」
黒い、この店長意外と黒いぞ。けど語尾を延ばした喋り方のせいで全然怖くない。むしろ和む。
「それに、なんだかんだ言って四谷クン、私の話し相手になってくれているじゃない」
嬉しそうに俺に微笑む店長。わー、その顔は反則じゃねー?
「………店長じゃなかったら即刻帰ってますよ」
俺のそのツンデレな呟きに、店長は朗らかに笑う。
「四谷クンは良い子だね。優しい子だよ」
その笑顔に特に感じることがなくて、普通に返答する。
「別に、優しくはないですよ。目の前で倒れている妊婦がいたらダッシュで逃げる自信ありますもん」
「それは優しさとか以前の、モラルとかマナーの話になっちゃうよ……。うーん、まぁ、なんというかそういう感じじゃなくてさ、いや、それもかなり大事だろうけれど……、それでも、なんだかんだ言っても四谷クンは、倒れている人がいたら手を伸ばすと思うなー」
店長は一度息継ぎをして、言葉を続ける。
「だって四谷クンてば、今だって帰ろうとすれば帰れるでしょ? それなのに私のこと気遣って、他のアルバイトの人のことを考えて、こんな面倒なことを引き受けてくれてるんでしょ?」
まるで、私は言われなくても分かっているんだ。私はちゃんと君のことを理解しているんだ。――と言われているような、そんな言葉遣いに、感じ取ることができた。
「………えぇ、まぁ、本当はそうなのかもしれないですね」
だから、否定も肯定もせず、ただ曖昧に言葉を濁す。本音を出さず、本心を潜ませ、本当を隠す。
けど店長は、それを俺が照れているのだと、ポジティブに前向きに勘違いする。都合よく。
「優しいなー。四谷クンは優しいなー。よし、店長と結婚しよう」
だから、店長のそんな不意打ちのような求婚も、
「それはないですね」
と、考える間もなく返答する。
「ひどっ⁉」
店長がその優しげな瞳に涙を浮かべた。それを見て、さすがの俺でも少しばかりの罪悪感が――
「だって、店長と俺では年が離れ過ぎですしねー」
「ごふっ⁉」
罪悪感とかとっくの昔に捨てていたことを忘れていました。
「ちょっと四谷クン……、年頃の女性にその物言いはNGだよ⁉」
店長、そういうのとか気にしなさそうに見えたけど、気にしているのか。
「現実を直視させて何が悪いんですか?」
「鬼だよ! この子鬼だよ⁉ 誰ですかこんな鬼子を優しいとか言った人は!」
「店長です」
即答。
「ツッコミが冷静だ!」
店長の目からはすでに涙がナイアガラの滝のように溢れ出していた。涙腺弱いなこの人。
その後、店長はやれ婚活だやれ見合いだのを両親が押し付けてきて面倒だー、という愚痴を俺に対してしてきたが、俺は話半分でしか聞いていなかった。
まぁ、特に店長の好みの男性(どうやら年下らしい。俺の貞操がピンチ)とか、店長に近づく人の殆どが変態だとか、そんなことはどうでもいいのだ。俺からしてみれば、他人でしかない店長の話など、関係なくて、どうでもよくて、無関心なことでしかない。――どれも同じか。
店長が今もなお、普段の感じとは少し違う、苦労人のオーラを纏いながらクドクドと何かを言っているが、俺はそれに適当な相槌と合いの手を入れながら別のことを考えていた。
命題 『優しい』 とはどういうことなのだろうか?
先ほど店長に言われたとおり、俺は目の前で倒れている人がいれば、声を掛けずにはいられないだろうし、手を差し延ばさずにはいられないのだろう。
でもそれが、果たして俺が優しい人間であると、善人であると証明することになるかと言えば、それは断じて違うのだ。
俺は――というか人間は、結局のところ自分本位の人間なのだ。
誰だって自己中心であり、誰だって己こそが唯我独尊であり、誰だって自身を主人公だと思っている。
人間は自分が大事で、自分の意思が大事で、自分の安全が大事で、自分の未来が大事だ。
例えば、俺が目の前で倒れている妊婦を助けるのは、言ってしまえば、義務感などでしかない。
目の前で人が倒れていれば誰だって気分が悪いだろう?
目の前で困っている人がいるのに、それを無視してしまっては、後味が悪かろう?
それを事前に防ぐために、結局は自分の気分の問題の為に、人は人を助ける。
けれど、それだけではその行為に対する代償が大きすぎる。自分には損しかなくて、得が無い。
だから、そこに正当性を加える。
人助けはいいことで、困っている人は手助けすべきで、そんなことができる自分は 『いい人』 なんだと。
世間ではそれが褒められるべき行為で、褒められる行為で、誉れのある行為だと嘯く。
そうやって、ちっぽけな自尊心を満たして、人を助けて、お礼に満足して、大切な何かを知っているように――本当はそんなのは知らないくせに、知るつもりもないくせに、分かったように生きていく。
まぁ、こんな理論、言ってしまえば支離滅裂なのだろう。
でもさ、俺はそんな考えが正しいと思っている。
例え話だが、他人の為にその生涯を費やした男がいた。
男のことを人々は自己犠牲者だと言った。そう言われて、男は英雄として崇め祀られた。
自身を顧みず、他人を何よりも尊び、人々の為に尽くし続けた男だ。
けれど、男の尊く誰もが真似出来ないようなその行為も、単なる自己中心で、我が儘で、自分勝手な行いなのだ。
だって、言ってしまえば、その行動も結局は男がやりたいからやっているだけに過ぎない。
男はそうやって、自分を視野から外して、他人を本意に考えることを、自らの意思で行っている。
――自ら、選んだのだ。
そんな行動は、つまるところ自己満足でしかない。
人に尽くすのも、人に従事するのも、人を守るのも、人を助けるのも、人に優しくするのも、人を導くのも、人を想うことも、人を殺すのも、行き着いてしまえばその根幹は、自分の為でしかないのだ。
だから、俺が困っている人を普通程度に見過ごせない人間で、人助けをしている人物だとして。
それは世間から見れば、客観的に見れば、優しい人間なのだろう。正義感のある若者で、善人なのだろう。俺自身、そういう俺は優しい人間なんだと思うだろう。どんな理由であれ、人を助ける俺という存在は、優しい。でも、それが主観でもなく、客観でもなく、本質として見るのならば、俺のそれらの行為の真因は、己の為でしかないのだということが簡単に分かる。
『誰が為にではなく、我が為に』
誰かの為ではなく、自分の為。自己満足の為であり、自分勝手な行動であり、自己完結する動作だ。
俺は自分の為になることにしか動かない。自らの為になると判断できれば、俺は動く。
――つまり、俺が優しいのは、自分に対してだけなのだ。
―――×××―――
このマダガスカル書店はここら一帯の地域でも中々に規模の大きい書店である。
近隣の人々には、ここに来れば大半の書物は揃うと信じられており、その信頼に応えるようにこの書店では、流行に乗った書物からマニアックな書物まで各種揃えており、かゆいところまで手が届くラインナップになっている。
なので、普段から幅広い年齢層の住民たちから利用されているこのマダガスカル書店は、そこそこの賑わいを見せており、毎日、たくさんのお客さんが訪れてくれている――のだけれど………。
「さすがにこの時間帯となると、人もいないよなぁ……」
現在、時計の短針は二を少しばかり通り過ぎ、閉店時間である三時までのカウントダウンを着々と刻んでいた。
「それにしても、どうしてこの店は三時なんて中途半端もいいところの時間を閉店時間にしているのだろうか……、さすがにこの時間となると来る客なんていないのになぁ……」
今まではこんな時間帯のシフトに入ったことがなかったので特に疑問を感じていなかったけれど、こうしてみると違和感しかない。
店長の与太話を聞き流してからからすでに二時間近くが経過していた。
そしてその二時間の間、客の数はゼロ。つまりは一人も来ていない。流石に、この深夜に特にやることもないまま二時間も立ち続けるというのは苦行以外のなんでもなく、すでに俺の精神力は限界に達しようとしていた。
そしてすべての原因――つか元凶であるところの店長はというと、休憩室で寝ています。
おーい、だれかあの『責任』とか『立場』とかそういう言葉をしっかりと理解できていないダメ社会人を殴ってきてくださーい。
まぁ、そんな願望が通じるわけもなく。一人淋しくレジにつっ立っていると客が入ってくるのが見えた。
黒縁メガネをかけた、高校生ぐらいの女の子だった。
(へぇ、こんな時間にも来る人がいるのか……)
と、感心しながらのんびりとしていると、その女の子はそそくさとレジにやってきた。
カウンターに置かれた、やたらとイケメンな半裸の男二人が描かれている小説と漫画を慣れた手つきでちゃっちゃとバーコードに通し、「ブックカバーはお付けしますかー?」 と営業スマイルでお決まりの定型文を言うと彼女は 「お願いします」 と一言。
ブックカバーを装着した本をレジ袋に丁寧に突っ込み、出された紙幣をレジスターに入れると、お釣りが自動的に吐き出される。
こういうのを見ると、つくづく便利な世の中になったなー。と実感させられる。
吐き出された――なんか表現が汚いな……――お釣りとレシートを渡すと、女性は嬉しそうに書店を後にした。
と、そこでようやく気付いたのだが、なんと女性の後ろには二人も並んでいた。
一人は大学生くらいの風貌をした……、まぁこれといって特に特筆するような特徴のない兄ちゃんと、もう一人は俺よりも年下ぐらいの、おそらく中学生ぐらいの中々カッコいい少年だった。
…………え、あれ? いつの間に? 気づかなかったよ俺。なにこいつら気配遮断でも使えるの?
そんな俺の混乱を無視し、大学生の兄ちゃんがカウンターに雑誌を三冊置いた。
わざわざこんな深夜に買いに来るなよ………とか思いながらバーコードを通して気づく。
メンズファッション誌二冊の間に、さながらサンドイッチの具のように挟まれているエロ本があった。
あぁ、なるほど………。うん、こりゃ確かにそうなるよな。
大学生ぐらいになれば気にしない人も多いのだろうけれど、やはりこういった類の本を人に見られて買うのにはいささかの抵抗があるのだろう。特にほら、この抱き合わせ商法を決行する辺り、この人は特にそういった関係を人に晒したくないのだろう。……その気持ち、分からないでもなかったりする。
俺は全てを理解した。若干だが、大学生を見る自分の目が優しくなっていると自覚できる。
そんな俺の目線に気付いていないのか、大学生は大学生でぼんやりと天井を眺めていた。
あれ、普通こういうときって店員の対応が気になったりするんじゃないの? 特にこんな深夜にエロ本を買いにくるような人なんだからもっと気にするんじゃね? なんでこの人天井仰いでるの?
とか疑問を抱きながらも大学生をはくと、次の中学生がカウンターにドンッ。と雑誌を置く。
十冊、全部エロ本だった。
「………………………」
不覚にも二秒ほど固まってしまった。
表紙を見るとそれぞれジャンルが違い、
上から、制服、熟女、ゴスロリ、コスプレ、レースクイーン、メイド、女社長、巨乳、姉モノ、後輩だった。
「………………………………………」
今度はたっぷり七秒も固まった。
これを見る限り、この少年がいかに多数の性癖を持った変態であるかが分かる。全然分かりたくなかった。ていうかこれ普通に十八禁なんだけど、見るからに中学生――せいぜい高校一年生のこの少年に売っていいのだろうかと疑問に思うのだが、まぁ、年齢を聞くのも面倒だし、いいか。という結論に至った。
人生は諦めが肝心だ。
諦めなくても試合は終了します。主に制限時間とかで。バスケとか特に顕著だろ。サッカーならまだロスタイムとかあるけれど、バスケだとそういうの無さそうじゃん。
俺は考えるのを放棄し、機械的にバーコードを通すことに徹しようとしたが、ふと、こんな大量にエロ本を買う人間というのが気になったので、そのご尊顔をしっかりと拝んでやろうと顔を上げると。
「……!」
少年は会心のドヤ顔をしていた。
危うく、本気でぶん殴るところだった……。
どうしてドヤ顔なのかと聞かれれば、俺が明確にその理由を述べることはできないが、少年の顔がそれを表情だけで意訳が可能なほどに、雄弁に物語っていた。
『俺のチョイスに死角はない!』
と、だ。
そもそもお前にはこの雑誌を買う資格がないけどね。とか言ってやろうかと思った。思い留まった。
その後は流れ作業で、会計を済ませ、量が多いので二つの袋に分けて雑誌を渡す。
少年はエロ本を買った後の少年らしからぬ、しっかりと、堂々とした、胸を張った、自分に恥じる箇所など一つもないといった態度で店のドアをくぐっていった。少しは恥じれ。そして補導されろ。
「なんだったんだろうか………」
俺は、そんな呟きを漏らしてしまうくらいにその少年に対して辟易していた。
―――×××―――
といった感じで、その後は特にこれといった出来事はなく、俺のバイトはつつがなく終了した。
俺の日常はこんな感じだ。
夏休みということで少しばかり、学校生活のある日々とは過程が違うけれど、それでも、その違いは学校に通っている時間が無くなって、その時間を違うことに充てているぐらいの些細な違いだ。
充てている違うことだって、バイトだったり、勉強だったり、娯楽だったり、友人との談笑だったり、散歩だったり、普段はしない料理に凝ってみたりで、別に特筆することもないような、ありきたりで、行き当たりばったりで、無計画で、無個性で、けれど楽しくて、充実していて、満喫できるような毎日だ。
だから俺は、バイト帰りにそんなことを思って、
「俺はこれからもこんな毎日を送っていくんだろうなー」
とか、柄にもなく、キャラでもないくせに、そんなことを考えてしまって、そんなことを口に出してしまったのが、最初の間違いだったのかもしれない。
ほら、あれだよ、最近よく耳にするようになったフラグってやつだ。
多分、俺はその時点で、そのフラグというのを建ててしまったのだろうと思う。
そうして、俺の日常はあっけなく幕切れ、俺が望んでいるわけでもなかった非日常が幕を開けた。
――さようなら、平凡と怠惰と惰性の、俺が愛してやまなかった日々よ。
――ようこそ、流血と暗涙と絶命の、俺が知るはずのなかった死の世界へ。
ここから始まる物語に、ハッピーエンドはありえない。
その確率は零でしかなく――、奇跡は起こりえない。偶然は許されない。
その運命はとっくの昔から決まっていたことで、俺程度でも、殺戮鬼程度でも、変えることは不可能で、不可避なほどに決まっていることだったのだ。
俺の日常が、瓦解を始めました。